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ふたりきり

私はこの1年を通じて、誰かを(一般の意味でも特殊な意味でも)好きになる際、「一緒にいて楽しめるかどうか」という視点を最も重要視するようになった。今回私が話題にしたいのは、なぜそのような視座を体得するに至ったかという過程、およびその視座が私にどのような観照をもたらしたかということについてである。

私は去年の11月、当時一方的に想いを寄せていた子とデートに出かけた。好きな子とふたりでどこかへ出かけるというのは齢23にして初めての経験だったが、私はそのデートを全く楽しむことが出来なかった。この敗北は様々な問いを惹起させた。なぜ楽しめなかったのか。好きな女の子とデートするというのは、こんなにも楽しくないものなのだろうか。私の人間性に大きく欠けたところがあるから楽しめなかったのではないか。云々。

その疑念に一つの光明がもたらされたのは、今年5月にとある女友達と映画を観に行ったときのことである。恋愛感情の介在しないこのデートは、しかし非常に楽しかった。私にも女性と何かを「ふたりで」楽しめたという経験は、自信というよりもむしろ安心感を与えてくれるものだった。

それから今年の9月・10月、私はとある女性に好意を抱くようになり、その子をご飯や映画に誘ったが、それらのデートもとても楽しかった。もっと声を聞いていたい、もっと一緒に居たい、もっと頻繁に会いたいと思った。
それ自体も大いに価値のある経験だったが、これらの経験が私にとって非常に意義深いと感じられた最大の所以は、それらを通じて過去10年間の私の”恋愛”の欺瞞を説明出来るようになったということ、及び私の恋愛観に180度の転回をもたらしてくれたということの2点に尽きる。

10年間の”恋愛”の欺瞞とは何か。一言でいえば、「ふたりで一緒にいることが前提とされていない」ということである。しからば、ふたりで一緒にいるという前提の欠落した恋愛においては、何が前提とされていたか。表現が難しいが、あえて簡潔に言うなら、「見てること」が前提とされていた。同じ組織の中、つまり教室やバイト先で、見てて楽しい/絡んでいて楽しいことだけが、私にとっての誰かを好きになる基準であった。無論、それ自体は基本的で大事な基準である。問題なのは、それが自分の感情を規定する「全ての」基準となっていた点である。いざ2人きりでそのテリトリーを離れたとき、果たしてふたりは何を為しえるだろうかということに、全く考えが及んでいない。

なぜこれがそもそも問題になるのか、答えは明瞭である。恋人どうしという関係は、ふたりきりだからである。ふたりきりでどうなるかということに何らのビジョンも描かずに、どうして恋人どうしという関係を切り結ぶことが出来るだろうか。私がそういうビジョンを描けなかった要因の一つには、知識不足・経験不足が確かに挙げられるだろう。しかしそれだけではない。私はただ同じテリトリーの中で、一方的に見、一方的に絡むことで満足していたのだ。それ自体が問題なのではなく、その満足を恋愛と取り違えていたことが問題なのである。その満足に甘えていたのだ。相手の為に何が出来るか・それが出来るようになるためにどんな努力をすれば良いのかという観念がまるで剥離している。頑張ることもしないで、ただかりそめの恋愛の上澄みだけを舐めていたのである。そして相手のことを本質的に知る機会も得られず、ただこちら側の勝手な思い込みで行き場のない想いだけがふくれあがるのだ。

恋愛は畢竟、(総体的な営みとしての一面も確かにあるが、原則として)ふたりきりの営みである。ふたりきりでどうしたいのか、どんな感じになるのか、そういった感覚を互いに共有したり、あるいはしっかりと説明したり出来ない段階で抱く恋愛感情は、あくまで「恋愛感情(仮)」なのである。そして「仮」が「正式」なものとなるかどうか判断するためには、「ふたりきり」というビジョンを共有することが必須となる。そのために必要となるのが、同じテリトリーから離れ、2人きりで別の時空間で経験を共有するという営み、すなわちデートなのである。

そういう基本的なことに、私は上記の複数の出来事を通じてようやく思い至ることが出来た。中高時代の片想いを偽物だと断じ切るつもりもないが、私の20代も中盤に差し掛かっている。「仮」で満足している時間はもう残されていないのだ。

次に、先に記した180度の大転回とは何かということを説明したい。
私は「一緒にいる」ことを前提として恋愛を考えることを学んだ。では、一緒にいて何を感じることが出来たら、ふたりの関係に可能性があると言えるのか。人によってその答えはときめきだったり、安心感、信頼感、楽しさだったりするだろう。私の答えは「楽しさ」である(その「楽しさ」はどんなたぐいのものでも構わない)。一緒にいて、兎にも角にも楽しさを感じる・感じさせることが出来れば、9割方目標は達成されたと言ってよい。なぜか。ときめきや安心感といった要素は、こちらの努力ではどうにもできない側面があるが、「楽しさ」だけは努力の余地が大いにあるのだ。それなりの手間と、金と、心構えさえあればどうにかなる唯一にして最重要のポイントである。「楽しさ」さえ自分が感じられ、相手に感じてもらえれば、「ふたりきり」という状況をまた生み出すことが出来うるし、もっと大事なことには、たとえ関係が特殊に発展(つまり恋愛に発展)しなかったとしても、それはそれで充実した関係(つまり友達という関係)に持ち込めるからである。完全勝利とはいかなくとも、一つの勝ちの形ではあるだろう。それに満足できるかどうかはさておき。

つまり大転回というのは端的に言って、私の恋愛に「努力」という概念が持ち込まれたという一点である。それまでの私にとって、恋愛とは何か漠然とした運命的な営為であり、また先天的なものであった。時期が来れば私のような人間にも可愛らしい子が空から降ってくるようにして眼前し、恋人になるという淡い期待を抱いていたし、「リア充」は生まれながらにして「リア充」なのだと思っていた。それが否定され、頑張り次第でどうにかできることを発見できたというところにも、去年・今年の出来事の意義がある。まず誰かをデートに誘えるだけの度胸と実力を身につけ、そしていざデートに漕ぎ着くことができたとき、相手と楽しみ、相手を楽しませることに集中するということ。…断られることで全人格を否定された気持ちになる恐怖をおし殺し、教室やバイト先といった共通の枠組みから連れ出し抜け出すために手練手管を使うこと、自分の容姿を一定のレベルまで引き上げるために似合わぬ服屋や美容院に行く手間と金をかけること、人間性や振る舞いを矯正するために常に自分を省み、他者に相談すること、デートスポットの情報収集・パターン化、いわゆる「恋愛コード」の学習、出会いがありそうな場に出かけること…。
それまでは努力という概念が無く、ただ自分だけが楽しむことしか考えることが出来なかったことを鑑みれば、大きな進歩と言えるだろう。
努力という言葉が不適切だと思われるなら、投資と言い換えてもいい。

また「ふたりで一緒にいて楽しい」という視点の導入は、自分が今すべきことを指し示してくれたのと同時に、好きになるべき相手の理想像も確定させた。楽しむ・楽しませるためには、こちら側の能動的な行動次第でどうにかなる余地があると書いたが、しかしそれには限界があることもまた事実である。相手の容姿、性質、知性、ノリの良し悪し、気の利き具合などなど、種々の要素次第(それらを包括して「相性」と呼ぶのだろう)で楽しさの変動幅は大きく振れる。先述のイベントに加えて、それ以外の「楽しくないふたりきり」もいくつか経験してはじめて、「一緒にいて楽しい」ということが最も大きな比重を占める指標となった(ちなみに「深い話が出来ること」「色気があること」も重視しているが、それらは後からついてくるので序盤は気にしていない)。

以上、いくつかの経験を通じて、「一緒にいて楽しい」という視点の重要性を学び、それを達成するための努力の方向性を知ることができ、自分にとっての理想の恋人候補を確定させることが出来たことを述べてきた。またここでは説明していないが、私はこの視点を対女性だけでなく、全ての人間関係においても最優先するようになった。「一緒にいて楽しい」という視点の導入は、幼い恋愛観に一大転回をもたらしただけでなく、もっと大きな枠組みである人間関係観にも影響を及ぼしている。結局は、最良の恋人を作ろうとすることと、豊饒な人間関係を築くことは、ほとんど同じ営みなのかもしれないとすら思う。

ところで「一緒にいて楽しい」ということは友達にも成り立つことだが、同じ「一緒にいて楽しい」人間が異性の場合、友達止まりなのか恋人に昇華しうるのか、それが別れる要素はどこにあるのかという問題がある。ふたりきりが楽しくても、好きには至らない場合も充分に有り得るからだ。実はこの点について未だ有為な考えは浮かんでいない。楽しさ自体の性質の違いに内包されているのか、楽しさとは別の要素に左右されているのか、単純にタイミングや運の問題であって「楽しさ」さえ感じていれば全ての異性が恋人候補たりうるのか。もし何か考えが纏まったら記事にしてみたい。


以上のことと関連して次に私が記事にしたい話題は、「リア充」という存在の虚実についてである。「リア充」っぽいことをしていて感じる楽しさは、おそらく傍観者側の視点とプレイヤー側の視点とでは全く異なった捉え方をされているように感じる。期待していたような楽しさは無いが、かわりに予想もしてなかった楽しさがあるという言い方もできるかもしれない。「リア充」っぽいことの楽しさの虚実。あるいは、その虚実の区分が出来ていないがために起こりうる、茫漠とした妬みだったり、恋人という存在に求める役割の齟齬だったり。「一緒にいて楽しい」という視座が内在するにいたって、世の中に当たり前のように溢れている恋人たちを見る目も驚くほど変化したが、それはまた次の機会に譲ることとしたい。

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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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