スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

まどろみを詠む

「ひぐらしの鳴き声冷える黄昏に 夢の通ひ路西日にもえて」


ところで、夢の中に女の子が出てくるというのは反則であると僕は感じる。
日常では何にも感じていなかったのに、夢に出てきたとたんにその人が気になり始めるからである。
ある時急に好きになって、でもある時急にその感情を忘れていることに気付く。

今日夢に出てきたのは「氷菓」の千反田える嬢である。
「えるたそ~」という呼称で有名(?)だ。

というわけで、「えるたそ」を掛詞(という名のダジャレ)にして何か短歌を作ってみよう、と思った。

そのままでは難しいので分割する。
とりあえず「たそ」は「たそがれ」で行けそうだ。
では「える」は?

「得る」…としたら、何を得るだろうか…
この単語は著しく野暮ったい。気がする。何を得る?何かを得たとしてそれがうまく「黄昏」という若干使い古された感はあるけどそれなりに幻想的な単語に繋がるだろうか…?

と、閃く。「あえる」「きえる」「ほえる」「さえる」…「える」の前に一文字ひらがなをつけるだけで、一気に短歌向けの単語が出てきた。
何も「得る」に拘らなくても良いではないか。一気に風向きがこちらに向いてきた、
ここはやはりそのキャラクターの登場作品が「氷菓」なので、氷の菓子→「ひえる」、が良いのではないか。

というわけで「冷える黄昏」という一節が出来た。


やはり「夢で逢った」、というのは重要だ。
「夢で逢う」というのは何千年も前から今に至るまで使い古されてきた節である。
適当なテレビなどでこんなフレーズを用いた歌が流れてきたら「ああ、またこれか」と思うくらいありきたりだが、それほど「夢で逢う」というのは印象に残ることなのだろう。

夢、といえば、
「住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路(ぢ) 人目(ひとめ)よくらむ」
という百人一首の秀歌が思い浮かぶ。
もうひとつ夢にまつわる百人一首といえば、
「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ」
が思い浮かぶ。僕は断然こっちのほうが好きだ。多分ベスト5には入る。しかし、

「夢の通ひ路」――

まさにぴったりなのだ。ここはぱくらせて、もとい、「本歌取り」させてもらおう。

あと考えることは二つ。
何が「冷える」のか、そして、「夢の通ひ路」がどうしたのか。

ここは「黄昏」という単語を最大限に活かしたい。視覚的イメージも抜群で用いやすく、日が暮れていく感覚が切なくて良い。

「冷える」という単語のコントラストとして、「燃える(萌える)」という単語を置いてみてはどうか?
黄昏、日、燃える…充分に縁語として使えるではないか。

日が暮れ泥む中、「夢の通ひ路」は夕日で真っ赤に燃え上がり…そんな夕日のように私の心も燃えています、おお、いかにもいかにも短歌的。しかもこの場合は「燃える」ばかりではなく「萌える」でも通用するのだ。

「西日にもえて」(平仮名であることが大切だ)
「西日にもえる」、だとなんか「はぁ」となってしまいそうなので「もえて」としよう。もえてどうなるのかはわからないが、ともかく流した方が叙情的で趣深い。

あとは「冷える」だけとなった。
何が冷えるのだろう?エアコンの冷気で部屋の空気が冷えて…うーん、違う。
もう夏が近い。雨ですら空気を冷やせない。何が冷えるというのか?こんな季節に…

またしても閃く。セミだ。セミの鳴き声だ。
このひらめきに陶酔した僕は「セミの鳴き声以外の一体何がこの夏を冷やせようか」くらいにまで思っていたかもしれない。

セミ。ミンミンゼミやクマゼミやニイニイゼミやアブラゼミはちょっと違う。野暮だ。
ツクツクボウシは夏的だし、日が暮れる頃に鳴く(離島に住んでいた頃はよく捕まえていたものだ)。ぴったしのように見えるが、文字数が多い。

ヒグラシ。ヒグラシしかない。
「日暮らし」だし、「黄昏」と密接に結びつく。

最初は語調も良いので「ヒグラシ冷える」にしようかなと思ったけれど、それだと冷えきったヒグラシの死体が連想されてしまうので、「ヒグラシの鳴き声冷える」にした。ワンクッション置くことで、ぴったり収まった。


「ひぐらしの鳴き声冷える黄昏に 夢の通ひ路西日にもえて」


まずまずといったところか。うーん、でもこれだと、「黄昏」のもつ「闇が近づいてくる」風景の印象と、最後の命の輝きのように強く光る「西日」とは、合わない気もするがなぁ…まあこんなものだろう。


ところで、僕は昼寝をしていたわけじゃないし、もちろんあたり一帯にヒグラシが鳴いている訳でもない。
つまりこの短歌に書かれているのはウソの事実である。

しかし、ウソの出来事や状況を織り交ぜることによって、その時の感情を再現し、昇華するという手法は普通にある(というかそれが殆どなのでは?と思うが)。例えば、

「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」

という有名な短歌がある。
「君」がその味を褒めたのはサラダではないし(カラアゲだったっけ)、ほめられた日は7月6日ではなかったのだが、そのカラアゲだかなんだかを何月何日かに褒められたときの気持ちというものが、れっきとして再現されている。

短歌における虚構が、そのときの感情を忠実にリアルに再現し、映し出す。奥が深いなぁ。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

最新記事
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。