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「他人の感性をあたかも自分の感性のように」

「――語る人間が生理的に嫌い」

というつぶやきのようなものを半年くらい前?に目にしたことがあって、未だに時々それを思い出したりします。


そもそも他者が発露した「感性」というものを、果たしてそれがオリジナルであるのかそれとも他者からのパクりであるのか、それを他者目線からはどう判断できるのだろう、その基準はどこにあるのだろう?と思ったり、自分の感性を表現したその瞬間に、それは紛うことなく自分のそれなのに、先人たちの感性の類型の一つに組み込まれてしまっただけなのではと思ったり、価値観というものが他人から借りることによって醸成され、やがて化学反応のように発展する――つまり、幼い頃に親や教師といった存在から価値観を一時的に「ぱくる」ことによって初めて、「オリジナル」の価値観が発生するように、感性もそんな風にして出来上がるんじゃないの?とか思ったり。そうだとしたらオリジナルなのかパクリなのかという線引きは無意味になりますから。

ところで最近、初めて小説的な文章を書いてみました。
厳密にはストーリーらしいストーリーが無いのですから、それは小説とは呼べない(エッセーかなぁ)のですが、まぁ自分なりに推敲し、彫琢し、寝かせたりしながら、少しだけ時間をかけて書きました。こういう書き方は殆ど初めてといってよく(ブログの記事は適当に書いてろくに見返しもせず更新して放置です)、少しだけ難しい語彙を背伸びして使ってみたり。こういう書き方ってのは本来は僕の書き方ではありません(文学的才能が無い人間がそういうことをしたら空中分解したような文章しか出来ませんからね)が、少し思うところがあって、試みとしてそんな文章をつらつらと綴りました。

それがこれです。


なにしろ初めてだったので色々思うところや学ぶところ反省すべきところなどあるのですが、やはり一番強く感じたのは先に挙げた「感性」の話でした。

結論から言ってしまえば、「自分の感性なのに、それを他人の感性だと思わせてしまう――その"技術"の未熟さという点で、表現者に責任がある」とでも言えるでしょうか。


「他人の感性を自分のもののように語る」人間というのは、本質的には存在しないんじゃないかな。
今まで見てきた中でそういうことを堂々とする(他人の文章を丸々剽窃したりとか?)人間は、思い出せないだけかもしれませんが記憶にありません。

してみると、まずいのはその表現にあるのではないだろうか。
言い回しや表現が陳腐で稚拙でありふれているが故に、他者の共感を呼び覚ますことができない、といったように。そう考えれば、やはり未熟な表現者が悪い。
他者の感性をぱくっている、そう「見えるだけ」であって実際はそうじゃないのだけれど、やはりそう「見せて」しまう未熟さ。忌むべき相手はそこにあるのかもしれません。


具体例を挙げるのは気が引けるけれど、有線で掛かってくるようなJ-POPの歌詞を聴いていると、そう感じることはよくあります。「好きだ好きだお前を愛してる」とか、それは確かにあなたの感性なのだろうけど、やっぱりそれは他の人もいっぱい同じ事を感じているわけで。それをわざわざ歌にするって事は、それなりにオリジナリティが無いといけない。他者と区分されるポイントがないといけない。してみるとメロディはともかく歌詞はダメだと言いたくなってしまう。「多数の中の一つ」になってしまう。

ありふれた表現を使い回すことは誰にでもできますし、論理不明な単語をそれっぽく並べてこれが俺の感性だと言い張ることも誰にでも出来ます。しかしオリジナルの感性をオリジナリティたっぷりに語ること、これは殆どの人ができません。僕もできません。そういう意味で感性をそんな風に表現できるというのは間違いなく才能なのでしょうね。


表現力、語彙力、文章力、論理力、こんなこといってると女子力()みたいになってきますけど、ともかく技術があってはじめて自分の感性というものが「感性」として昇華するのかな、と思います。

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