影にかがよふ

九州北部ではなごり雪が降ったそうである。
私の住む街にも、あられが疎らに降っていた。
これから春になるのだろう。

音階を伴った声や、まだ訪れたことのないふるさとの樹氷を思わせる色、
この街にはないそれらをどんな風に位置づけたところで、また評価しようとしたところで、到底変えられないことがある。
それらのことが、私にとって懐かしい思い出でもあり、私の内部にある様々なものごとを規定しきっている、ということである。
それはまごうかたなき価値のあることであると、今なら強く宣言できる。

時間によって様々なことが濾過されていく中で、それでも今こうして手もとに残ったものが、きらびやかで落ち着いた気持ちになれる思い出ばかりであることに私は驚いた。その時から最近までずっと、これからも君のことを憎んで生きていくのだろうと思っていたから。
空間的・時間的に距離をとってみて初めて、楽しかったという印象だけが残る――そんな関係はそう簡単に作れるものではない。ここに至って初めて、その期間にさざめいた無数の出来事の点綴を、半ば活けづくりみたいにして、その色味だけを残すことに成功したのかもしれない。

私はもう、君と会うことはないだろう。
君にとって私にまつわる思い出なんて決して、そんな色味を帯びてはいないだろうから。
そして、私が犯した罪は決して、時間によってさえ意味を失いはしないから。

心に固く積もっていた深い根雪が、春とともにゆっくり溶け出して、私はその雪解け水の冷たさにおどろいた。

海王星

昨年末に11歳になった犬が、参考書を読んでいる私の足下で丸まって寝ている。
時折不安になってまじまじとお腹のあたりを見つめると、かすかに膨らんだりしぼんだりしているのが認められて、安心して目を文字の上に戻す。犬も夢を見るという話を思い出したが、誰にどこで聞いたかは忘れてしまった。
熱めのコーヒーを飲んで、黙然と文字を読む。外は晴れていて、国道を走る車の数はまばらである。
穏やかで、なにごともないと思う。

午後。祖父母が家を訪れた。
私と祖父はテレビを見ていた。どこか老舗の温泉旅館で、タレントが料理を食べている。
祖母と母は、(私から見て)甥っ子の話をしていた。
「自閉症の傾向があるって診断されて。普段はどうもないんだけれど、カッとなったら顔をひっかくやら物は投げるわで」
それから話題は別の人のことに移った。
「若いのに、ガンだって言われて、それで旅行にも行けなかったって」
祖父がそこで「ガーン」と茶々をいれて、母はそれを軽くたしなめた。
祖父はしゃがれた声で笑った。

帰りの時間になって、祖父母は二人とも急な階段をゆっくり下りていった。
「しんどい」と言って祖母は笑った。
その笑顔をみて私も少し笑った。
私と母は、二人の車が見えなくなるまで見送った。
見送ってから、私と母は特に言葉を交わすこともなく、別々の部屋に戻った。

犬も、祖父母も、母も、私も、今は当たり前に存在している。
そんなことをぼんやり考えているうちに、なんだか私はどこか知らない天体の上を歩いているような感覚になった。

濁り・さざめき

または、そもそも「人間関係なんてものは、どんな形式であれ一時的なものである」と割り切った視点で見てみるのもありかもしれない。
特別な関係に限って壊れてしまう、というのはある種の思い込みである。
特別だろうが一般だろうが、関係というものはしかるべき時期が来たら消えていくものなのである。
その消え方が、フェードアウト的に消えていくか、ある日突然なくなるか、外形だけ残して内面の感情は枯れてしまうような寂しい消え方をしているか、みたいな違いがあるだけだ。
特別な関係も、そんな一般の原理にしたがって同じように消えてしまうってだけの話で、ただその関係が特別であったがゆえに、ときおり引き出しから取り出してとりとめもなくあれこれ考えてしまうだけなのだ。特別であったがゆえに、「壊れた」「壊した」なんて表現を使ってしまいたくなるだけなのだ。

しかし、それを出来るだけ長引かせたい、植物を出来るだけ枯れさせないために絶え間なく水を絶やさないようにして、豊かさを維持し続けたいと願うのは、言うほど徒労でもなく、不当でもないだろう。
不可抗力で簡単に壊れてしまうこともあれば、主として自分のせいで壊してしまうこともあるだろう。
その「自分のせいで」壊れるリスクだけでも減らそうと思うのは、そこまで間違っているとも思えない。

たとえば、「見返り」を求める気持ちとどう戦うかという課題も、その目標を達成する1つのアプローチとなりえよう。
誰かに優しくするということは、その分見返りを求めてしまうものであり、その見返りが不十分だったときに生まれる感情の濁りにどう対応すべきか。
「見返りを求めているわけじゃないけど、自分のはたらきかけが全く無碍にされるのも腹が立つ」
という感覚は、ほとんどの人が持っていると思う。この感覚って、けっこう頻繁に、関係を考え直させるきっかけになっているように思うけれど、これはテクニカルな処理で対応出来るのかな。具体的にどうすべきかは出てこないけど、なんとなく出来そう。

「優しくしたときに、何らかの形で反応を欲する」というのはおそらく本能に近い。
指先に棘がささったときに痛いと感じるのとほとんど同じ原理だと思う。
したがって見返りを求める自分を否定する、という方向性では上手くいかない(反動がくる)。

何かしらの優しさをみせるときに、
「たとえ見返りがなくとも、その行動をするだろうか?」
ということを一瞬立ち止まって考えるのはアリだろう。
また、「特別な関係にある人がそういう優しさを自分にみせてくれたときは、相当の反応を返そう」と決めるのも1つの手だ。
この2つはいずれもテクニカルな処理(つまり、精神論か行動論かで言えばかなり行動論寄りな対応)といえる。

思いやり

『アナと雪の女王』のテーマの1つに、「"an act of true love"とは何か」というものがある。
その『アナ雪』的答えはオラフの台詞でも端的に示されているとおり、
「愛っていうのは、自分より人のことを大切に思うことだよ」
である。

ディズニープリンセスが登場する、『白雪姫』から綿々と続くそれまでのディズニーの王道ともいうべき作品群で繰り返し表現されてきた愛に比べて、『アナ雪』が示した愛はかなり違っている。それまでのものと比べると、より広く、ありふれた愛のかたち。

私は『アナ雪』を観て感動した。そして観かえすたびに感動しなおした。
この自己犠牲的な愛こそが愛なのだと。

しかし、初めて『アナ雪』を観たときと今同じ作品を観るときとで、私の立場では1つ大きく異なるポイントがある。
私は自己犠牲的な愛を施すことが出来ない側の人間である」ということを、今の私は充分に認識している。
そして、初めてこの映画を見た3年ほど前は、私はそれが出来る人間だと無意識に考えていた。

自己犠牲的な愛には、どうして価値があるのか?
私なりの答えとしてそれを体得するためには、「私の愛にはどんな『嘘』があったのか」ということを検討しなくてはならない。
このまま振り返ることなく捨て去りたいと願ってやまない記憶に向き合って、何か核となる「嘘」を抽出せねばならない。

とりあえずの結論としてはこうである。
「私の愛は自己犠牲的に見えるだけで、その実質にはエゴが含まれていた」
「エゴを突きつけるタイプの愛を持ち、それに基づいた言動をとること自体は何ら罪ではない」
「自分の愛にエゴが含まれていることに、自分自身でまったく気付いていなかった」
「自分にはエゴを突きつける愛という『技術』がない」

したがって、
自分独自のエゴを自覚し、分析し、場合によってそれを突きつける技術も勇気もなかったがゆえに、私の言動は「反射的に」自己犠牲っぽく見えるものとなっていたが、それは本質的な「相手を思いやる心」から生まれた言動ではなかった。さらには自分自身で本当に自己犠牲的な愛を達成できていると思い込んでいた。したがって最終的に、互いを必要以上に傷つけ、稀有な関係が破壊されるにいたった。

(そして、当面の仮説は次のとおりである。
「エゴを突きつけるタイプの愛と、自己犠牲的な愛には、つながりがある」
もしその答えが分かったら、その中に自己犠牲的な愛の価値を見定める鍵があるのではないだろうか)

図形にすれば一瞬で解ける数学の問題を、わざわざ数式を駆使して代数的に解こうとしているかのような不毛感がある。多数の健全な人々ならば、それを「経験」というかけがえのない機会を通して体得していくのだろう。
そして私はそれが出来ていない。
こんなに考えているにもかかわらず、全く言動にはうつせていない。

全くの無駄ってわけでもないけど、なんだかそれってあんまり意味がないなと思う。

呪い

『アナと雪の女王』と『もののけ姫』を観た。
一度ちゃんと集中して観たときからだいぶ時間がたってからまた観てみたが、どちらも色褪せないなぁと感じた。

図らずも、この2つの映画には共通するテーマがあって、それは「いかにして人は自分にかけられた『呪い』と立ち向かうか?」というものである。
エルサは氷の魔法という呪いに、アシタカはタタリ神にかけられた呪いに、それぞれ立ち向かっていく。
それぞれの作品で示唆された、その問いに対する答えは、ニュアンスの違うものだったように思えるけれど、エルサもアシタカも「呪い」にもがきくるしみ、そして克服する。
その姿はとても美しいし、私にとっては1つの道しるべになりえるだろう。

新居にうつってから1年3ヶ月。ずっとネット環境がなかったのだが、本日遂にwi-fiを導入した。
直前の記事を書いてから4日後に引っ越し、このブログからはだいぶ遠ざかってしまっていたが…(といっても、多分これからも、それほどの頻度で更新することもないだろう)。

6月に入ってから、公務員の試験が3つある。
そのうちの2つが結果待ちで、あと1つの試験が次の日曜日にある。
なんとか頑張りたい。

25歳。

家でふんわり鏡月アセロラ味を爆呑みしながら録画してた『魔法にかけられて』を見ていたら、いつのまにか記憶と意識を飛ばし、今朝寝ゲロの海の中で目覚めた。
二日酔いと吐瀉物の刺激臭に苦しみながら迎えた朝。年を重ねた初日に喉つまらせて死ぬとかちょっと笑えない。

ところで、無事に大学を卒業できるとのこと。
「大学を卒業」というのは別に報告するほどのことでもないけれど、3浪したのだからせめて大学くらいはストレートで卒業してやろうとずっと思ってて、成績悪くて全く興味のない学科に飛ばされ、卒論も単位数も不安で大学やめちゃおうか本気で悩んだ時期もあったので、個人的には結構嬉しいし、ちょっとした誇りでもある。

卒論口述試験

卒論の口述試験が終わった。
ろくでもない卒論だったけれど、いつもの卒論ゼミみたいな感じだったのでほっとした。

10時半に大学を出た。東京の狭い空には珍しく、突き抜けるような良い天気だった。
これで、あと一本簡単なレポートを提出すれば、あとはもう(何かの手違いで単位を落としていなければ)卒業式を待つだけとなる。

こうしていざ諸々の事が終わってみると、なんだかのほほんと過ごしてしまった4年間だったなぁと思う。
かといって後悔しているわけでもない。やり直したところで同じような生き方をしていただろうからである。
こんな風にして私は生きていくのだろう。

学費の相談をするために学生会館に寄ったとき、ガラス張りのダンス部の部室の光景が目に入った。
強いて悔いをあげるとするならば、サークルには入っておけばよかったのかなとも思う。それが楽しいものであろうと、つまらないものであろうと、人と交流できる機会は今よりずっと多かったはずだからである。

そういえば、大学の学食も、ついに一度も利用することはなかった。


***

駅の近くのカラオケ店によって、ヒトカラをしてきた。
珍しく(点数的な意味で)調子が良かった。

店を出るときに、どこかでイヤホンを落としたことに気付いた。
久しぶりに音楽を聴かずに街をあるくと、案外この街も昼間は静かなんだなぁと感じた。

あたらしい人生、楽しむ気持ちを忘れずに。

『白い巨塔』

課題のレポートの関係で、久しぶりに『白い巨塔』(2003年のテレビドラマ版)を見た。
見たといっても最後の3話だけであるが。

『白い巨塔』は10年以上も揺らぐことなく、私が一番好きなドラマである。
色んなテーマ性を孕んだ作品であることは間違いないけど、今回またじっくり鑑賞してみて、畢竟これは財前の「男としてのかっこよさ」の物語なのだろうなと感じた。全てがかっこいい。
どこまでも野心家で、ずば抜けて実力があって、したたかで。でも弱さもあり、逆にそこに強い人間味があって。

最終回では、財前の母親が財前の死に顔をみて、「五郎、よく頑張ったね」と言うシーンで泣いてしまった。

スーパースター

水族館の女の子(http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-1000.html)との、その後について。

結論から言えば、「友達から」というかたちになった。

***

1月に予定していた4度目のデートが「予定が出来た」ということで無くなり、2月に予定していた映画のデートも「予定が」ということで潰え、私はこの段階ではっきり負けを確信した。
また、1月以降に、その子に少なくとももう2人の男がアプローチを掛けているということを知った。

私はわりと穏やかにその子のことを好きになってきたつもりだったけれど、他の男が近づいていることを知って極度の嫉妬を覚えた。ここまで自分の気持ちが大きくなっていたのをそのとき初めて知った。何も考えられなくなって、せめて自分が先に想いを伝えておこうと決めた。負けを確信しての告白は正直したくなかったけど、何も伝えられないよりはましだと思った。

その子の答えは、
(私は)「一緒にいるのは楽しい、安心感があって、優しくて、頼りがいがあって、けれど好きかどうかと言われると、そういう感情とは違っている。お兄ちゃんみたいな感じ。人間としては好きだけど、男としては好きではない」
というものであった。
そして、
「付き合うことも選択肢としてはあったけれど、こういうあいまいな感情のまま付き合うのは互いにとって良くない」
「気をもたせるのは悪いし、告白されて関係が壊れるのがとても嫌だったから、デートは断ってきた」
「きっぱり断ることが出来なくて、自分は最低だと思う」
とのことであった。

私は「あきらめない」と宣言したうえで、

・デートしてきたからといって私が「気を持つ」なんてことはない。可能性なんて関係ないほど好きになってる(付き合えなさそうならあきらめる、なんてことが出来ないほど気持ちが発達しているということ)
・その子のことは、たしかに異性としても好きだけど、友達としても好きである。告白が失敗したからといって友達としての関係まで崩れる必要なんてないし、気まずさを感じることもさせない。
・一緒にいて楽しいというのは何よりも大事だと思っているけど、あなたがそれを感じてくれてるのがとても嬉しい

ことを伝え、だから「嫌だからデートに行きたくないというわけじゃないのなら、(あくまで友達として)映画観に行こう」といったら、行きますと言ってくれた。

一般的に、しっくりこないまま付き合ってそれから好きになっていくというパターンは多い。
だからここで、「付き合おう」と言うこともできたけど、私自身が逆の立場なら、しっくりこないまま付き合うことは出来ないだろうし、自分が出来ないことをその子に押しつけることは出来ないと思った……ということも、本人に直接言った。努力でどうにかなる問題じゃないのかもしれないけれど、いつか絶対に再挑戦するし、そのためには出来るだけのことはするとも言った。でも今は無理であるという現実も受け入れるとも言った。

他にアプローチしている男のことについて聞いたら、どっちも「無いなって感じです」ということで、ひとまずは安心した。

私は、こんなに素晴らしい子をちゃんと好きになれた自分のことも好きになれた。
それで傷つくことは覚悟の上だから、誰かを恨んだり憎んだりするなどということはない。
「一緒にいて楽しい」は確実に、上位の感情に転換する可能性がある。だから、その可能性が少しでもある限りはそこに掛けたいし、それくらい価値のある子だと感じている。

付き合うことは出来なかったけれど、「2人で会う」関係は保つことが出来たし、他の男が寄ってきても自分のことを思い出してくれるくらいには全力で想いを伝えることができた。とりあえずは打ち明けられて満足である。この告白が、何かのきっかけになれればよいなと思う。異性としての関係に発展すればそれはとても嬉しいけれど、たとえこのままそうならずとも、きっとそれはそれで、この2人はかけがえのない関係になるだろうなと感じている。

自分がこの恋愛を通して成長できたのもとても嬉しかった。
少し前まで、女の子を誘うなんて自分にも他人にも想像さえ出来なかったようなレベルの低い男が、いまや「一緒に居て楽しい」と思わせるほどにまでなれたのがすごくありがたいことのように感じる。周りの応援のおかげである。

そして、その子とやっと本音で語り合うことができたのもとても嬉しかった。
別れ際に、「これからもよろしくね」といってその子と握手したのだが、その手が死ぬほど柔らかくて、この柔らかさは一生忘れたくないなと思ってしまった。




※注釈:「水族館の女の子」に関する過去記事。

実はもう1人気になる子がいる。交際経験は1人で(注:実は2人)、彼氏を欲しがっている。
とてもしっかりしていて、好意的な反応をするのが上手く、そしてなによりも、そこまで強く外見に気を遣ってる風でもないのにもかかわらず、キレイで可愛い。しかるべき努力をすれば到底私の手には負えないくらい高いレベルの女性になるだろうなという感じ。
ここまでの逸材なのにまだ誰も手を出していないのが不思議なのだが、ともかくこの子の存在も頭の片隅にはある。

距離感はどうかというと、明らかに人間的な好意は持ってくれてるけど、恋愛的な「気になる」には全然達していないだろう。
頑張って「為コミ①~方法論編」で書いたことを意識しながら接して、「誘える閾値」を確実に越えるようにしたいけれど、ぼさぼさしてたらすぐに取られちゃう気がする。

(恋愛観②:興味のベクトル:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-965.html

その子は外見・内面・振る舞い・頭の良さ・面白さという、私が大切だと思う項目全てにおいて満点を付けられるくらいの存在であった。ここまでポイントが自分の中で高いと、逆に私はあきらめる。私程度の男では到底手におえないと考えてしまうからである。だから私はこの子のことを好きになることはない、と思っていた。その子のまだ都会慣れしていない感じが他の男に受けないのか知らないが、その子には彼氏がいなかった(いない)が、もしそのある種の野暮ったさが抜けて洗練されてきたら、もう私の手には届かないところに行ってしまうだろうと感じていた。

ここまでレベルの高い子を好きにはならない、そう感じていたとはいえ、やはり私は2人をたびたび無意識に比べてしまったし、そのたび自分の「ライブの子」に対する感情が、もはや「仮」にすらなり得なくなっていることを悟った。こんなにどストライクで素晴らしい女の子、しかも今を逃せば一生アプローチ出来ないかもしれないくらいポテンシャルの高い子を見ないふりをして、好みでもなければ可能性も低い子をそこそこのやる気で追いかけるのは、かなり難しいことではないのかと。

(ライブのはなし:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-981.html


9月12日:対抗の子を水族館のイベントに誘う。OKもらえた。
(中略)
結局、9月にBにアクションを起こす。
初回では、デートスポットのチョイス、誘い方、誘うタイミング、どれをとっても我ながら非の打ち所の無い誘いが出来た。ここまで上手に誘えたことはなかった。幸運なことにBも「ちょうどそれに行きたいと思ってたけれど、誰かと行く予定はない」という都合の良すぎる状態だった。
それから実際にイベントを見に行き、夕食を食べ、もとから外見・内面・振る舞い全てAよりBの方が好みだったのだが、相性もBの方がぴったりくるなと感じた。
この3ヶ月の間で5人の女の子と合計10回デートに行って思ったことだが、2人きりでデートに行ったときに感じたことは嘘をつかない。どんなによさげに見えても「2人きり」がつまらなかったらその関係性に未来はないし、2人きりが楽しいということは何よりも大きな事実となってくる。

まだAとの2人きりを経験してない段階で、私の中で「本命-対抗」は逆転した。
Bを本命に据えて、本命だったAが対抗となる。
(中略)
昨日がBとの2度目のデート。夕食→映画→居酒屋、という流れ。
前回の反省だった「自分から話題を振る」「相手の子の面白さをもっと引き出す」「褒める」の3点も全部こなせたし、正直3度目のデートは絶対に断られない自信があった(実は2度目の映画デートを誘うときはだいぶ日和った)。

(昨日と今日:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-980.html
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