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二都物語-断片のメモ

<文章を書くときに個人的に気をつけていること>

・背伸びしない。
(googleで調べたようなやたら難しい語彙を使って頭の良いふりをしない、など)
・ありもしないようなことを、あたかもあるかのようなふりをしない。
(例えば、文章がなんとなく美しくなるからという理由で、感じても居ないことをあたかも感じたかのようにして書いてしまうこと:上の「背伸びしない」と似ている)
・極力、日本語を正しく運用する。
(主語と述語が極力明確になるようにする、指示語が何を指しているのかが明確であるようにする、助詞を正しく使う、などなど。常に相手に伝わるような文章を書くことを意識する。それが出来ないのに、思いついたことをつらつらと意味不明な日本語で書き表すのは「感情表現」ではなく、「逃げ」。ただし100%拘る必要は無し)

基本的にはこの3つしかありません。
3つしかありませんが、守れているかどうかは我ながら結構あやしいです。
豊穣な語彙?うまいことを言うこと?
それらに価値が無いとまでは言いませんが、遙かに重要度は劣ります。

もちろん語彙を身につける勉強はしていますが、単なるお遊びのような感じです。まさにゲーム感覚。

なので自分の文章の弱点としては、話題にあまり気を遣わないせいで、文章に統一感が出にくいというところでしょうか。
一つの文、およびそれらの小さい集合体ではカッチリ整っていても、文章全体で見ると比較的に整っていない。

また、文章を短く纏めることが出来ないのも修正すべき点です。
本当に頭の良い人間は、実に短く、それでいて的確に論理を展開し、相手を納得させてしまいますから。



新宿にはいろんな人がいます。
キモオタから暴力団構成員まで誰でもござれです。
実に多くのタイプの人間がいて、それでいながら互いが互いに心的に干渉しない街です。
具体的に言えば、昨日に至っては新宿駅構内で抱きしめ合ってる中学生カップルを見かけましたが、それが明らかに非日常的な光景なのになぜか日常茶飯事の出来事のように錯覚する、そんな街です。


新宿では自分を大きく見せる必要がない。
ないものを、あたかもあるように見せる必要がない。
他の街(意外かもしれないけど特に秋葉原)、そしてネットで感じるような気疲れをする必要がない。

ちなみに僕の人生のこれからの目標は、「無いものをあるかのようなふりをしない」です。
わざわざ目標に据えるあたり、今までそれが出来ていなかったのは言うまでもありません。


話は少々脱線しますが、無いものをあるかのように見せる生き方もしたくなければ、無いものをあるかのようにみせる文章も書きたくありません(大学のレポートなど、書かなければならない文章を書く場合を除きます)。
ほら、無いものをあるかのように見せてる文章って、すぐに分かるじゃないですか。空中分解してて。そんな文章は書くだけ時間の無駄なのです。

最悪なのは、その「無いもの」が「頭の良さ」に相当する場合です。
なぜかというと、そういう文章は読み手どころか書き手にすら理解されていないことがあるからです。まさに誰得

文章というのは自分の「感性」だの「論理」だのをただ見せつけるだけのツールであってはならない。100%とまでは言わないから、読み手に理解してもらうことが必要です。
読み手に理解してもらうことを放棄するのは逃げとしか言いようがありません。
手書きの日記や、誰も見に来ないブログのような、読み手と書き手が完全一致する場合であったとしてもそう。
もちろん、相手に少しでも理解させる気すらない人間の持つ「感性」や「論理」といったものは、たいてい支離滅裂なのですけれどね。
具体例を挙げれば、例えば厨二病的文章などです。


(本当はそうでもないのに)頭が良いふりをしたいがためだけに、「それっぽい」文章を書く。
そこに目的は先立たない。文章の内容それ自体は何らの意味を持たない、単なるファッションでしかなくなっている。
そんな文章は読んでて面白くも何ともないし、書くだけ時間の無駄だと言わざるを得ません。


うまいことは言わなくて良い。語彙力なんかは無くてもかまわない。
でも「背伸び」した文章だけは、20を越えた人間として絶対に書きたくない。
それは一見簡単なことだけど、趣味で書く文章にすら責任が生じるということでもあります。
言い換えれば、自分の文章について説明を求められたら、説明できなければならない、それほどまで自分が書いた文章を自分で理解しておく責任が。
つまり、背伸びしない文章を書くというのは、ほんっっっとうに難しいことなのです。無意識にフィーリングで書いちゃうことのなんと多いことか。

それが出来ていないと、相手を煙に巻くような曖昧な文章が出来上がってしまいます。
いかにも「あなたが私の書いた文章を理解できないのは、あなたの頭が悪いからなのですよ」と言いたげな文章。
その場合おそらく書き手自身が自分の書いた文章を理解できていないことが多いと思われます。

同じことを繰り返しているような気がしますが、
「自分の深い部分を抽出し文章に表出させる」という行為は、フィーリングで思いついたような気がすることを支離滅裂な日本語で書き表すことではありません。それは表現とはいいません、単なる甘えです。
そういう文章を書くのはいずれかの段階で卒業しなければならない。

脳内の何かを目に見えるようにするために文章を書く、ということだけではなく、文章を書くことによって脳内に何かを生みだす、という側面がある以上、たとえおよそ文章にすることができそうもないような自分のコアにあたる深い深い部分を、洗練された文章を以て表現しようと努めようとする行為は、非常に重要です。

もちろん言うまでもないことですが、文章というのは「不完全な器」ですから、自分の核心を完璧に描出することは不可能です。
でも粘り強く自分の潜在意識と対話し、それを文章という器に盛っていくという行為は、とても大切で、驚くほど難しく、そして楽しい「挑戦」なのです。


特殊な語彙を使って頭の良いふりをしている文章の代表格としては、「涼宮ハルヒの驚愕」に出てくる佐々木の一連の台詞があげられます。
佐々木という秀才キャラを立ち上げるために、「韜晦」という見慣れない語彙を作者はたくさんしゃべらせていますが、他の語彙がそれに追いついていないために、「韜晦」という単語が浮いてしまい、ひいては佐々木の台詞全体が浮いてしまっています。

読書量の乏しい自分があえて挙げるとするならば、たとえば『山月記』(中島敦)、『草枕』(夏目漱石)の、出だしの1ページでいいので読んでみてください。本当に語彙のある人間はこうも違うのかと感じることと思います。それは圧倒的高次元での統一であり、そこに嫌味ったらしさは微塵も感じられません。
漢籍の素養は偉大ですね。


僕が好きな文学作品はほぼ明治~昭和期の日本人作家の小説に集中しているのですが、なぜか村上春樹の小説も好きなのは多分それが背伸びしてない文章だからなのかなぁと今は思います。

背伸びしない文章というものが、結局のところ最も洗練された文章なのです。

書き慣れてないことを隠したいが為だったり、妙に自分を大きく見せようという意図を持って書かれた文章などは、見る人が見れば一発で看破されてしまいます。本当はわかってないでしょキミ、みたいな。

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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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