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『伊豆の踊子』でさよならも言えなかったのは

川端康成の『伊豆の踊子』といえば、説明不要の名作である。
僕が『伊豆の踊子』を最初に読んだのは中学生の頃だったか高校生だったか…。文庫版で40ページ程度だし、ひとしきり読めばすぐに読み終わることが出来て手軽なうえ、内容も甘酸っぱくて良いし、描写されている情景も綺麗で。
今回読むのは3,4回目だろうか。

今読んでみたら読んでみたで、同じ作家の小説『雪国』には何枚か劣るような気がするとはいえ、やはり面白い。
色々考えさせられたり、疑問に思ったりした箇所も多いのだが、ただこの小説に限って言えば、何も考えずに「ああ、こういうのって良いなぁ」と感じながら読み進めるのが正しい読み方なのだろう。

この小説一番のクライマックスは「私」と踊子(薫ちゃん)との別れのシーンである。
旅費がなくなった主人公は、学校があると嘘をついて、旅芸人一家の水子の法事にも出ずに帰ることにした(こう書くと酷い)。踊子を映画に連れて行こうと約束していたのに、踊子の母親が何故か(何故なのだろう?)反対して、結局それも果たせず。
「いい人」である主人公と別れるのもイヤで、映画にも連れてってもらえなかったまだ幼い踊子は、やはりいじけちゃって素直に「私」にさよならと言えないわけで。
で、そうこうしているうちに船が来てしまった。

ここから引用。

はしけはひどく揺れた。踊子はやはり脣(くちびる)をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰ってきた。



ぼくは長年、「さよならを言おうとした」のは主人公たる「私」だと思っていた。
しかし今読んでみるに、さよならを言おうとしたのに言えなかったのはやっぱり踊子であるという結論に至ることになった。

その決め手となったのは、「もう一ぺんただうなずいて見せた」という箇所。
この十何行か前に、「私はいろいろ話しかけて見たが、(中略)私の言葉が終らない先き終らない先きに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。」とある。一方、「私」は1回もうなずいてない。

件の文は、主語「私が」で始まっている上、「『言おうとした』が、それも『止して』」と、いかにも主人公が動作の主体となっているような書き方がなされている。
やっぱり、ここを普通に読んでしまったら、普通に「主人公は踊子にさよならが言えなかったんだなぁ」と解釈してしまうと思う。
もちろん、文脈上ここでさよならが言いたいのに言えないのはどう考えても踊子のはずである。注意力のある読者ならすぐに気づけたのかもしれない。僕はそれに気づくのに何年もかかってしまった。


文法的にいうならば、前文「踊子はやはり~」の主語・踊子を後文に引き摺っている、と見るべきだろう。
「踊子は一方を見つめていて、〈私が振り返ったとき〉さよならを言おうとしたけどやめた。」という風に。


しかし、しかしながら、やっぱりこれで主語が明瞭だとは申せまい。
僕としては、どうも川端康成の仕掛けがここに仕組まれているんじゃないかという気がしてならないのだ。
『伊豆の踊子』全文を通じて、主語が「ん?」となる箇所はここくらいのものである。つまり、他の箇所では常に明確に提示されていた主語が、ここだけよくわからない。ひとしきりの解釈の時間を要する。
やっぱりそれは、この一番大事なクライマックスシーンで、読者の注意を引きつけるために、あえてあいまいにしたのではないだろうか。
そんな妄想が許されても良いはずだ。

もちろん、「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたが、…」と書いてしまうと、少しくどいかな、というのも作者自身にあったのかもしれない。


ところで、旅芸人の女たちは朝の別れの際、夜更かしして起きられないからという理由で「私」に挨拶に来なかったわけだが、踊子ただ一人だけが、船を見送りに来たのだ。
「昨夜のままの化粧」とあるので、寝てなかったのかもしれない。そう考えるとやっぱり、踊子は本当に「私」と別れたくなかったんだなぁ。



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