「いのちを籠めて」

白鵬がまたも負けてしまった。
今日の白鵬はまるでいつもとは違う、最後の仕切りの際の小走りもなく、勝ってやろうという気概も見えず。
今回の相手はいつも圧勝している豊ノ島であった。立ち会いで一気に押し切るかとみればそうでもなく、豊ノ島に残され(ここでは残した豊ノ島の技巧が凄いというべきだろう)、豊ノ島の技が光るなかでも白鵬優位には変わりなかったのに、なぜかまた土俵際で捨て身の首投げをくらい、白鵬の体が一寸早く落ちた。

5勝4敗である。休場しても、なんらおかしくはない。

相撲を木曜日あたり見に行こうかと思っていたが、もし白鵬が休場したら…見に行く価値は正直半減してしまうかもなぁ。明日まで白鵬は出てきてくれるだろうか。としたら、火曜日つまり明日にでも見に行く他あるまい。

しかしそれにしても、僕はこの取組を講義中に見ていた訳なのだが、実に淋しくなった。
圧倒的に強い横綱の相撲はつまらないが、こう下位の力士に立て続けにやられる様を見ていると悲しくなってくる。

なぜ今回はこうも不調なのだろう。
「稽古不足」という見出しが躍る記事もあれば、「稽古のしすぎ」という論調の記事もある。
つまり誰にも分からないのだろう。ただ、今場所はいつもとくらべて稽古をしなさ過ぎた、ということはないようだ。
あるいはけがを隠しているのかもしれない。手の指の骨を折っているという話を耳にしたことがあるけれど、今回目立つのは下半身の不調である。上半身に下半身がついて行ってない。
初日の安美錦戦から何かが狂ってしまったのだろうか。そして本人も疑心暗鬼になっているのだろうか。

勝負の世界に於いて最も精神を安定させる手法が「とにかくも、勝ち続けること」だとしたら、今回はそれが上手くいかなかったという、ただそれだけのことなのだろうか。


今、2代目横審委員長で作家の故・舟橋聖一の『相撲記』という本を読んでいるのだが、これがまた本当に素晴らしい。
相撲を「見る」ということがいかに深遠なものなのかということを実感させられる。
この相撲記というのはもはや古典の域にあり、扱っている時代も双葉山だとか安藝ノ海だとか羽黒山だとか、まぁ錚々たる横綱が軒並み君臨している時代の話(第二次大戦前後、といえばよいだろうか)なのだが、提起されている問題が今と共通していることが多く、これもまた興味深い。

この本でもまた、双葉山が負けたときの話があって、
「双葉山は、負けても辞色変ぜずなどと、新聞に書かれるが、実際まだそこまで、達観はしておらぬと思われる。辞色、変ぜざるも、亦一種の負け惜しみのなせる業で、その証拠には、この横綱に、負癖の弊が、まだ、ふっきれていない。(中略)勝負は時の運だと、うそぶきながらも、口惜しいことは肝に徹して口惜しいのだから、やがて、それが、彼のファイトに逆流して、神経質となり、妄想となり、過大評価となり、アレルギーとなって――つづけざまに、又負ける。だから双葉の負けっぷりも、決して明朗とは申されない。」

まさにこれは今の白鵬であろうと、僕は思うのだ。


ちなみに個人的には、この次の一節が好きなのであって、
「相撲のように、はげしい実力の世界では、参禅は至難事である。むしろ、禅機は外になく、いのちを籠めて、勇奮する土俵の内部に存するのではないか。文学者の禅機も亦然り、外に非ず、ただ内に在りとも謂いたい。」

ともかくも相撲ファンなら一読することを強くお薦めしたい。
昔の力士を無闇に持ち上げていた面もあったり、またその逆に、現代の我々が思うより遙かに高度なものがそこにあるということに気付かされる面もあった。
どちらにしても、「相撲を見る」という行為は奥が深く、だからこそ面白いのだろうなぁと思うのである。


話が横道にそれまくったが、今日は白鵬が優勝争いからほぼ完全に脱落してしまい、この混戦模様のなか稀勢の里の優勝があるんじゃないかと、個人的には期待しているところです。

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