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「境界線」

境界線というものは、どのようにして定まっているのだろうか?


たとえば、整形手術というものがある。
僕自身は整形手術というものに、あまり良い心証は抱いていない。
しかし、男性と女性とでは「容貌」の持つ意味合いが全然違うということも知っている。
だからどうしてもそれを求める人に対して、僕が面と向かって否定することは出来ない。


それはさておき、一体どこからが「整形」なのだろう?
鼻にシリコンを埋めたり、二重まぶたにしたり…これは「整形」と言えるだろう。
では、眼鏡をかけたり、銀歯を埋め込んだりすることは、これは整形だろうか?
これらを「整形」と呼ぶのには、おそらく殆どの人が違和を感じるだろう。
それでは、歯列矯正は、果たして「整形」だろうか?
多分これはyesと答える人もいるし、Noと答える人もいるだろう。


上の3つの例はどれも、身体について何らかの補正を掛けているという点では同じである。

だから眼鏡を掛け、銀歯を埋めている僕が、もし仮に整形手術というものを否定しようとしたとして、一体「どこからが」整形と呼べるのか?ということを設定しなければ僕は何ら説得力のある論理を生み出すことはできないであろう。


しかしながらその一方で、境界線を厳密に設定したところで、良い結果に終わるということは実のところ殆どないのではないか、とも思う。

①既存の境界線を、ゼロサム的にすることによって明確にしようとする場合

これがいわゆる「極論」、すなわち論理的に全く正しいのに何ら説得力を持たない論理を生み出す温床となる。
上の例で言えば、「身体に 何 ら か の補正を掛けているものは全て否定されるべきである」というように境界をさだめる場合である。
その時彼は、例えば爪を切ったり、髪を切ったり、服を着たりといったことも全部唾棄すべきものとして定めなければならない。

もっとも上の例においてこの手法をとる人は少ないが、ゼロサム的に境界を定め、極論を生み出してしまうということは往々にしてある。例えば宗教などがそうだ。

上の例で言えば、圧倒的にもう1つの方法がとられることが多いだろう。つまり、

②新しい境界線を設定する場合

である。
例えば「メスを」使うか否かによって、整形かそうでないかを定めるとか、そういう場合である。
もっとも、この手法にしたってあまり分が良いとは言えない。
独自に定めた新境界線を、他者が受け入れるとは限らないからである。

「メスを使ってるのがダメなら、一般の手術も整形手術ってことになるよね?」とか。
「それはお前の定義だろ」と、とりつく島もなく却下されたりとか。(定義もまた、立派な境界線といえる)

それにこの場合、その「境界線」というものが結局本人の好き嫌いであることが圧倒的に多いのだ。
でも好き嫌いで他者を納得させられる訳がないから、なんとなくそれっぽい境界線を定めて、それっぽい論理を付与して、うまくごまかしてるってことの方が多い気がする。
つまり、「世間というのは、君じゃないか」という、太宰治の一節みたいに。


***


境界線というものは結局、社会というか世間によってゆるやかに定まっていくものなのだと思う。
それは確かにあるけれども、決して明確にはなり得ない。

境界線が最も大切になるのは、やはり「Guilty or not Guilty」の場面であろう。

人を殺すことは罪か?これは罪である。なぜ罪か?それは法律で罪だからと定められているからではない。99.99999%くらいの人間が、それは「いけないことだ」と思っているからである。

では空気中の細菌を殺すことは罪か?これを罪だと思っている人はおそらく、もう人間をやめてしまっているだろう。

では蚊を殺すことはどうか?セミは?ネズミは?クジラは?

ここにも数多の境界線創造可能性がある。そして、それと同じくらいその境界線が否定される瑕疵が存在している。
「大きければ良い、小さければダメ」→人を殺すより、クジラを殺す方が罪が大きいのか?
「ペットはダメ、それ以外は良い」→野良犬を殺すことは肯定されるのか?

または、ゼロサム的に(今思ったがこれは境界を無くすことと同義だな)境界を定めることもできる。
例えば「生きるものを殺すことは全て禁じられるべきである」と。

先ほど宗教を例に挙げたのは、ジャイナ教の無殺生主義(アヒンサー)がこれにあたるからである。


しかしながら厄介なことに、罪の大小が存在するのもまた確かだ。
人殺しと立ち小便はどちらも「罪」だけれど、どう考えてもそのレベルには差異がある。
そしてそのレベルというものは、結局世間でどの程度の人間がそれを罪だと思っているか?という、漠然とした数によって定められているのだろうと僕自身は考えている。

そしてそれ故に、その境界線が「可変的」であることが、怖いところでもあるのだ。
殺人が積極的に肯定される場面は、歴史的に見ても何度となくある。


***


ゆえに、厳密な「境界線」を巡って論争することに、それほどの意義は無いと思う。
「境界線」で不毛な争いを続けるよりも、別の角度・視点からものごとに新たな意義を付与するやり方のほうが生産的だし、楽だ。



#補足
その微妙なところに位置する境界線の認識の差異が、そのまま「誤解可能性」に繋がっていくのだろうと思う。

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