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ragione d'essere

覚えてていいよ
http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-232.html


鹿児島を離れ・東京に出発する、まさにその日のこと。
鹿児島県民から東京都民になる、人生史上指折りの分水嶺、境界の日を綴った記事である。
言うまでもないことだが、この変化は地理的な変化に留まらない。


文学的才能のない自分は、文学的でない「素直さで精錬された」とでも言うべき文章を書くことを常々念頭に置いているのだが、

新幹線に入り、振り返ってみたときに、ちょうど太陽がこちら側に差し込んでおり、その太陽に透かされた4人の姿はまるで絵写真のようであった。



というこの表現だけは、手放しで自画自賛できる。
というのも、この文章を目にする度に、僕はまさにその時の視覚的な風景と、その時の心情をリアルに思い出すことが出来るからだ。

文章というのは、何かを誰かに伝えるための道具だ、というのが第一義の存在事由であると僕は思う。
それは必ずしも、「自分と他者」という構図に留まらない。
「過去の自分と、未来の自分」という構図も、もちろんそこに存在している。

だから僕は、どんな文章であれ「伝わり得なければ意味がない」と思っている。
(伝わらなければ意味がない、ではなく、伝わり得なければ意味がない、ね)

ゆえに背伸び的な、鼻につく「文学的」な文章は、僕は嫌いだ。
「伝える」という行為が、意志が、第一ではないからである。

「伝える」ことを前提とした上で、その意志を補助するために、文学的な表現というものは存在している。
でなければ結局文学的な表現というのは活きない。ただの自己満足、ファッション、そんな文章を読んだところで鼻白むだけだ。

過去の自分の記事を読んでいても、僕がそう感じる箇所は幾つもある。

翻ってみるに、さきほど僕が引用した箇所もまた、(笑)を付したくなるほどに「文学的」である。
にもかかわらず、そのときの風景を、心象を、家族一人一人の表情を、これほどまでに(少なくとも今の僕に)伝えてくれる文章を書けているというところに、なにかありがたさ?を感じる。

この「絵写真」を目にしたとき、主人公は一体何を思ったのだろうか…。

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