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爆発的奔流

ここでディスプレイに向かってひたすら文章を書くという作業はどういう意味を持っているのだろうか。
ブログは論文ではない。
もし文章に何らかの説得力を持たせようと望むのならば、それなりの方法論が必要だ。
主語述語を明確にし(必ずしも顕在化する必要は無い)、譲歩を上手く用い、抽象論と具体論を使い分ける。
誰にでも明らかであるスタート地点から、論理的に結論を導き出す。
これだけで説得力というのは格段に増す。

ここで大切なのは「語彙力」は必ずしも必要ではないということだ。
得てして語彙力というものは、自分を頭が良い人間だと見せるために用いられる傾向がある。
本当に頭の良い人間が書く文章は、平易な語彙で書かれてあり、誰にでもわかりやすいものだ。
頭が良いふりをしている人間の書く文章は、むやみに難しい語彙が不適切に、みだりに、ぐっちゃぐちゃに使われているものだ。
背伸びした文章は好きではない。
僕は自身が本当に頭の良い人間ではないということは誰より痛感しているが(謙遜の意味合いは全くない、と、こう書いてしまうのも傲慢だが)、そういう文章を見抜くだけの能力はあるつもりだ。

このブログで書かれている文章というのは、そういう説得力を持たせようという努力の為されていないものである。
論理のスタート地点から一般的でないことの方が圧倒的に多かったりするし、具体例を挙げろと言われると言葉に窮するような抽象論ばかりだし、具体的な反例をまるで想定していない生(き)の意見ばかりだったりする。
要するにこれは一介の学生の思考の軌跡にすぎない。

ここで一つ、「考え方」を紹介したい。
何か主張したい意見があるとしよう。
そしたらそれに対して考えられるあらゆる反論を想定する。
そしてその反論を一つ一つ打ち破っていく。
そうすることで、初めの意見があらゆる反論を打ち破るより堅固な意見へと進化したり、その反論を統合した別な意見に転生するかもしれないし、または完全に破綻してしまう。
これを弁証法と呼ぶそうだ。浪人生の頃に教えてもらった思考の方法論である。

最近感じるのはその思考が上辺だけのもの、薄っぺらいものだということだ。
どの当たりが薄っぺらいのか、それを説明するのは難しい。
だが端的に言うことはできる。
「僕が考える全てのことは、全て仮説でしかない」
つまりそれらのことを裏付けるだけの知識が絶対的に足りていないのだ。

例えば「学問を役に立つ・立たないで2分する今の風潮は間違っている」、という意見を提示したとしよう。
それに対して想定される反論の一つはこうだ。
「人間の生活に寄与させる、つまり人間に役立たせるために、学問が発達してきたという側面もある。ゆえに役に立つ学問が優先されるのは当然のことだ」
この反論自体が見当外れなものかもしれないが、それは大目に見て貰いたい。
問題なのはこの反論に対して、「学問とは何か?」という定義を明確にしなければならないということであり、そしてそれをできるだけの学識が、自分に備わっていないということである。

学問とは何であろうか?
ある人にとっては人間に貢献するツールであろうし、ある人にとっては知的好奇心を満たす物であろう。邪魔物の一言で片付ける人も多いだろう。
定義が人によってある程度ぶれることは仕方がないが、学問の歴史の系譜を辿って、より納得のいく定義ができそうなものだ。
しかしその「学問の歴史」などについて、僕は何も知らない。

何かを論じるとき、それに体する知識というのは本来必要不可欠でなければならない。
西洋文学を論じるなら聖書やキリスト教の知識が無いと話にならないし、恋愛を論じるなら性交の経験が無いと話にならないのと同じことである。
だが僕は何も知らない。
長い長い受験生活の中で得た物は、思考するノウハウなのであって、知識の絶対量ではない。

ここまで書いたが、先の「二分法は間違ってる云々」という自分の意見は、ほぼ100パーセント正しいという自信がある。
例えばラテン語学は超一流の学問である。(ただしこれも僕の勝手な推測だ)
しかしラテン語が一体どう人間の生活に直接的に役立つだろうか?
もちろん、ラテン語学を学ぶことでひいては日本語にたいする体系的な観照を身につけることができ云々と意義づけて、「間接的に」役立つと言うことも出来るかもしれない。
しかしこういう学問をそう定義づけてしまうのは、非常に薄っぺらいと感じてしまう。
学問とはそんなに浅いものなのだろうか?
ただそれを証明できるだけの知識は持ち合わせていない。
全てが経験則であり、全てが直感である。


他人に説得力を持たないのは仕方がないとして、自分に説得力を持たないというのは、なんとも歯がゆいことだ。


畢竟、こういった思考のノウハウなどというものは、知識という絶対的で圧倒的な「パワー」の前には消し飛んでいく存在である。
受験勉強にはそれなりの意義があるが、それなりの意義しかない。
僕が大学生活の中でやろうと思ったことは、こうして導かれていった。

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