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翠緑のブローチ

11月某日の、とあるライブでの出来事。
どうしても書きたくて書いた。これを2012年締めの記事として、よいお年を。


***

 無作為によって資格を得た私は、壇上に立った。
 私はごく儀礼的な会話で、「手渡し」という謎の儀式を無難に済ませ、帰るために右へ歩み出した。まさにその刹那に、ちょうど次に来る人を確認しようとし、こちらを向きかけ、私の姿を確認しようとしている彼女の姿が目に入った。

 日頃は彼女を偶像(idol)としてしか見ることの出来ない我々に与えられた、多少の代償を払ってでも手に入れたい機会。それを手中にした人々の中でも、この「手渡しイベント」を経験する権利を得られた人間は少なかった。私はその夢のような経験の最中にあった。結局私は彼女から「手渡し」される幸運にあずかることは出来なかったが(彼女が所属しているグループの、他の人から「手渡し」されたが、それでも満足だった)、私はそもそもそこまでのことは最初から期待していなかった。ただ視線が合えば嬉しいなということは、壇上に上がる前には漠然と考えていたのである。私はライブで彼女の姿を見るためにここに来ただけなのであって、手渡しイベントに当選するなどということは全く期待してはいなかった。彼女のファンならば誰しもが夢見るはずの、視線の邂逅。あこがれの人と視線が合うというのは、言うまでもなく圧倒的な喜びであるはずだ。そんな視線を合わせるといったごく単純なことさえ、運良く選ばれた人間にしか許されていなかった、そして、私はこの瞬間だけはそれが出来る数少ない人間だったのだ――しかし私は瞬間的に、ほとんど稲妻が走るように、まるで絶対的な拒絶のように、視線を逸らしたのだった。互いの視線が一直線上になるなんてことは、絶対にあってはならないことだった。なぜならばそれは限りなく畏れ多いことだったからである。

 まさに、その時私を支配していたのは「畏れ多さ」だった。
 彼女はまさに私が壇上に上がるまで、遠きに有りて思うものであった。そこにあったのは何ら疑問が差し挟まれる余地のないほど徹底した関係性であった。それがどうしたことか、この日の気まぐれな無作為は、私を選んでしまった。なんて残酷なことだろう!私は彼女の近くにいくことが出来るという、計り知れない僥倖を図らずも得てしまったのだ。果てしない僥倖というものは、つまり果てしない畏れ多さに繋がっている。
執行日当日の死刑囚のように、壇上に引きずり出された私は、そこで天にあるはずの神たる存在と対面する権利を得た。その瞬間から、日常ではなんら意識していなかったはずの、私の心に根深く巣くっている卑しさが、ここで天日にさらけ出されてしまった。私みたいな矮小で卑小で、下劣で穢れた人間は、絶対に彼女の近くには、1秒たりとて居てはいけない。そんな考えが急激に私を支配した。しかしその一方で、私はこんな幸せを手放そうとはしなかった。もはや後戻りは出来なかった。
 距離が近づけば近づくほど、私は自身をただの汚い惨めなヘドロのような物体だと思いなした。彼女はまさに「絶対的な神様」であったのだ。文字などというものをまるで媒介せずに、これほど私の中身を忠実にくりぬいて眼前させ、したがって私をひれ伏させる存在。しかしその存在の生み出す偶像が、常に私に一定数の癒しをもたらす、そんな存在。それを神様と呼ばずして、なんと呼べるだろう。ともあれ、そんな存在と目を交わすなどということがあってはならない。私の姿がまかり間違って彼女の視界に入ってしまうことがよしあったとしても、私の目線までもが彼女の目線と邂逅してしまい、したがって私の存在の何事かが彼女の認識にほんの少しでも、一瞬の間でも介入してしまう・影響してしまうなどということは、断じてあってはならなかった。それこそ神への決定的な冒涜である。神を侵してしまうことになる。偶然は、距離の近さまでは認めたけれど、視線が合うことまでは認めていない。私は偶像破壊者(iconoclast)にはなりたくなかった。
……そしてそんな、あまりにも歪で奇怪な畏れ多さは、選ばれた人にしか味わえない、垂涎のものなのであった。


 しかしその一方で、単純な距離の近しさ、そしてその後の視線のいたずらな駆け引きというものは、彼女に以前抱いていたものとは別種の感情、それは言うなれば、微かな親近感(親近感、というよりももっとずっと淡いものであるが、便宜上「親近感」と呼ぶことにする)を抱かせるのには充分であった。つまり、近づいて見ることによって、単なる偶像だった彼女は、今や一人の女の子、一人のお姉さんとしてそこにいた。たとえば「まだ喋ったことのない、同級生の女の子」のように。何らの直接的な関わり合い(たとえば義務的な会話や、偶然の接触)もないのだけれど、ただ教室が一緒だったという、偶然によってなされた単なる空間の共有が、のちのち不可思議で淡い親近感を抱かせる、……彼女はその親近感の対象の一人となった。
 その象徴はまさに彼女が抱えている(と本人が言っている)「人見知り」なのであった。あの視線の迸りの未遂は、彼女が人見知りであるという情報が実感となった瞬間でもあった。麗しく慎ましやかに宿った睫が、ゆるゆると浮揚する瞬間に、私はその特権的な繋がりを得たのだった。私は彼女の「人見知り」を知ってしまった。「人見知り」とは、なんと人間的な感情だろう!人間への回帰。堅い樹皮が割れて沁みだした樹液のように、それは生命的であった。…たとえ僕が垣間見たものが、彼女ではなく実は僕自身の「人見知り」だったとしても。

 偶像は遠くからその美しさを賞美するものである。偶像と私との間には、「一方的に見続ける」という関係性しか成り立ち得ない。あるいは、その偶像といつか邂逅することを夢見るという関係性。まさにこの一方向性という特殊性によってこそ、私はこのような関係性に普通は課されている、自身へ内省を求める義務を免除されていたのだ。だからこそ私は白痴のように無邪気に、偶像を愛でていられるのだ。だからもし、その美しき偶像が、光を存分に艶めかしく踊らせた目で、私の目をみたら?――それは考えるだけでぞっとすることである。その視線は今後絶対に、私と偶像との間に横たわっている一方向的な関係を許さないだろう。すなわち、偶像は偶像でなくなって、私に絶望的なほどの内省を、手の施しようもなく汚穢なる自分自身への反省を迫るだろう。私は偶像を眺めていたときのような漠然とした愛情、相手が偶像だからこそ許される、激烈であてどない、そして未完結を運命づけられた、それを持っていることが不運のように見えて実は限りなく幸運であるところの、「愛情」を失うことになるだろう。そのかわり手に入るのは、等身大の、つまり相手を愛するために自分の存在に対して一切の妥協を許してくれない、つまりこの世のどこにでもある恋愛感情を手に入れるきっかけ(先ほどの淡い親近感のようなもの)なのである。それは単なるきっかけでしかないけれど、そんなきっかけを仮に掴んでしまえば、私に自然に具わっていた自制は失われてしまうだろうという恐怖が生まれた。それは濃淡こそあれ日常において常に玉響のように揺曳する、穏やかな激情である。それはシンとして凪すらしない湖の水面のように平らかなのに、私の日常を急流の水のように浸食していく。それを彼女に感じた瞬間から、何かしらの崩壊が免れ得なくなってしまうのだ。ただ眺めるだけで幸せだった日常(不思議にも当人はそれを不幸せだと思っている)は、こうして唐突な幕切れを迎えることになるだろう。

 単なる偶像を偶像のままに絶対的な神っぽく仕立て上げるのは容易である。しかしその偶像を「一人の同級生の可愛い女の子」のように思いなすことは極めて難しい。つまりこの親近感こそが、私が彼女に近づけた、畏れ多くも近づいてしまったという最大の証となるのだ。何がそれをさせたのか?もちろん私の意思ではなく、単なる無邪気な無作為が、である。

 しかし結果的には、私はこの意思の不随意を止めることは出来なかった。
 というのは、視線は結局かち合わなかったが、それでも「かち合いそうになった」という程度の事実ですら、私(というよりは、私と彼女との関係)を浸食するに充分であったということである。つまり視線の邂逅は決定的な要素ではなかったということになる。彼女は偶像の外殻を、羽化するように飛び出して、「唯一無二の神様でありながら、一人の可愛い同級生」という二面性を獲得したのだった。そういえば今、彼女は「神様となった女子高生」という役で声を演じている。なんと奇妙な符号だろう。今や私は彼女を呼び捨てで呼ぶことがとてつもなくためらわれるようになってしまった。神様を呼び捨てにすることが禁じられているように。そして同時に、まだ会話のない同級生を呼び捨てにすることが躊躇われるように。
 視線が合おうと合うまいと、どちらでも変わらなかった。というよりむしろ、視線が結局「合わなかった」ことによって感じてしまった彼女の人見知りさ(と思われるもの)が、偶像だった彼女に人間としての一面を獲得させてしまい、その結果私は彼女に等身大の模糊とした恋愛感情を抱くきっかけを手にしてしまったのかもしれない。いずれにせよ、無作為が私を汚泥から引きずり出した瞬間に、関係性は変容を運命づけられてしまったのだ。

 しかしそれにしても、「絶対的存在としての神様たる、一人の女の子」という存在を仮構する感情というのは、結局は、単なる「思春期の少年が抱くような淡い片想い」なのではないだろうか?たまたま同じ教室になった女の子を、まるで神様みたいに崇拝したがる、そんなありがちな青い恋の形態。

 さてこれは今後、発展していくのだろうか?その可能性は、地球の自転が明日止まる確率よりは低いだろう。それが為されるには具体的な実行――さらなる邂逅、空間と時間の共有が必要不可欠となってくるからだ。自身の妄想だけでその淡い片想いが具体的な発展を成し遂げることはあり得ない。それが実際とは違うところなのだろう。事実、私が恐れていた「帰結」の希求は、結局は一瞬芽生えたきりで、この邂逅から数日もしないうちに、幸運にも(そして不幸にも)再び影を潜めてしまったようだ。
 そもそも、そこまで自分を卑しく考えている人間が、果たしてそんな感情に向かって、奔馬の如く疾駆しただろうか。わからない。極端に自分を卑しい存在だと考えている人間ならば、誰かを等身大でぼんやり好きになることどころか、そのきっかけを掴むことすらも罪だと考えるはずではないだろうか。ならば関係性の変容などそもそも起こり得ないはずではなかったろうか。私は何を恐れていたのか。私は偶像に人性が宿ったからといって、そこから実りようもない恋におちるような人間ではないはずだ。――もしかしたら私は、不随意で理不尽な熱情に引き摺られることを恐れていたのではなく、私の「卑しさ」が犯されることをこそ、恐れていたのではないだろうか?


 もちろん、具体的な発展すなわち「彼女を等身大に見る」というレベルでの恋というものは、彼女に対してこそ望むべきでないのだ。彼女が私と等身大になるということは2つのうちどちらかを意味する。すなわち彼女が堕天して、私と同じくらい卑しくなってしまうということか、私が自身の卑しさを、したがって自身の本質を、自身の存在の根源・確証を失ってしまうか、ということを。どうやら私はケガレそのものとしての自分を限りなく忌避したいと思っている一方で、そんな自分を思いがけなく発見できたことと、その汚さこそが私を私たらしめているという、一種の文学的な考え方を思いがけなく体得できたことを、嬉しくも思っているらしい。

 ただ今は、「選ばれる」ことなど無いといつしか決めて生きてきた私に、夢のように突然訪れた偶然的な僥倖と、その恐怖と、思いがけない発見とを、懐かしく振り返るばかりである。



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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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