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見えざる領域

「ある文学作品を読み解く際、筆者が考えたであろうことを越えても良いのかどうか?」
僕自身は文学評論なるものをしたことはないが、おそらくこの手の問題は常について回るだろう。
そしてこの問題は文学に限らない。

たとえば東方projectで考えてみよう。
東方シリーズに登場するキャラが作中で発する台詞は「意味深」である。
それらの台詞を読み解くにおいて、あるファンはこう言う。
「この台詞は、ZUNの~という概念が含まれており、これはすなわち~ということを意味しているのだ」
またあるファンはこう反論する。
「いや、ZUNはただ適当に無意味な単語を並べて、それっぽく整えただけだ」、と。

この命題は畢竟、「筆者がどの程度の含蓄を込めてそれを書いたのか、を見極める」ということに集約される。
もっとややこしいことには、意味深な文章(文章に限らず、ありとあらゆる言葉や行為)を前にしたとき、「評論家」は「それが何を意味しているのか」以前に、「それは何かを意味しているのか、または何ものをも意味していないのか」(意味の有無)ということをまず考えなければならない。


しかし僕の結論から言ってしまえば、「何事かを意味してようとしていまいと、解釈それ自体の価値が変動することはない」ということだ。
そしてこの結論の前提にあるのは、「それが何事かを意味しているか、意味していないか」ということは結局のところわからない、というある種の諦観である。

なぜわからないか?
一つは、解釈される文章を書いた人間に直接その真意を問うのは難しいからである(たとえ問えたとしても、それが正しいかどうかはわからない)。
もう一つは以前の記事に書いたとおり、人間の本質はより深い次元にあるので、およそ普通の人には理解されないような意味合いが込められている可能性があるからである。


わかることが本質的に不可能な場合、それをわかろうとする努力はむしろしてはいけない。
(これはあくまでも僕なりの意見であり、やり方でしかないが。)
それは中身の見えない二つの箱(その内の一つに赤い玉が入っているとしよう。さらに実際にその箱の中身を確認することは永遠に出来ないとしよう)を前にして、どちらに赤い玉が入っているのかを延々考え続けることと同義だと思っているからだ。

で、あるならば。
とある文章が何かを意味するか否か、というポイントは考える必要がないのだ。

すなわち結論は次のような言葉遊び的な意見に落ち着く。
「意味があると考える人にとっては意味があり、意味がないと考える人にとっては意味がない」

そしてどちらを選ぶかどうかは、それは好き嫌いの問題でしかない。


この一連の問いに答え続けていく内に見えてくるのは、解釈というものは結局のところ自分にとってしか効力を持たない、ということである。
もちろん自分の解釈が他人の共感も呼ぶこともあるが、その共感はあくまでむこうからいわば勝手にやってくるものなのであって、自分から強制することは出来ない。いかなる論理を持っても本質的には強制できない。

たとえ多数派の解釈があったとしても、その解釈に共感できるかどうかは結局自分次第なのである。


さきほどの東方の話で言えば、意味がある派・意味がない派はどっちも解釈としては成り立っている。
では筆者が文章に込めた以上の意味を勝手に読み取って、妄想しても良いのか?

結論を言えば、それは可である。
ただし解釈は一人一人に固有なものなのであって、したがって他人に押しつける、その解釈を強制することがあってはならないということについては留意しておく必要がある。

ZUNがブログかどこかで、確か「ファンの方が充分に妄想できる、または妄想しすぎることのできるゲームとなっております」みたいなことを書いていたような記憶がある。
妄想しすぎる、とZUNが書いているということは、あきらかに巷にはZUNのこめた意味を越えてしまった解釈つまり妄想が存在しているということを意味している。
しかしだからといって、その解釈が無価値であるということはない。少なくとも当人にとっては価値を有している。

余談だが同じことを、『ローゼンメイデン』について侃々諤々していたころから思ったりもしていた。
PEACH-PITがどこまで意味を含ませているのかというところから解釈を決めていこうというきらいがあったが、結局それは彼女ら自身のみぞ知るのであり、したがってそこから解釈を決めていくことは不可能だ。

すなわち、作者がどれほどの意味を込めたかということは、解釈の絶対的正しさの指標にはなりえない。
それは、どんな解釈も平等に正しく、平等に正しくない、ということなのだ。
であるならば、「誰にでも通じる正しさ」ではなく「自分にとっての正しさ」を追い求めていくのが、理想的な態度なのかもしれない。



ただ自身の立場を明確にしておくなら、僕自身は作者の意図を越える(と思われる)解釈は嫌いである。

かつて「崖の上のポニョ」をあらゆる心理学的視点から考察し、さまざまなシーンから心理学的意味を見出し、この映画は大変素晴らしい!!と書いているブログを見たことがある。
心理学の素養など全く無いし、また持ちたくもないと考えている自分に言わせてみれば、単に心理学の教養を見せびらかしたかっただけの嫌味な文章にしか映らなかった(自分も全く同じことを言われたことがあるけど)。
なにより宮崎駿はそこまで考えていないだろう…と。

しかし宮崎駿がそこまで考えていたかどうかということは「見えざる領域」なのであり、解釈も固有の道だとすれば、その嫌味な解釈も充分に解釈として成り立っているのだ。
その解釈者にとって意味があれば、それは意味を持つのだ。


まことに不快なその解釈をある程度認めなければならないというのは我ながら残念きわまりないが、理屈でちゃんと考えてそれなりに譲歩できるようになったのは自分の成長だと前向きに捉えるようにしたい。




もう一つ余談だが、この考え方を応用すれば、次のことも言える。
「人生に意味があるかどうかを考えるとき、人生は意味を持つと考えている人の人生は(少なくとも当人には)意味を持つし、人生は意味を持たないと考えている人の人生は(少なくとも当人には)意味を持たない」

でもこれは言葉にしてみたらあまりにも当たり前のように見える陳腐でありふれた意見だ。
もしかしたら真理というものは、当たり前のところに落ち着くのかもしれない。追い求める類のものではなく、元々そこにあったものに気づく類のものなのかもしれない。


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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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