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紳助引退に思う

島田紳助が引退しましたね。
2ちゃんねるがそこそこ祭りになりました。結構楽しかったです。

さて彼の嫌われる所以というのは、表向きで見せる「素敵やん?」で代表されるような心の清い"キャラ"、そして裏に秘めている黒い一面とのギャップにあると思うのです。
それで、今回はその後者の一面が浮き彫りになってしまったと。

僕自身彼のことは特に好きではありません。
しかし個人的に思うのは、彼の表向きのキャラが嘘で、裏向きの黒い部分こそが彼の本質であり本当である――という考え方は、いささか思慮(というより、人間関係に対する洞察)に欠けているということです。
これは根拠もないことですが、多分どっちの姿も彼の素ではなかったのではないだろうか?と。

なぜそう考えるのかというと、普通の人間というものは大抵、恐ろしいほどの俗と、恐ろしいほどの聖を「兼ね備えている」からです。自分自身だってそうだし、短い人生ながらも他人にそういう部分を見出す機会というのは結構ありました。
このことは、性善説と性悪説というあまりにも馬鹿馬鹿しい2分法を自分が否定している一つの理由でもあるわけですが。
例えば『ノルウェイの森』でも、永沢というキャラは「びっくりするくらい善人であると同時に、どうしようもない俗物だった」(「と同時に」、としているところが流石だなぁと思う)という人間として描写されてますし、『カラマーゾフの兄弟』に登場する道化の父ヒョードルだって、彼の涙は別に嘘ではない(少なくとも嘘だとは言い切れない)と思うのです。

そもそも、誰かの一面を「真か偽か」で見極めようとする際、何か明確な根拠といったものなどありはしないわけです。
しばしば「目に見えることこそ嘘で、隠されているものこそ真理」という思い込みが跋扈しますが、それもまたホントかどうか疑わしいものです。
禅宗で用いられる十牛図というものがありますが、あれは「真理(悟り)というものは、実は自分の中にすでにあったのだ」ということを知るまでの過程をあらわしたものです。元々そこにあったものに気づかず、わざわざ隠されているところを暴いたりして遠回りする姿をあらわしたものです。

「わからない」ことは分かるように努力しなければならない。
でも「わかりようもない」ことは、むしろそれを分かる努力をしてはならないのです。
ゆえに、人間関係で他人を判断するときに必要とされる要素はたった一つ。
「信じるか、否か」です。
他人の行動を、真なら真と、偽なら偽と「信じる」こと。
むしろそれは、他人をというよりも自分の判断をこそ信じる、という意味合いが強いかもしれません。

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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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