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ねむりねこ

(8月6日、日光旅行時の日記を転載)


栃木県日光市に行ってきました。
東照宮とか華厳の滝とか、あとなんかでかい山とかでかい湖とかがある観光地です。

小学校以来の友達と行ってきました。
21歳のくせに青春18切符なるものを使って行きました。

それにしても、中学以前の友達と、高校以降の友達というのは全然違いますね。
高校以降の友達というのは、割と似たもの同士がくっついたり、または「戦友」的な感じで結びついたりしている。
しかし中学以前の友達というのは、もしその人と高校や大学で初めて出会ったとしても、まず間違いなく仲良くなれないだろって感じの人が多い気がする。なんというか、住んでいる世界が違うというか。

だから共通の話題や経験といったものは欠けているわけだけど、それでもなんとなく一緒にいて楽しい。
「一期一会」という言葉には、「同じ時間における、地理的な平面上での出会い」の難しさ・尊さを表すニュアンスが見出されがちだけど、実は「同じ座標における、違う時間での出会い」の難しさや尊さも表しているのかなと思います。

つまり、もともとその人と出会う運命だったけど、その出会いのタイミングによって、どれくらいの縁になってしまうかが大きく変わってしまう…というような。後者の意味の方がより運命論的です。


ともあれ、日光について早速僕たちは東照宮へと行ってきました。
感想は特になし。階段が急でした。疲れました。おわり

それで、ちょうど昼くらいだったので、適当な店に入りました。
「湯波」をみなさんはご存じでしょうか?
ゆば(湯葉、湯波、油皮)は、大豆の加工食品の一つ。豆乳を加熱した時、ラムスデン現象によって液面に形成される膜を、竹串などを使って引き上げた物で、植物性蛋白質に富む精進料理の材料である。ためになりましたね。
以上wikipediaからの引用おわりです。

ちなみにその友達は、湯波のことを蕎麦と勘違いしていました。アホですね。
かくいう僕は何かの葉っぱだと思っていました。

しかしいくら日光の名産品とはいえ、あれで2700円は無いわ。
マジで無いわ。無い。
マジアカ27回(T/S新宿だったら40回)できるじゃねーか!ちくしょう!!
まぁ美味しかったからいいけど


そのゆば料理店の近くには神橋とよばれる地がありました。
すごかったです。川が碧かったです。感動しました。日光に来てよかったと思いました。
写メを狂った猿のように撮りまくりました。


…ところで「写メを撮る」という行為は何なのでしょうねぇ?

みなさんには、写メを撮った風景が案外心に残らないという経験がありませんか?
一応東照宮でも写メを撮りましたけど、そしてフォルダを見れば東照宮の写メがありますけど、そのとき自分が考えたり感じたことって案外抜けてます。

一方、写真に残ってないことでも、…いや写真に残さなかったからこそ?より印象深く心に残っている風景ってあると思うのです。

「写メを撮る」というのは、畢竟、ぼくはそのときそこにいましたという「事実」だけしか残さない。
写メというのはある種の保険のようなもので、そこにある得難い景色や風景を、形として留め、かつ何度でも焼き増しできるようにするものなのだと思ってる。
でも、それによって生じるある種の安心感がゆるみとなって、「今」そこにいて、その風景を見ているというライブ感とでも呼ぶべきものが失われて、結果「事実」だけしか残らず、感慨も薄いものになってしまう。

風景を見るという行為は、そこにあるヴィジュアル的な要素だけで成り立っているわけではない。
その風景にたどり着くまでの何気ない友達との会話だったり、そこにいるときの空気だったり(日光の空気はとてもおいしかったです)、そこに他にいる人々だったり、天気だったり、そのとき付随して起こった些末な出来事だったり、直前に読んだ小説であったり、…もう数え切れないほどの要素から成り立っている。

好きなミュージシャンのライブだったりとか、好きなアニメの最終回で録画ができない状況だったりとか、高校生活最後の一日だとか、そういう「二度と戻ってこないんだ」という強い実感は、その時の感慨を驀進的に印象深いものにするのかもしれません。

かくいう自分も、写メをボイスにあげることによって「事実」だけを伝えているわけですけどね。

もちろん写メが引き金となって、そのときの懐かしい記憶が連鎖的に蘇ることもある。そういう面では写メもまた大切なものだと思います。


さて、その後で僕たちは華厳の滝に行ってきました。
華厳の滝は日本三大瀑布にも数えられるほどの…めんどくさいのでwikiってください。

いやーしかしこれもすごかったですね。
まず夏だというのに寒い。いやこれは滝とは関係ないけど
そしてだんごが美味しかった。いやこれも以下略

まぁ、花よりだんご、だんごより女の子、ですよねwwwwwwwwwwwグェヘヘwwwwwwwwwすみませんでした

冗談はさておき華厳の滝は壮大でした。
大自然は素晴らしいですね。自分のちっぽけさを教えてくれます(なんという苔むした感想)
滝壺も見たかったのだけれど、滝壺が見える展望所(観瀑所、だったかな)は有料でした。がめついですね。

華厳の滝といえば自殺の名所です。
かつてここで、とある有名な遺書を残して自殺した学生がいます。詳しくはググってもらえばわかりますが、「萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』」という一節が特に有名な遺書を残した明治期の人です。

その一節を思い出しながら、長い時間僕は壮大な瀑布を眺め続けていました。


それにしても遺書というのは、圧倒的ですよね。こういうことは本当は心に留めておくべきことなのかもしれないけど。
この巖頭之感しかり、「三日とろろ」しかり、「七生報国」しかり、123機墜落事故での遺書しかり…

遺書というものを純粋に文学的に読むというのは、大変に気の引ける行為だ。
しかしこれはどうしても思わずにはいられない。遺書は圧倒的である。
人間の本質が「わけのわからなさ」である以上、人間は時として理屈を超越した何かを抱いてしまうことがあるのだ。

遺書というものの前では、「泣ける」などということはありえない。ありえてはいけない。
「飾りじゃないのよ涙は」じゃないけど、僕は「泣ける」というものを一切認めたくない。
人間が泣くのは、圧倒されるから泣くのだ。わけのわからない感情がおそってくるから泣くのだ。泣こう、と思って泣くのは、それはもはや別物の、偽物の何かです。

遺書というものの前では、そこらへんの名文なんて木っ端みじんに蹴散らされる。
死を以てして書かれた文章というのは、その人間がこの世を去るに際して、自分のありったけのものをぶつけて書かれただけのエネルギーが迸っている。
そしてそれを読む人々は、ただただ圧倒されるだけなのだ。

もちろん、もしその遺書が遺書だとわからずに読んだ場合、全く別の感慨を抱いてしまうのかもしれないけど…。


などということをつらつら考えているうちに土砂降りの雨が降ってきた。
もはや冬です。寒いです。凍え死にます。

という訳で、観光案内所でお勧めされた温泉に行ってきました。
1350円だと聞いていたのに2100円とはこれいかに?   
??

しかし、彼女がほしいなどとは滅多に思わない自分でも、この「観光地の温泉に来た」ときだけはなぜか無性に彼女的存在が恋しくなりますね。なんでかなぁ

肝心の温泉は、それはもう素晴らしい雰囲気ある温泉でした。
露天風呂に入ってる間、雨の冷たいしずくが飛び散ってくるのには辟易したけど…

ちなみにこの温泉があるのは、「風雅(ふうが)」という名前のホテルです。もちろん鶯谷に乱立しているのと同種のそれではなく、いえ、なんでもありませんすみませんすみません

あとは中禅寺湖畔のかっふぇにゐってすうぃーつなるものをまんじゃーもしてきました。
男体山の威容に圧倒されつつ(男体じゃないよ。男体山だよ)飲むかふぇおれは格別でした。
冬はここら辺一体が雪で埋まるということで、その時期に来てみるのも乙かもしれないと思ったり。

そして帰りは宇都宮で餃子食って帰ってきました。
感想は、普通に美味しかったです。というかまずい餃子とかあるのかねぇ。さすがに中国の冷凍餃子は勘弁だが


というわけで、いい日帰り旅行ができました。
「大人はつらいぞ、でもそれだけ楽しいぞ」というまどかママの台詞を思い出しました。まぁ青春18切符をつかうくらいにはまだまだ子供ですけどね。

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