スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

しんぱいすれな

新アニメがぽつぽつと始まってきた。一番期待しているのは『猫物語(白)』。1話を見たが、期待を裏切らないなぁとつくづく嘆息した。
そこで印象に残った場面が一つある。

『猫物語(白)』において、阿良々木暦が戦場ヶ原ひたぎに送ったメールには「しんぱいすれな」と書かれていた。
それを受け取ったひたぎの台詞:「しかも今回は、かなり深刻とみえる」

今を生きている人がこの下りを見れば、すぐになぜひたぎがこういう推測を下したかというのが容易に理解できるだろう。なぜなら現代の殆どの人は、そしてこのアニメを視聴している世代層ならなおさら、メール(という文化)を知悉しているからである。

この手のささやかな読解力(「なんでもは知らないわよ、知ってることだけ」はどういう心象から発される台詞なのか、など)を視聴者に要求してやむことのない〈物語〉シリーズは、だからこそ根強い人気を博しているのだろうが、ふと僕は別の考えに飛躍した。

「昔の小説を読み解くときに、昔の文化に直に触れたことのない人間は、その小説にちりばめられている多くの示唆を読み落としているのではないか?」

メールという文化が全く廃れてしまった未来は、おそらくそう遠くはないだろう。
メールに触れたことのない人間は、現代人がちょっと考えれば(考えなくとも)容易に分かる先述の場面を、予備知識なしには理解できないはずだ。もちろん「間違いを正す暇が無いほど切羽詰まった状況なのだろうな」くらいは推測できるだろう。形式的には理解できるだろう。しかしそれがどういうプロセスを経ているのかについての考察とか、自身の共通経験からくる共感とか、そういった領域にはまるで立ち入ることができないであろう。

暦が使っていたのはガラケーだったと記憶しているが、そもそもガラケー自体消えつつある。
メールはスマートフォンで、フリック入力で送る時代へとシフトしつつある。
メールそのものはまだ根強く残っているけれど、これ自体が何かに取って代わられる時代も、ともすれば我々が想像するより遙かに早く訪れるかもしれない。

ガラケーでポチポチメールしている・いた人間なら、なぜ「『心配』ではなく『しんぱい』なのか」、なぜ「『するな』ではなく『すれな』なのか」、間違った文章を送るにしても、どうしてその間違え方だったのか、そういうことが自分の経験とともにピリピリと呼び起こされる。そして暦の心象に共感できる。ひたぎの推測に同感できる。

もどかしい気持ちを抱えながらガラケーを使い続けてきた経験無しには、この場面における二人の、もとい三人の心象風景を「心から理解する」(僕はこの動詞を「納得する」と昔から勝手に名付けている)ことが出来ないのである。


さて、現代から未来へ投げ掛けた視線を、そのまま過去から現代の流れに適用すると、現代人が「古典」を読み解く際に、それが書かれた時代の文化に触れた経験がないために、実に多くの示唆を読み落としているのではないかという疑問に行き着くのは自然な流れだろう。

メジャーな例を挙げるなら、それは『伊勢物語』でも『源氏物語』でもなんでも良いのだが、「貴族が下位の人間に自分の衣服を与える」というものがある。現代人なら、予備知識なくてはまずこの下りは意味不明だろう。「それは謝意をあらわす行為である」と教えて貰ってはじめて、形式的に理解することができる。しかし納得は難しい。たとえそこにどんな類似的な現代的行為が想起されようとも、当時のそれと合致しているとは言い難い。

これは縦軸的な見方なのであって、つまり「同じ地点における過去-未来」を想定しているのだが、同じことが横軸的にも、すなわち「同じ時点における日本-緒外国」的な見方をしても言える。
たとえば現代の西洋文学を読むにつけても、聖書を踏まえなければそこに示唆があることすら気付かない場合が多い(と思う。多分。)

個人的に極めて厄介なものは西洋の古典文学である。時代も場所も違う文化を踏まえて書かれた作品は、もうまったく別次元の難解さを誇り、読了したところで「ああ、俺はやっぱりこの小説は一生わかんねえわ」という無力感しか沸いてこない。特にキリスト教は手がつけられない。
(余談だけれど、キリスト教と西洋文学の関係は、2ちゃんねる・ニコニコ動画と2010年代アニメの関係に似ているのかもしれないと感じている。具体的な検証は全くしてないし、そんな精力もないけれど)

自分にとって身近な例では、川端康成の『雪国』。僕はこの小説は大好きだが、これも「お座敷とか三味線とか、そういった芸者文化を知らない人が読んで楽しめるのだろうか」と言われる作品である。僕はもちろん全く知らない。だから何度読み返しても、島村と駒子の間に横たわる、微妙な人間関係をほとんど納得していないと自分自身言わざるをえない。雪国の文化も知らない。島村のような生き方も知らない。知らないけれど好きなのだ。だから嫌なのである。本質を知らずにそれを好きになるというのは、やっぱりそれはちょっと違った「好き」なのだ(それを本物と呼ぶか偽物と呼ぶかはそれこそ人それぞれで良いだろうが)。

とりとめのない文章になってしまったが、ともかく、だからこそ人は歴史や文化を学ぶのだろう……といったお茶を濁すような結論で。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

最新記事
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。