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メトロノーム

私は決して優しい人間ではない(誤解されがちだがこれは謙遜などではなく、単に事実を述べているに過ぎない)。しかし、優しい人間でありたいという気持ちが非常に強いというのもまた事実である。「物腰が穏やか」「親切だ」という意味では、確かに私は「優しげ」である。それが仮に「優しさ」とはその内実を異にするものであれ、一定の価値があるというのは私も同意である。しかしこの「優しげ」と「優しさ」を長い間ずっと取り違えていたために、時折私が決定的な場面で見せる冷酷さを自分自身で説明出来ないという問題があった。そしてこの乖離もまた、私が心と格闘する1つの重要な要因であった。

ありていに言ってしまえば、私の対人的な感性は相当にシビアであるということ、面倒くさがりのためにマメさを欠くということ、繊細さゆえ積極性に欠けるということ。

「好きだから優しくする、嫌いだから優しくしない」というように、限定的・流動的な感性を行動の根拠として「優しくする/しない」を決めるというやり方には、(私の場合)限界があるのではないか。私の感性は限定的で、しかも流動的であるので、それに基づいた行動というのは原理的にどうしても一貫性を欠いてしまう。優しい人間になるためには、優しさの一貫性というものが不可欠であると私は考える。なぜならば、一貫性を欠いた優しさは、概して不気味だからだ。

もちろん、いつか書いたとおり、優しさの対価として見返りを本能レベルで求めるという問題もある。

優しさに一貫性を付与し、かつ見返りを求める気持ちを処理するにはどうすればよいだろう。
感性を変えるべきか?もちろん、否である。感性が変わることは期待できない。
したがって、行動規範となるべき感性を変えられないのなら、いっそ別の行動規範を用意すべきであろう。『ノルウェイの森』の永沢さんは、「紳士であること」を行動規範としていたが、私の場合は何が適しているのだろうか。「どういう振る舞いが『格好いい』か」というのが、今のところ有力である。これがなぜ有力なのか説明するのは難しいがあえて言えば、過去の行動を振り返ってみて、この振る舞いがダメだったと思えるものは総じて客観的に「ダサい」ものであったと言えるからである。人間として、男として。

しかし、そもそも決定的な場面で行動規範が感情に劣後してきた経験が多いわけで、それをどうすべきかという話をしているのに、「じゃあ、行動規範にのっとって行動しましょう」では何の解決策にもなっていない。それに私に欠けているものは無論「かっこよさ」だけではなくて、「マメさ」だったり「安定的な積極性」だったり「デリカシー」だったり「お願いする強さ」だったりするわけだ。
ただそれはそれとして、「感性は優しくなくてよいから、せめて行動は優しくする」という決め事は立てておきたい。面倒くさがってる自分を否定しなくていい、それでも面倒くさがらずに自分から悩みを聞いてあげること。嫌いな人間に対して施す優しさの最低限レベルを上げること。当たり前だが、関係を絶やさずに・かつ展開していくためには、それ相応のリスクを背負わなければならない。

優しくしたいときに優しくするのは誰にだって出来ることで、ポイントは「優しくしたい気持ちが無いときに、どれだけ優しくなれるか?」というところにあり、それは紛れもなく1つの高等技術であり、能力である。

かようにして、あくまで対人関係という枠組みの中で自分を規定して、「課題」にアプローチするというやり方にもやはり限界がある。対人的な魅力だけではなくて、存在的な魅力も獲得していかなければならない。それも、私の変えるべきでない部分を変化させないレベルで。最近私が「この人は存在的に魅力的だ」と思えるのは、「自分の理想にひたむきに向かう姿勢を持った人」「好きなものを誰憚らず好きだと言える人」なので、まずはそういう理想を追求していくことも必要になってくるだろう。その手の能力はむしろ対人というカテゴリーというよりも、これからの将来や自己認識において、という側面が大きい。そんな風になっていければ、果たして私の欠陥だらけの認知機構も変わっていけるだろうか。

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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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