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このみ

例えば何かしらの創作物に触れたとして、それを批評しようとする場合、自分はその批評に何らかの「論理的」な根拠を持たせようとしていた。

もちろん、意見にはそれなりの論理的説得力が必要であるものだろう。
しかしそこに論理を持たせようとすると必ず(自分の場合は)反例が浮かんできてしまう。

要するに「何らかの論理があるから、それに基づいた批評がある」のではないのだな、と思う。
その論理に対して何らかの反例が生まれる。
ということはすなわち、自分は殆ど「好み」によって作品を評価しているのだ。

それを踏まえた上で、論理的に考えることが重要なのかもしれない。
論理は重要だ。しかし絶対的な正しさではない。

相手に納得させるためにこそ(その必要性が問われる状況は必ずしも多くない)、論理はあるべきなのであって、自分の好みに依っている評価を絶対的に正しいと自分に思いこませるための論理であってはならない。


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好み、といえば、自分では自分自身の好みを正確に把握しているとはとても言い難い。
何らかの基準があるわけではない。目安は一応あるが、かなり不正確だ。


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自分が何かをするたびに批判してくる友達がいる。
多分、彼は僕のことを嫌いだということに自分自身気づいていないのだ。

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論理の出発点は論理では測れない、というか
論理を組み立てる出発点ってのは畢竟幼少時代に形成された親や環境の価値観、境遇…つまり情緒だったり好みだったりするのかなと思いました

好みを説明するのに論理を駆使すると、好みそれ自体から離れていくような気がして。
不特定多数を無意味に説得し、個人的な好みを絶対的なものとして敷衍するためだけに論理を濫用する某掲示板に対する批判、というのですかね。まぁ自戒も含んでます。
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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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