スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

エンジン・テレグラフ

「今のところは僕はまだ、音楽とコンピュータをからめたくはない。」


――村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』より


2年前に初めて読んだ本、そして繰り返し読んできた本の中の一節。
このフレーズの意味はなかなか、理屈としては分かっても実感として感じることは出来なかったのだが、この前東京に帰るために飛行機に乗ったとき、となりの座席に座っていた人が電子書籍を読んでいたのを見て、「ああ、あれはこういうことだったのかな」と思った。

僕もおそらく、小説と電子ブックとを絡めることはこれからもないであろう。


大きなものでいえば鉄器や紙や羅針盤や蒸気機関といった、歴史に名を残すほどの発明品から、そんな風に教科書には載らないまでも、人々のその時代の生活を多かれ少なかれ変えるような細々した発明品まで、これまで数え切れないほどのものが生み出されてきたはずだ。

しかしながら、そんな細々とした発明品を今当たり前のように使っていたり、あるいは過去の歴史的な発明品の目録を教科書などで読んだりしているときには、僕は「それは便利なものだから」という理由で当時の人々がみながみな我先に飛び付いていったのだと思っていたけれど、本当はそうではないのだろう。

むしろ「便利だから」って理由でそれまで親しんできた古いものをキッパリ捨てて、新しい発明品に乗り換えることの出来た"先見的な"人というのは、むしろ少数派だったのではないだろうか。

たとえば、近いモノで言えば、映像の「白黒→カラー」の変化、レコードからCDへの移行、アナログからデジタルへの変化がそうだし、電話からメールへの変化も(メールが電話の上位互換であるというのはかなり違うにしても)その一つかもしれない。
もっとずっと過去でもそうだったのだろう。鉄器が発明されてからも、青銅器がなんとなく良いからという理由で使い続けた人もいたのだろうし、平地住居が隆盛を極めた時代にあっても、好きこのんで竪穴式に拘ったって人もいたのかもしれない。

無論、モノ単位でなく、もっと大きな価値観だったり文化だったり、そういったものならばなおさらその傾向は強かったのだろう。それは「発明」とはちょっと違っているけれど。


もちろん古いものがそっくりそのまま消えてしまうというケースは案外少ないと思われる。
筆みたいな大仰な筆記用具だって未だ健在だし、電子辞書が出来たからって紙辞書が廃れてしまったというわけでもない。紙で出来た本が全く無くなるなんてことはまずあり得ないだろう。
でも、いずれその主流を明け渡す日は、そう遠くはなさそうだ。

そんな風に考えると、親しんできたものを捨てて新しいものに慣れていかなければならなかった人々の哀切さの累積や、あるいは頑なに古いものに拘った人々の哀切さの累積のようなものが、モノがありふれているこの世界では溢れているんだなぁ…と、ちょっと不思議な感慨を抱いた。という話。

僕も、僕と同世代の人間も、時代を生き続けていくにつれて、こんな哀切さがひたひたと心の中にも積み重ねられていくのだろうね。

コメントの投稿

非公開コメント

No title

本が売れてる人はみんなそう言うし売れてない人はみんな逆のことを言うよね

No title

そういうものなのかー
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

最新記事
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。