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春の夜の夢ばかりなる

夜である。外は静かである。
明日は2限がある。僕は遅くとも9時までには起きなければならない。
眠気は充溢し、課された宿題もない。この時間において、床につくことは最も望ましいことであるし、最も必要なことでもあるし、最も簡単なことでもある。それに、寝るべき理由こそあれ、寝ない理由はない。


では、なぜこうして僕は眠気を堪えながら起きているのだろうか。


本当に謎な、この妙な「行動原理」。僕をただ寝させずにいる、起き続けさせている原動力。
寝るための理由は手に余るほどあっても、寝ない理由は毛ほども存在していない。
「だから」僕は寝る、という図式が普通成り立つはずである。でも寝ていない。こうしてどうでもいいことを書き綴っている。僕を寝させないものは果たして何であろうか?何だろう。

と、こう考えているうちに、何とも奇っ怪な観念が浮かび始める。
「こういう状況において、僕を寝させない『何か』こそが、僕という人間の本質であるのだ」、と。

自分とは何か?それを問うことは、もう立派な哲学である。
自分、という矛盾。
(「人間という矛盾」、これはとある講義で聴いたフレーズなのだが、僕はこの言葉が大好きだ)

たとえば、何かを好きであること。
何か好きなものがあって、それをそこまで好きでないと自覚するに至ったとき、何となく自分が自分でなくなるような気がした…という経験は、誰にでもある…のだろうか。僕にはあるが。

何かを好きであること、それこそが僕という人間の本質の一部なのかもしれない。
ただし、好きでもないものを好きだと言ってしまうことは、時として本当に最悪な結果をもたらすことがある。だから人は、自分に対して絶えず敏感であるべきだと思う。

何かを好きであることがアイデンティティを維持している、ということは、あまり良くないことであろう。
いや、そうではない、アイデンティティを維持するために何かを好きになろうとする態度は、唾棄されるべきものであろう、と言いたかった。好きになる、という動詞は偶発的にしか成り立たない。
だから僕は、何かを好きだ好きだと言ってまわる人間が本当に嫌いなのだが、それはどうでもいい。

でもやはり、何かを好きであることが、アイデンティティと密接に関わる、関わってしまうという側面は、やはり無視できるものではないであろう。

何に対しても興味が持てなくなりそうな時というものがあって、そういう無価値の均一化が進むような危機的状況というものは、結局は長くは続かないものだけれど、やはり恐怖である。


「何かを好きであること」が自分の本質の一部であるとともに、自分が心の内に抱えている、どうしても治療することの出来ない…(なんと表現すべきだろう?)「わがまま」さ?
それもまた、それこそが、自分という人間なのだろうと思う。

たとえば僕にtwitterを止めさせた「それ」であり、mixiを止めさせた「それ」であり、それらを包括する、人間関係におけるあらゆる煩雑さに対する生理的嫌悪、…多分なのだけれど、僕は他の人よりそういう傾向が強い。

twitterのアカウントを消滅させた理由はたくさんあるけれど、それがどうして「止める」に繋がったのかを説明するのは難しい。
ただ、言うなればtwitterに引きずり回される自分が嫌になったのかもしれない。色んなことを考えたけど、やっぱりそうとしか言えないのだ。
端的に言えば、僕はtwitterが好きだったのだろう。だから放置を試みたけど、結局それは難しいことであった。
関係における「放置」というものは、最も愛のない、残酷な形態である。僕は基本的に「全か無か」を消極的に問う人間なのだろう。だから消した。


「意味のある、ツイート」。嗚呼、そういうことか。今を共有するという巧さ。
僕は下手だったのだなぁ。


twitterの話はどうでも良い。
ともあれこの奇妙さ不可解さを「奇妙・不可解」で処理せずに、言葉や熱意を尽くして「説明」することはとってもとっても必要なことだと思う。
またそれはいつか、気が向いたときに、そして今ほど眠くないときにしよう。


***

「氷菓」というアニメが面白い。
今期は「アクセルワールド」と「さんかれあ」、「アムネジア」の3つを中心に見ていたのだけれど、「氷菓」の手応えは抜群である。3作品が「氷菓」に差されるのがもう目に見えている。今は「やや面白い」でも、この先もっともっと面白くなるであろうことを、何故か確信できる。
「アクセルワールド」は最初の何週かは一番楽しみに待っていたアニメだったけれど、やはりこれ以上面白くはならんだろうなというのが分かる。


***

「そのときになれば、わかること」
というものは誰にだってあるだろう。

僕の場合、そういう事柄はその時になって初めて分かってからでも遅くないだろうという結構強い確信を持っているので、それを押しつけられるのは我慢ならんのだ。

大人になればわかること。立場が変わればわかること。
だから僕は僕より大人な人間や、立場が上の人間から、その立場なりの価値観を押しつけられるのは腹が立つし、大体そんなことされても、僕が実際にその立場や年齢に達しなければ実感しようがないはずなのだ。

無論それは、年上や立場が上の人を尊敬しないということを意味するわけではない。


小学生には小学生の、中学生には中学生の、未成年には未成年なりの、年寄りには年寄りなりの、価値観や悩みがあってしかるべきだ。
たとえば、僕が中学生だからというただそれだけの理由で、中学生になれば誰でも悟るような事柄を得意顔で小学生に押しつける、そんなまねをするような人間にはなりたくない。

「いつかわかるよ」、いつかわかるなら、今教える・教わる必要はないでしょう?
いつかわかることは、今わかってもそれは分かった気になってるだけだし、時が来れば(語弊を恐れずに言えば、無条件に)大抵の人間は勝手に学んでいくものだし、「先んじて知っておく」ことにどれだけの意義があるのか甚だ不透明だからである。

中学生は全力で中学生たるべきなのだ。


***

空が明るくなって来た。というか完全に青空である。どうしようもねぇ。

こんな空を見ていると、なんでさっきあれほどまで起きていたかった(というより、寝たくなかった)のか。いよいよもって分からなくなってくる。
麻雀でもしようか、QMAの問題回収でもしようか、図書館で借りてきたロシア文豪の本でも読み進めるか、サイトを巡回しようか、何か買いに行こうか、色々あるけど、何とはなしに鬱屈感が募る。
生活の難易度そのものは、確実に去年より簡単になっているのに。


やらなければヤバイことは絶対にやるのに、やらなくてもいいけどやらないと後悔するよ?ということは基本的にやらない。
やはり僕の人間性は意味不明だ。
「やらなかったこと」のツケが短期で現れるか長期で現れるかの違いでしかないのだろうか?にしても、あまりにもぶれるような。

***

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ




井伏鱒二。いやはや、すごい。

「価値」というものはどうして成り立つのか?それは、何事にも限りがあるという事実があるからだ。
限りのないものに価値は無いし、限りのない人生なんてものがもし成立したら、その人生は途端に無価値になる。
出会いや別れという概念は無に帰するだろう。まぁそんなことは言うも愚かなりで、当然の当然なのだが。

だから本当に、どうして不老不死というものが羨望を浴びているのか全くもって理解できない。

ちょっと違うけれど、死の影を携えている女の人は、本当に美しい。


***

ブログの名前を変えた。
「葵」「プラチナ」「絵巻」、どれもただ単に、僕が好きな言葉を並べただけである。




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No title

最近見ないと思ったらツイッターやめてたのかwww

No title

せやで!
5月4日くらいにやめたー
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みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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