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恋愛観①:「10年体制」

便乗して書きます。
最近の関心事が専ら「こんなこと」ばかりなのはなぜかということを、歴史的経緯も交えながら説明したい。
***

私の初恋がいつだったかということを思い出すのは難しい。
今思えばあれが「好き」という感情だったけれど、当時はそれをそれだと認識していなかったというパターンが3つくらいある。

そんなこんなで、私に初めて彼女が出来たのは13歳のときである。4ヶ月付き合って別れた。
そして、それ以来、今に至るまで彼女と呼べる存在は出来ていない。
そもそも中学生の恋愛なんてたかが知れてるので、実質「いない暦=年齢」と変わらない。

高校時代は3人の女性を好きになり、そのうち2人に告白してふられた(そのうちの1人に今年の3月再会した話はどこかでしたような気がする)。
大学時代は1人の女性に告白してふられた。

なぜ、3連続で振り向いてもらえなかったのだろうか。
なぜ、10年以上も恋人が出来ないのか。

答えはいくつか挙げられるけれど、一番大きいのは「方法論の存在を知らなかった」ということに尽きるだろう。
ではなぜ、そんな当たり前のことに気づけなかったのか?

それは、初めての告白が成功してしまったからである。

ただ何となく仲良くなり、好きになり、「ただ好きだ」という理由で告白した。
普通はこの方法では上手くいかない。
自分を好きになってもらう為にありとあらゆる方策を駆使し、距離とタイミングを測って段階を踏み、それと平行して自分自身の内面・外見・振る舞いを磨く、という前提の上に恋愛という営みが成立するからである。少なくとも中学時代の私は一切そんな努力をしてこなかったし、そういう努力が必要であるという認識すらなかった。
恥ずかしながら、そういう認識が成立したのは、去年の夏の話である。

しかし、この何の前提も無い「告白」は成立してしまった。しかも、その4ヶ月は途轍もなく楽しかった。
なまじ上手くいってしまったからこそ、私は無意識に柳の下のどじょうを期待してしまった。
そうして二人目が出来なくてのたうち回っているうちに、私の恋愛観は次のように固定されてしまったのである。
「恋愛とは、いかに相手のことを好きでいられるかが"全て"である」と。

こういう恋愛観のもとでは、告白という行為は手段ではなく、目的である。
告白することはゴールであり、それが上手くいくことは前提とされていない。相手が振り向いてくれるかどうかはあくまでもおまけである。
(しかし私は当時の自分に問いたいのだが、たとえ振り向いてもらえたとして、君はその子に何が出来るのだろうか?)

要するに、これは純愛などではなく、ただ単に「相手不在」なのである。
自分がどれだけその子のことを(無前提・無根拠に)好きでいられるかということが全ての関心事であった。
したがって、
「相手が自分をどう感じているか?」
「自分は相手に何をしてあげられるだろうか?」
という視点は、まるで欠けている。
表面では両想いを志向していながら、内心では片想いが楽しかったのである。片想いを楽しむこと自体はなんら悪いことではないけれど、この場合ではあまりに相手が不在である。

そして告白の基準は、「勝算や見通しがあるかどうか」ではなく、「自分がどれだけ強く片想いできているか」が全てであった。
それで相手も喜んでくれるだろうという、自分勝手も甚だしい幻想も抱きながら。


この「告白=ゴール」体制は、およそ10年間続いた。
そしてなぜ10年も続いたかという理由は、最初のダメ告白が上手くいってしまったからであることも書いた。
もう1つ、性に関する理由も挙げられるのだが、今回は本筋ではないのでまた別の機会に書く(かもしれない)。

そして去年から今年にかけて、ようやく、この「10年体制」が打破されるに至る。
自分が相手をいかに強く好きになれるか、好きでいられるか…という視点から、相手に自分をいかに売り込めるか、好きになってもらえるかという視点への転換。および、相手の自分に対する関心の強さによって、自分の想いをある程度コントロールするという、「好き」という感情の流動化。

私は去年の、「10年体制」の結実のような恋愛の失敗を経験して、強く思った。
「もう2度とこんな思春期的な恋愛はしない」と。

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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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