海王星

昨年末に11歳になった犬が、参考書を読んでいる私の足下で丸まって寝ている。
時折不安になってまじまじとお腹のあたりを見つめると、かすかに膨らんだりしぼんだりしているのが認められて、安心して目を文字の上に戻す。犬も夢を見るという話を思い出したが、誰にどこで聞いたかは忘れてしまった。
熱めのコーヒーを飲んで、黙然と文字を読む。外は晴れていて、国道を走る車の数はまばらである。
穏やかで、なにごともないと思う。

午後。祖父母が家を訪れた。
私と祖父はテレビを見ていた。どこか老舗の温泉旅館で、タレントが料理を食べている。
祖母と母は、(私から見て)甥っ子の話をしていた。
「自閉症の傾向があるって診断されて。普段はどうもないんだけれど、カッとなったら顔をひっかくやら物は投げるわで」
それから話題は別の人のことに移った。
「若いのに、ガンだって言われて、それで旅行にも行けなかったって」
祖父がそこで「ガーン」と茶々をいれて、母はそれを軽くたしなめた。
祖父はしゃがれた声で笑った。

帰りの時間になって、祖父母は二人とも急な階段をゆっくり下りていった。
「しんどい」と言って祖母は笑った。
その笑顔をみて私も少し笑った。
私と母は、二人の車が見えなくなるまで見送った。
見送ってから、私と母は特に言葉を交わすこともなく、別々の部屋に戻った。

犬も、祖父母も、母も、私も、今は当たり前に存在している。
そんなことをぼんやり考えているうちに、なんだか私はどこか知らない天体の上を歩いているような感覚になった。

濁り・さざめき

または、そもそも「人間関係なんてものは、どんな形式であれ一時的なものである」と割り切った視点で見てみるのもありかもしれない。
特別な関係に限って壊れてしまう、というのはある種の思い込みである。
特別だろうが一般だろうが、関係というものはしかるべき時期が来たら消えていくものなのである。
その消え方が、フェードアウト的に消えていくか、ある日突然なくなるか、外形だけ残して内面の感情は枯れてしまうような寂しい消え方をしているか、みたいな違いがあるだけだ。
特別な関係も、そんな一般の原理にしたがって同じように消えてしまうってだけの話で、ただその関係が特別であったがゆえに、ときおり引き出しから取り出してとりとめもなくあれこれ考えてしまうだけなのだ。特別であったがゆえに、「壊れた」「壊した」なんて表現を使ってしまいたくなるだけなのだ。

しかし、それを出来るだけ長引かせたい、植物を出来るだけ枯れさせないために絶え間なく水を絶やさないようにして、豊かさを維持し続けたいと願うのは、言うほど徒労でもなく、不当でもないだろう。
不可抗力で簡単に壊れてしまうこともあれば、主として自分のせいで壊してしまうこともあるだろう。
その「自分のせいで」壊れるリスクだけでも減らそうと思うのは、そこまで間違っているとも思えない。

たとえば、「見返り」を求める気持ちとどう戦うかという課題も、その目標を達成する1つのアプローチとなりえよう。
誰かに優しくするということは、その分見返りを求めてしまうものであり、その見返りが不十分だったときに生まれる感情の濁りにどう対応すべきか。
「見返りを求めているわけじゃないけど、自分のはたらきかけが全く無碍にされるのも腹が立つ」
という感覚は、ほとんどの人が持っていると思う。この感覚って、けっこう頻繁に、関係を考え直させるきっかけになっているように思うけれど、これはテクニカルな処理で対応出来るのかな。具体的にどうすべきかは出てこないけど、なんとなく出来そう。

「優しくしたときに、何らかの形で反応を欲する」というのはおそらく本能に近い。
指先に棘がささったときに痛いと感じるのとほとんど同じ原理だと思う。
したがって見返りを求める自分を否定する、という方向性では上手くいかない(反動がくる)。

何かしらの優しさをみせるときに、
「たとえ見返りがなくとも、その行動をするだろうか?」
ということを一瞬立ち止まって考えるのはアリだろう。
また、「特別な関係にある人がそういう優しさを自分にみせてくれたときは、相当の反応を返そう」と決めるのも1つの手だ。
この2つはいずれもテクニカルな処理(つまり、精神論か行動論かで言えばかなり行動論寄りな対応)といえる。

思いやり③

私の自己犠牲的な愛に見えていたモノが、実は純然たる自己犠牲的精神に根ざしたものではなく、自分のエゴを主張できないがゆえに「反射的に」(つまり、仕方なくそうせざるをえなかったという意味で)自己犠牲っぽく見えてる



――ということまで考えて、
「もし、エゴ突きつけ型の愛が出来るようになったとして、それでも自己犠牲を選ぶだろうか?」という疑問が生まれる。

自由に選べるという立場に立ったとき、
人はその選択肢の中では最も直感的な自分の意志に合致したものを選ぶのではないだろうか。

ということは、「選べる/選べない」の問題じゃないってことか。
選べるようになったからといって、自己犠牲が真実性を獲得できるわけじゃなくて、
むしろ私の自己犠牲は嘘だってことが完全に証明されるってだけでしかない。
それどころか、(善悪はどうであれ)自己犠牲をしようと挑戦することさえしなくなるだろう。

そもそも、自己犠牲的な愛を施したいという考えそのものが、もうすでに相手をないがしろにしてるのではないか。
自己犠牲型なのかエゴ突きつけ型なのかって、そんなに大きな問題か?
自分の利益を優先するか劣後させるか、という視点が既に不十分というか不適格というか。

スタート地点に戻るためには、どうしてこの問題を考える必要に迫られているのかということを思い出さなければならない。
「大事な人との関係を、もう2度と壊したくない。そのためにはどうすればよいか?」ということだった。

私なりの、今の結論から言おう。

相手の気持ちと、自分の気持ちをどっちも大事にする。
自分の気持ちばかりを優先して相手の気持ちをないがしろにするというのは、もちろん関係としては不健全だし、相手の気持ちばかりを優先して自分の気持ちをないがしろにすると、反動がくる。

しかし、こうして書いてみると、実にありきたりで、しかも難しいですね。
自分の気持ちの正当性をどう確保するのか。言い換えれば、自分の気持ちには色々なレベルのものがあるけれど、そのうちのどれを大事にするに値するものだと判断すべきなのか。また、その判断基準はどこに求めるべきなのか。

思いやり②

私の自己犠牲的な愛に見えていたモノが、実は純然たる自己犠牲的精神に根ざしたものではなく、自分のエゴを主張できないがゆえに「反射的に」(つまり、仕方なくそうせざるをえなかったという意味で)自己犠牲っぽく見えてるだけだというのは前回の記事のとおりである。
もちろん後者が100%というわけではないにしても、大部分を占めているという感覚はある。

そしてそれがどうして問題なのか?どういう場面で問題になりえるのか?というと、①特別に重要な人間関係において②どうしても、自分のエゴを突きつけなければならない状況で、「自分のエゴをないがしろにする」ことによって、のちのち大きな反動を呼んでしまう。

だから、自己犠牲っぽい思いやりは、問題なのである。

(特別に重要というわけではない人間関係において、自分のエゴを無視するとどうなるかというと、たしかに反動は来るけれど、その人間関係が喪われるということは互いにダメージも少ない。なので問題たりえないことが多い。
特別に重要な人間関係において、自分のエゴとは関係のない思いやりは、そもそも問題にならない。これは言うまでもないだろう)

純粋な自己犠牲的な愛を目指すのは、正直にいってかなり難しいうえに、私がそもそも目指しているモノとは違っている、ということを考えるなら、むしろ自分のエゴを自覚して、それを突きつける技術を身につけた方がよいはずである。多分そっちのほうが、互いに互いを好きでいつづけられるのではないだろうか。

ただし、この「自分のエゴを自覚する」というのは、想像するより何倍も難しいことであるように思われる。

その理由を説明するのは今の自分では上手くいかないけれど、あえて説明するなら、
「理想化された人間に対しては、私はエゴを全く抱かない」からなのだ。
この特性が私の関係性についての考え方を複雑たらしめていると言えるだろう。
そもそも、この特性が正しいのかどうかすら私自身では分からないし、実際私は基本的には本当に、びっくりするくらい自己犠牲的であるから。
初めは真に自己犠牲的な精神でもって接しているのに、時と場合によっては最初は存在しなかった(のか?)エゴまで取りかえすくらいの勢いで接し始めるみたいなの、よく分からなさすぎて笑える。
いずれにしても、もしエゴに関してのこの捉え方が正しいとすれば、その「時と場合」を特定することさえできたら、それをピンポイントで避けて、高い精度で自分をコントロール出来るようになるはずだけど。どうなんでしょう。

救済

「どうすれば、自分は救われるのか?」

という、私にとっては文字通りの命題について、どのようなアプローチを試みるべきなのか。

十代のある時期から私の心に巣食っている感覚、なんとなくそれは不幸感というよりも「不救済感」とでも呼ぶべきもの、それを拭うためにはどうしたらよいのだろうか。
それを考えるためには、いくつかの課題をクリアしなければならないだろう。

①その「不救済感」こそが私の生きるモチベーションとなっている半ば逆説的なこの現状を踏まえて考えるに、果たして「不救済感」を取り除くことが私の人生を救済するのか?

②おそらく私の「不救済感」というのは、内面的・精神的な問題(つまり、何かしらのステータス的なもの(お金、学歴、名誉、恋愛など)を手に入れたからといって消え去るものではないという意味)であるという仮説がある。しかし、それが正しいということを理屈ではなく体得するためには、実際にそれらのステータスを手に入れなければならない。そのジレンマをどう解決すべきなのか?

つまり、この「不救済感」は心持ち次第でどうとでも出来る問題だ。また逆に、どんなにお金があっても、どんなに豊かな人間関係があっても、自分の中にある「不救済感」を根本的に無くすことは出来ないはずだ。たぶんこの考え方は間違っていない気がする。だからそういった通り一遍の達成を積み重ねていくという方向性で人生を組み立てていったところで、私が救われる(というより、救われた!という感覚を得る)ことは期待できない。

…そうか、これは根本的に解決することは不可能に近いことなのだ、ということに思い当たって、

「じゃあ、その『不救済感』とやらを、全くのゼロにすることは出来ないとしても、少なくすること、あるいはその感覚に苛まれる頻度を減らすことくらいなら簡単に出来るんじゃない?」

と考えた。
全か無かの二極で考えないように。
そこに強い「境界」を引きすぎないように。
アプローチの視点を自由に移動できるような感覚が生まれた。
理論的には瑕疵があっても、極めて実践的な考え方。

では、今まで生きてきた中で、自分が「生きていてよかったな、自分は自分でも大丈夫だな」と思えたのはどういうときだっただろうか?
(そういう機会を増やしていけば、根治は難しくても対症療法としては充分なのではないか?)


思いやり

『アナと雪の女王』のテーマの1つに、「"an act of true love"とは何か」というものがある。
その『アナ雪』的答えはオラフの台詞でも端的に示されているとおり、
「愛っていうのは、自分より人のことを大切に思うことだよ」
である。

ディズニープリンセスが登場する、『白雪姫』から綿々と続くそれまでのディズニーの王道ともいうべき作品群で繰り返し表現されてきた愛に比べて、『アナ雪』が示した愛はかなり違っている。それまでのものと比べると、より広く、ありふれた愛のかたち。

私は『アナ雪』を観て感動した。そして観かえすたびに感動しなおした。
この自己犠牲的な愛こそが愛なのだと。

しかし、初めて『アナ雪』を観たときと今同じ作品を観るときとで、私の立場では1つ大きく異なるポイントがある。
私は自己犠牲的な愛を施すことが出来ない側の人間である」ということを、今の私は充分に認識している。
そして、初めてこの映画を見た3年ほど前は、私はそれが出来る人間だと無意識に考えていた。

自己犠牲的な愛には、どうして価値があるのか?
私なりの答えとしてそれを体得するためには、「私の愛にはどんな『嘘』があったのか」ということを検討しなくてはならない。
このまま振り返ることなく捨て去りたいと願ってやまない記憶に向き合って、何か核となる「嘘」を抽出せねばならない。

とりあえずの結論としてはこうである。
「私の愛は自己犠牲的に見えるだけで、その実質にはエゴが含まれていた」
「エゴを突きつけるタイプの愛を持ち、それに基づいた言動をとること自体は何ら罪ではない」
「自分の愛にエゴが含まれていることに、自分自身でまったく気付いていなかった」
「自分にはエゴを突きつける愛という『技術』がない」

したがって、
自分独自のエゴを自覚し、分析し、場合によってそれを突きつける技術も勇気もなかったがゆえに、私の言動は「反射的に」自己犠牲っぽく見えるものとなっていたが、それは本質的な「相手を思いやる心」から生まれた言動ではなかった。さらには自分自身で本当に自己犠牲的な愛を達成できていると思い込んでいた。したがって最終的に、互いを必要以上に傷つけ、稀有な関係が破壊されるにいたった。

(そして、当面の仮説は次のとおりである。
「エゴを突きつけるタイプの愛と、自己犠牲的な愛には、つながりがある」
もしその答えが分かったら、その中に自己犠牲的な愛の価値を見定める鍵があるのではないだろうか)

図形にすれば一瞬で解ける数学の問題を、わざわざ数式を駆使して代数的に解こうとしているかのような不毛感がある。多数の健全な人々ならば、それを「経験」というかけがえのない機会を通して体得していくのだろう。
そして私はそれが出来ていない。
こんなに考えているにもかかわらず、全く言動にはうつせていない。

全くの無駄ってわけでもないけど、なんだかそれってあんまり意味がないなと思う。

呪い

『アナと雪の女王』と『もののけ姫』を観た。
一度ちゃんと集中して観たときからだいぶ時間がたってからまた観てみたが、どちらも色褪せないなぁと感じた。

図らずも、この2つの映画には共通するテーマがあって、それは「いかにして人は自分にかけられた『呪い』と立ち向かうか?」というものである。
エルサは氷の魔法という呪いに、アシタカはタタリ神にかけられた呪いに、それぞれ立ち向かっていく。
それぞれの作品で示唆された、その問いに対する答えは、ニュアンスの違うものだったように思えるけれど、エルサもアシタカも「呪い」にもがきくるしみ、そして克服する。
その姿はとても美しいし、私にとっては1つの道しるべになりえるだろう。

私には、自分にとって大切な人を大切に出来ないという特性がある。
大切な人というのは、自分がこの人とは関係を続けていきたいと思える人だったり、あるいは自分との関係を大事にしてくれる人のことである。

「理解すればするほど、その人のことを好きではなっていく」という、いわば人間関係の一般原理もはたらいているのかもしれないが、どうもそれだけではないな、という感覚が、特にここ数年はあった。私自身に特有の、ある明確な心の欠点があるのではないかという考えがずっと心の中にあった。

私と出会ったばかりの人はたいてい、私を「いい人」「話しやすい」と評してくれる。
そういった類のことを言われるたびに、内心ではこの人たちを裏切ってしまうのだということが念頭にあって、恐怖していた。

実際の所、ほとんどの人とは「程よく」仲が良いままである。
しかし、意図的にしてもそうじゃなくても、強く踏み込んだ関係にはなっていない。

なぜ、私は大切な人に対して冷酷な態度がとれるのか。
自分の中でその人物が重要度を増していけばいくほど、私の中ではその人に対する理想化が始まる。
これは恋愛に限ったことではなく、通常の人間関係においてもそうである。

だからこそ、その理想が壊れる場面に立ち会ったとき、心が異常なほどの反発を見せるのである。
その人が弱みを見せたとき、私はそれを許すことができない。
どうでも良い人が弱みをみせてくれたときは、穏和で・適切な対処が出来て、結果として仲は深まるのだが、それは私が相手のことを理想化するほど大事だとは思っていないからなのだ。
私にとって本当に大事な人が弱みを見せたときは全く違う。
私はそれを裁きたくなるのだ。
それも、健全な関係においてはありえないほどの厳しさで。

この「他罰志向の強さ」が、稀有な人間関係を喪ってきた一番の要因である。


――他にも書きたいことはたくさんあるが、それは考えがまとまってからにしたい。
この問題について考えるのはとても疲れる。

しかし、自分という人間にあるいくつかの致命的な欠陥がそれぞれ独立して存在すると思っていたところ、実はそれらが全部1つのくくり(境界性人格障害)で説明できうるというのを知ることができたことで、対処の道筋が見えたこと、そしてそれらの症状に自覚的になれる。

気持ちの面でだいぶ楽になれたことは確かなこと。

魂の障害

自分という人間に、ある種の「病」があるという感覚。
互いに疲れ、重要な対人関係がくたびれはてて消えていく場面に立ち会うたびに、その感覚は強くなっていった。
若気の至りでは片付けられない、なにか根本的な病巣が、自分の魂に巣くっているのではないか?

たまたま知ったことだが、その「病」には名前があった。境界性人格障害というらしい。
強い自己愛と、低い自己肯定感。
「全か無か」を揺れ動く、対人評価の不安定さ(深い関係の人間限定)。
表面上の人当たりはよいが、本当の意味で関係が深まった人間に対しては振り回す(極端な場合では、前触れなく切り捨てる)傾向。
そして、明確に自分より優れた人間に対しては、そういった傾向が嘘のように抑えられている。

その特徴の全てが全て当てはまるというわけではないけど(自傷行為や自殺願望、反社会的行動、絶え間ない虚無感など)、上に挙げた傾向こそ、長年にわたって自分と、自分に深く関わってくれた人とを苦しめてきたものである。

たなばた

国家一般職と地方上級、それぞれ一次試験(=筆記試験)に合格できた。
安堵感が大きいけれど、なぜだか全く浮かれた気持ちがわいてこない。
本来ならもっと喜ぶべきなのに、我ながら不思議である。

次は面接。
しっかり準備をして、悔いの残らないように頑張ります。
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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