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三島由紀夫『奔馬』/初めて書く小説について

豊穣の海・第二作。
第一作『春の雪』が、恋の情熱に灼かれる少年の物語であるのに対し、この『奔馬』では忠の情熱に灼かれる少年が主人公となっている。

今回は、物語の中段くらいで大体の結末が予想できた。
たしかにその予想は大きくは外れなかったのだけれども、過程と結末自体の形はやはり僕を爽快なまでに裏切ってくれた。裏切られることが最大の幸福であるというのが、文学(それよりもっと大きい枠組みでいえば、物語)の一つの醍醐味ではなかろうか。

『仮面の告白』以来、僕の心の中で第一の小説家として君臨する三島由紀夫の小説を読んできたけれど、『春の雪』まではその美文を主たる魅力と考えてきたのに対し、『奔馬』を読み進めるにしたがって、その考えは改められたように思う。
とはいえこの作品をきっかけに、というのではなく、2度目に『仮面の告白』を読んだときからその根っこは既に形作られていたのだろう。
つまり、三島由紀夫の最大の魅力はその物語の構成にあるのだ、というその一点である。


…といって、彼の既に語り尽くされた魅力というものを僕自身の言葉で書き綴ってみたいという欲求は根強いけれども、まず三島を語るには僕はあまりにも彼の作品を読んでいなさすぎる。『金閣寺』『仮面の告白』『潮騒』『春の雪』『奔馬』、たった5冊では、「おまえ一体三島の何を分かっているんだ??」と言われても仕様がない。

僕がたった一言だけ言えるなら、それでも彼の作品は素晴らしいということである。
読んでて幸せを感じさせる文章を綴れるというのは、それはもうものすごいことである。本当にものすごいことである。不可侵である。不可侵だからこそ、その理想には到底近づけようもないからこそ、僕は彼を尊敬できるのだ。
「素晴らしさ」というのもまた、その全容がまるで分かりようもないからこそ、素晴らしいのではないだろうか。
その素晴らしさの正体を突き止めてみたいと思い、僕なりにこれからも努力し、また努力のための努力もするだろう。そして、その素晴らしさの正体がわかったと思ったその瞬間に、素晴らしさはもっと分かりようもない領域へと広がるだろう。(もしかしたらその予感こそが、素晴らしさの正体なのかもしれない)


抽象的なことばっかり言っててどうしようもないので、色々と僕が疑問に思ったこと。

・主人公の少年、勲に足りなかった物は何か?
・勲は最後どうしてあのような行動をとったのか?(血盟が云々→じゃあ一人でやれば…!ってことなのだろうが)
・勲の父親に感じる言いしれぬ不快感の正体は?

今回はとにかく「続きが知りたい!」の一心で読んだので、次はこれらの疑問をゆっくり考えながら読んでみたいと思う。

あと、この『奔馬』はまさに「三島事件」の宣言のようなものだったのだろう。
それをふまえて読んでいると、「ああ」と思う箇所も少なくない。

展開として最も唸らされた箇所は、槙子が勲との「最期の別れ」の描写を堂々と偽証するところであった。
勲は純粋性を守るためには、槙子が偽証をしたと断言せねばならない。
しかし槙子を罪に陥れるような真似は、勲には絶対に出来ない。
これほどの「究極の選択」を、どうして描けるのだろうか。嘆息するほかはなかった…。
そして何よりすごいのはその後の勲の弁解であった。必見である。



『澄んで光って、いつも人をたじろがせ、丁度あの三光の滝の水をいきなり浴びせられるように、この世のものならぬ咎めを感じさせる若者の無双の目よ。何もかも言うがよい。何もかも正直に言って、そして思うさま傷つくがいい。お前もそろそろ身を守る術を知るべき年齢だ。何もかも言うことによって、最後にお前は、《真実が誰にも信じてもらえない》という、人生においてもっとも大切な教訓を知るだろう。そんな美しい目にたいして、それが私の施すことのできる唯一の教育だ』








***



僕は今、ほとんど初めてといってよいかもしれないが、小説を書いている。
まだ書き始めてから一週間しか経っていないけれど、10000字をようやっと越え、多分この時点で今まで僕が生きてきたなかで(一つの「物語」としては)一番長い文章となっている筈だ。
そしてその小説はやっと「本題の序」に入ろうとしている。毎晩、家に帰って、これを書いている時間がたまらなく幸せである。

小説を書こうと思った一つの理由は、「大学生のうちに何か一つ成し遂げておきたい」という感情が強く強く募るようになったからである。大学生活は短い。おまけに金もない。この期間に成し遂げられることには限りがある(そして、畏れながら言えば、人生においてもそうなのだろう)。「ほしい物リスト」から実際に手に入れることが出来る物は、予想以上に少ないはずなのだ。そう考えるといたたまれなくなって、こうして親しみのある「文章を書く」という行為に自身のなにごとかを託してみたかったわけである。比べるのも憚られるが、三島由紀夫が自身の死を前に、形見となる大長編『豊穣の海』を書こうと思い立ったように。


もう一つの理由は、「読む」という行為に新たな視点を自分に附与してみたくなったからである。
「読む」というのは極めて難しい。そして驚くほど正解が多い(人それぞれだ)。何を重視して読むのか、読むという行為の周辺事項には何があるのか、などなど…。
ある作品を「素晴らしい」と言うとき、僕はその裏で仄めく、「素晴らしいと言い条、僕にはこの作品の何を理解しえているのだろう…?」という想いを無視できなくなってしまったのだ。
もちろん先述の通り、「わからないこそ素晴らしい」というのも一つの答えではあるのだが、それは理解しようとすることを已めることを意味するものでは当然無い。

さて「読める」ようになるにはどうしたらよいのだろう。文学評論を読みあさるのも良いかもしれない。背景にある思想を学んでみるのも良いかも知れない。僕が思ったのは、ここは一つ、自分自身でいっちょ小説でも編んでみるのがいいんじゃないのか?ということである。作り手にならなくても読めるようになることは、多分できる。(そうでないと小説家以外は読書家たりえないということになってしまう。)しかし、たとえちゃちな物でも、自分に「作り手の視点」というものを持ってみることで、少しは理想となる読み方というものに近づけるのではないか?と思った次第である。

そして実際小説を書くというのは存外難しいことであった。
物語の展開はどうするのか?書き出しはどうするのか?伝えたいことは何か?それを正確に伝えるのにはどうしたらよいか?風景描写は?それ以上に心理描写は?登場人物はどのような役割を作中で果たさなければならないのか?伏線はどんな風にさりげなく張ろうか?迷いは次から次へと湧いてくる。僕は小説の書き方など何も知らない。作法も理論も知らないし、経験値もない。しかし、多分平均よりはあるであろうといった程度の読書歴を元手として、手探りで書いてみる。それが楽しくてしょうがないのだ!

当面の目標は、これを書き上げることである。それが最終目標ではないけれど、ともかく、完成させないことには始まらない。それによって、何かが変わればいいなと思っている。



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