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@lapis_nivis

僕は文章を書くのが好きだ。

背伸びせず、昂ぶりすぎず、内向的すぎず、抽象的すぎない文章を書くのが好きだ。

このブログは、そんな僕の文章欲のはけ口でしかない。
それ以上でも、それ以下でもない。

つまりこのブログは、僕の純度100%の自己満足である。


ブログで他人に寄与できる人間は本当に凄いと思う。
ただ自分がそうでありたいとは正直毛ほども思っていない。

だからこそこうして恒常的にブログを更新できているのかもしれない。
完全なる自己満足で、他人の視線なんてこれっぽっちも意識していないからこそ。


僕は高2の時から日記(もちろん、手書き)を始めた。
初めは、日々の出来事を記録しておきたいというのがその最たる動機だったように思う。
当時僕には好きな人がいたから、衝動的にそんなことを考えたのかもしれない。

「日記文化」そのものは、高校時代の終焉とともに廃れてしまったが(むしろ逆に卒業してからも少しだけ続いていたことを自賛したいくらいだ)、代わりに「翠凜見聞録」というブログがその役割を担うことになる。
翠凜見聞録は、名を変え、場所を変え、結局今の「ここ」に落ち着いている。
しかしながら記事はほぼ全て引き継いでいるので、内容は当時と何ら変わっていない。

日常記録媒体は、やがて僕に「文章を書くこと」に対する明確な愛情を芽生えさせた。


僕は別に文章が上手くなりたいという野心に満ちあふれているというわけではない。
いや、当然少しくらいはそんな欲求もあるけれど、それはただ漠然とした憧れ?みたいなものでしかない。
文章を上手に書けるための、何かしらの能動的な努力をしているということも、ない。

ただ文章を書くのはやはり楽しい。
文章を読むのと同じくらい楽しい。

ゲームとか麻雀とかお酒とか、かわいい女の子に出会うとか、そんなわかりやすい幸せではないけれど。
文章に携わるというのはとても質素で地味な幸せなのだ。

わかりやすい幸せというものは、何かにつけて邪魔されるものだ。
そして、その幸せを手に入れると同時に、それを失ったときの、ある種の運命づけられた不幸も手に入れてしまうのだ。

だが文章に携わるという幸せにはそれは原則として存在しない。
文章を読み、書いている自分という主体は何者にも邪魔されない。

そこには本質的な自由が横たわっている。
本質的な自由というのは、つまり漠然とした不安を産み出さない自由のことだ。
自由すぎて頼るものが無く不安になる、なんてことになりえない自由のことだ。


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みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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