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ジョギングつれづれ日記

ジョギングしながら自分は一体何を考えているのだろう、ということで、まとまりきらないなりにその考え事を文章にしてみた。一つ一つを別個の記事にして、小出しにしてもよかったけど。長文で、いささか抽象的になってしまった。


***


・自分の過去の、どの時期に何があったか調べたいとき、当時の記録を参照することがあるけれど、大学ノートにつけた日記にしても、この電子媒体のブログにしても、前者は焼けたり紛失したりすれば全て失われてしまうし、後者はたとえばfc2がサービスを辞めてしまったら全て失われてしまう。
結局私の記録というものは、そして大袈裟に言えば私の過去というものは、実に頼りないデバイスでかろうじて繋ぎ止められているのだよなぁと、そう思わずにはいられない。


・本命に蹴落とされるよりも、妥当な目標に届かないことのほうが何倍もショックなのだと実感する。
本命の目標というものは、往々にしてそれが「叶わない」可能性を内包?含意?している。
妥当な目標が叶わなかったときに、自分は何に傷ついているのだろうか。
対象そのものへの執着が満たされなかったことにではなく、「妥当」だと思っていた選択肢に断られるという、その現実と自分が思い描いていた理想との乖離に傷つくのだろう。…理想とは違うか。最低限保証されているであろうと考えていた、理想には及ばない「想定」?とでも呼ぶべきものにすら届いていない自分の現実の惨めさに傷つくのだろう、と言い換えた方が良いかもしれない。
(蛇足だが、最低限の想定にすら達しない現実の惨めさに傷ついているだけなのに、それを対象そのものへの執着と取り違えることも、結構良くあることなのではないだろうか。)

この事実はいろいろなことを教えてくれる。
○妥当な選択肢だと内心思っていても、それを達成するためには全力を尽くさなければならない。周到に準備しなければならない。
○妥当な目標をさえ達成できないのが怖いから、あえて人は自身の能力からはまるで考えられないほど高い目標を掲げることがある。(西尾維新『恋物語』)
○でもそんな逃げの発想からうまれた、あまりに突飛な目標を達成する人がいることもまた事実である(本当に少ないけど、0ではない)。私も何度か見てきた。ただし私自身がそういう動機での目標を達成できたことはない。


・誰かに何かを買わせようとする場合、まずその買わせようとしているものを自分自身が好きである必要があるだろうと思う。
つまり自分を誰かに「買って」もらいたいと思うのなら、自分が自分を好きでなくてはならない、少なくともそう思い込む努力をしなければならない。…難しい。


・恋人について。
恋人を純粋に(「純粋に」ってなんだろう?)欲しいわけでもなく、かといってステータスとして欲しいわけでもない。
「今」ほしいとも、強くは思わない。
ただし「今」欲しがらなければ、きっとこの先その存在を手にする機会や、方法論を学ぶ機会は永久に失われてしまうだろうという恐怖はある。
それと、そういう存在を手に入れようと頑張ってみること、手練手管を駆使してみること自体は、とてもやり甲斐が感じられるし、おもしろい。
もしそれで恋人が出来たとして、手に入れる過程が無くなったために、恋人に興味を失うということがあるだろうか。わからない。だけど頑張って手に入れた何かというのは、えてして愛着がわくものだと思う。

○「純粋に」欲しいの定義。一緒に居たい対象として欲しいとか、性の興味の対象として欲しいとか、そういう何というか「直接的に」相手を求めている場合は「純粋に」欲していると定義したい。たとえばステータスとして欲しい、というのは「直接的に」とは言えないだろう。


・頭が悪いとは何だろうか。
私の定義で「頭が悪い」人というのは、「そんな少ない元手で、そんな極端な結論だしちゃうの?」といいたくなるような人のことである。
「そんな沢山の元手があるのに、結論が出せない」よりも圧倒的に悪質な頭の悪さだと思う。
一概に言えないような物事ばかりの環境の中で、自分なりに咀嚼した意見を持つことも大変だけど。

○少なくとも偏差値では人の頭の良し悪しは決まらない、というよりも、頭の良し悪しのごくごく限定された一部の側面しか計れないとは思う。
○「そんな少ない元手で、そんな極端な結論だしちゃうの?」といいたくなる人の中にも、その結論が誰よりも正確な人がいるわけで。稀有な才能だと思う。



・正解の選択肢について。
100人いれば90人が、「それ正解!」という選択肢があった。そして特定の人にそれをして、失敗したことがある。
数ある明確な敗着のうちの1つだったと思う。
どんなにそれが正解のように見えても、それはあくまで多数の人が正解だと「いう」だけであって、それ以上でも以下でもないのだ。「その人」にとって正解かどうかということとは、全く、全然、次元の違う話である。反省反省。たとえ反省したとしても、同じ状況で違う選択肢を選べるかはわからないし、そもそも反省の成果を活かす機会はもう永久に訪れないわけだが…。

○だから臨機応変に対応することが求められるのだよなぁ。それが難しい。
○明らかに「不正解」に見える人間がいたとしても、必ずその人を好む人が少数ながら存在するのも、同じ原理であろう。100人中90人が「不正解」だといっても、10人は「正解」だと判断するからだ。





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