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稀に気まぐれで部屋の片付けなどしているとき、自分が昔かいた絵だったり、字だったり、そういったものが発掘されることがある。
書(描)いた当時は、出来映えにそこまで満足していたわけではなかったはずだけれど、何年か後にこうして見返してみると、案外上手くかけているじゃないか、と感じる。

でも、それはあくまでも「案外」でしかない。
確かに、ぱっと見はそれなりに上手い。でも何かが足りていない。
きっとそれは絵や字に限らず、文章にしてもそうなのだろう。

こういうのを見るにつけて思い出すのは、国語の授業でおなじみの中島敦『山月記』の一節。
虎になってしまった李徴が、昔の友に詩を吟じるシーンである。

――李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁参は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
――中島敦『山月記』
(※袁「参」は正しくはにんべんに参)



これ、高校生の頃からいまいちよく分からなかったのだが、今なら理解出来る。
要は「うまへた」なのだ。

「非常に微妙な点」というのは、向上のために費やした時間の絶対量(ベクトルの大きさ)や正しい手ほどきを受けているか否か(ベクトルの方向)によって表出されるものであろう。微妙だから、それをピンポイントで指摘することは難しいが、しかし明確に真贋を分けるシビアなポイント。ある人はそれを「中身」と呼んだりするのだろう。この領域に至っては、もはや方法論やマニュアルは通用せず、あくまで費やした時間だけがものをいう。
素質や才能というのは所詮ベクトルの伸び率でしかない。

私自身は「うまへた」になれればそれで満足だけど、他人の「本当に上手」と「うまへた」を見分ける眼だけは持っていたいなとは思う。

これは極めて個人的な感覚だが、本当に上手いものには「銀色の芯」のイメージが重なって見える。
何か、そういう、「確乎たるもの」。うまへたは惜しいんだけど、何かがぶれてる、ぶれそうな弱さが透けて見える。

――と、書いてて思ったのだけれど、「うまへた」(技巧は一見優れているが、「微妙な点」が足りず心に響かない)と「へたうま」(技巧は拙いが、心を掴むもの)の違いが、初めは自明だった気がしてたのに今となってはよく分からなくなってきた。

へた→うまへた/へたうま→うま ?
うまへたはうまに成長しえるのかしえないのか?
へたうまはうまに成長しえるのかしえないのか?
そもそも私はうまへたなのかへたうまなのか?へたなのか?(カラオケは多分、へたうまです。笑)

そう考えると、こと李徴の場合においては「非常に微妙な点」が方向性や時間の絶対量によって左右されるというのは、多分違うというか、完全な正解ではない気がしてきた。人間性とか、そういうあいまいなもの?この文脈での「才」とはあくまでも技巧的な意味での「才」だろうか。技に走りすぎて、心を掴む何か(で、それが李徴を虎たらしめた"人間"性)に欠けている…?

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