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柄にもなく「生き方」について考えてみる

「自分の思うままに生きる」
これは、万人が万人の生き方を語る上で必ず理想像として挙げられる生き方であろう。
「現実」に漸近して生きていくという、どんな人間もそれを「強いられる」運命にある生き方すら、思うままに生きるという理想的生き方のアンチテーゼ的位置づけ方をされているように思われる。

人間はみな思うままに生きることが出来ない。
これは人間であるが故の宿命であり、人間であり続けるために支払わなければならない代償なのである。
これもまた、永遠の理想(現実になり得ない)という点で、絶望の一つの形である。

しかしながら、思うままに生きること=人間をやめること、という図式が成り立っているのであれば、それは絶望でありながらにして救いでもあるだろう。
なぜならば、思うままに生きることは絶対的な苦痛だからである。


さて、思うままに生きるということと、人間関係を維持発展させるということとは、両立しうるだろうか。
それが可能か否かはさておき、この問いを考えることで見えてくるのは、結局「生きる」ということは自分だけの行動ではないということである。
それは一つの社会的営みである。
生きるということは、私という主体が主導権を握っている行為であると同時に、人間という枠組みの中における行為でもある。
ということはつまり、人生というものは自分だけのものではないということである。
自分に完全に属していると思われていた「わたしの人生」というものは、実は他者の所有物でもあるのだ。
(ちなみに自分の人生は自分のものだ、という考え方はそもそも近代的な価値観の一つにすぎない。)

ここにこそ、思うままに生きることがなぜ不可能なのか、またはなぜ絶対的に苦痛なのか、の根拠がある。
(自分こそが)思うままに生きるということは、自分にとってもっとも身近な社会形態――すなわち「人間関係」に対しての反逆だからである。
生きるということは社会的営みである。人生は他者との共有物である。
この定義から鑑みてみれば、人間は決して自分だけの意志で生きるようには出来ていない。人間というものはそういうつくりになっているのだ。

不可能であるはずの「思うままに生きる」ということをもし可能にするならば、全ての人間関係を粛正するしかない。
しかし広い意味での人間関係を全て清算することは、これまた不可能である。
ものを食べるにも、眠るにも、そこには人間関係が関わっているからである。
むしろもっと深く考えるならば(キルケゴール的に言うならば)、そこには「自分と自己自身」という人間関係があるとも言えるだろう。

思うままに生きるには、人間関係を粛正するしかない。
人間関係を粛正するには、死しかない。
つまり、思うままに生きるには、死ぬしかない。
思うままに生きること=人間をやめる、という図式は確かに成り立つ。


***

好きなことをやる上で、人間関係上の犠牲はつきものだ。
身近な例で言えば、「私には言いたいことがある。でもそれを言うと誰かとの縁が切れてしまう」というのもある。
好きなことをするには、常にこの手のリスクはついて回るのだ。それを心得ておく必要があると、僕は思う。というよりそんなの当たり前だろう。

自分が自分である以上、誰かとの関係が破綻する時の痛みというのは、我々が人間として生まれ落ちた時にプログラムされた代償なのだ。
だからそれは仕方のないこととして受け入れていくしかない。
もちろんそれは痛いことだし、辛いことだし、おそらくこれからもその痛みに慣れることは出来ないであろう。

でもそれが痛かったからといって、「なぜ僕のことが嫌いになったの?」などという問いは、絶対に発してはならない。


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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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