『モアナと伝説の海』②

1回目、2回目と観たときは、それこそ映像と音の迫力に飲まれっぱなしだったけれど、この感覚どこかで味わったことがあるなぁってずっと考えていた。そして今日(3回目)観に行って気付いたけど、これはさながらディズニーランドのアトラクションに乗っているような感じだ。

どうして3回目を観に行ったのか?

初めてこの映画を観たとき、直感的に「これはとんでもなくヤバイ作品だ」と感じたのだが、映像とか音とかそういった「表層」が強すぎて、そっちのほうに感性を全部持って行かれてしまったがゆえに、物語の中に入り込む余裕が無かった。アトラクションとしての要素が強すぎて、いまいちこれはどういう物語なのかが把握出来ず、なんとなく物足りなかった。だから、この作品を繰り返して観ることによって、そういう「表層」に慣れ、したがってこの映画をアトラクションとしてだけではなく、あらためて読み物として楽しめるだろうと考えたのだ。
そしてその試みはある程度成功した。

主題は「本当の自分の確立」。
もしこれをモアナが求めていくだけなら、この映画はただありきたりなテーマについてありきたりな結論を出しただけの、ちょっと映像が綺麗な作品だったな、という印象だけで終わったと思う。この映画のしっかりしているところは、色々なキャラクターが各々「本当の自分」について異なった問題を抱えていて、それを各々の異なった方法で克服していく、あるいは受容していくという点にある。多角的にアプローチしていくことで、ありふれたテーマが素直に心に届いてくる。

モアナは最終的に「本当のわたしは、島も好きだし、海も好きだよ」(だから、海に出っぱなしなわけじゃなくて、ちゃんと島にも帰ってくる→ラストで島に積まれた歴代の石の上に貝殻を乗せるシーンが象徴的)というところに行き着く。タマトアは大嫌いな「本当の自分」をゴージャスさによって徹底的に隠すことによって、新しい自分を発見することが出来た。

しかし、この主題について最も深く葛藤してきたのは、やっぱりマウイなのだと私は思う。神の釣り針で成果をあげることで、人々の称賛を得て、根本的な愛情の渇望を取り繕ってきたマウイにとって、神の釣り針というものは「釣り針がなければマウイじゃなくなる」と言わしめるほど大切なものだった。マウイが思う「本当のマウイ」は、神の釣り針という道具に依拠せざるを得ないほどに脆弱なものなのだ。だからこそ、最後の「釣り針があっても、なくても、俺はマウイだ」というセリフによって、マウイが自分の最も奥底にある問題に打ち勝ったんだなぁというのが観客に分かるようになっている。マウイ、ほんとかっこいい。

そして、だからこそ、テ・フィティに着く前に自信を失っているマウイに対してモアナがかけた、「(あなたを)神々が見つけたのには、理由があるのよ。…でもね、あなたをマウイにしたのは、あなたよ」という言葉は、マウイにとってどれだけ計り知れない価値を持つかが感じられるようになっている。神の釣り針のおかげじゃない、愛情に飢えていたからじゃない、本当のマウイが強くて優しかったから、人々を助けてこられたんだと。
こんなにダイレクトな言葉をかけてあげられるモアナの優しさも素敵だなぁとしみじみ思うし、こんな風に誰かを認めることができるモアナすごいとも思う。こんな風に他人を認めてあげられるというのは、強さ以外の何物でもないから。

そしてそして、このすぐ後にマウイが言った「もし俺が海なら…そうだなぁ、巻き毛の、お姫様じゃない子を探して、同じことをするだろう」という言葉も素晴らしい。このセリフの伏線として、マウイがモアナをお姫様よばわりしてまともに取りあわないくだりがある。マウイがあえてモアナのことを「お姫様じゃない子」と呼ぶことで、マウイもまたモアナを認めたのだ。


この「認め合える関係の強さ」というのが、『モアナと伝説の海』における副題なのではないか、というのが私の意見である。
確かに、映像も音も文句なし、アクション映画としても最高で、おばあちゃんのシーンも感動的だ。ディズニープリンセス像を覆したという点で、ディズニー史において意義のある作品となったかもしれない。しかし『モアナと伝説の海』を白眉たらしめている決定的な要素というのはそこじゃなくて、「モアナとマウイの関係」の中にあるんじゃないかなぁと思う。少なくとも私の中でこの映画が特別になった理由はそこにある。
認め合える相手と協力して、互いの瑕疵を治癒していく姿は、本当に美しくて心打たれる。真の関係性というものはこうであるべきなのだ。たとえ一時的には揺らぐことがあっても。

『アナと雪の女王』にも通じるものがあって、存在の一番根っこにある瑕疵が浄化されるような感じ。
どちらの映画も、心の深海に届いてくる光のようで、私の行き先を照らしてくれるのかもしれない。

『モアナと伝説の海』

『モアナと伝説の海』観た。すごく…すごかった。悲しすぎる出来事があると逆に泣けない、みたいな感じで、ただ「圧倒されたなー」という記憶しか残らなかった。映像の美しさと音楽の高揚感が強すぎて、物語としてどうだったか?とか、何を伝えたかったのか?とかが全然わからなかった。分からなさすぎたので次の日もう一回観に行ったけど、やっぱりよく分からなかった。映画というより、なんかライブを観ているような感じ。『ライオン・キング』に近いものがあるかもしれない。自分の中でこの映画が消化されるまではまだ時間がかかりそうで、そのあとにやっと感情が追いついてくる感じなのだろうなぁ。

玻璃の心

「親友はずっと親友でしょ、ね」
私は肉を焼く手を止めて、突然いつもの思索の穴に放り込まれてしまった。
ええと、ここで思い出すべき言葉は何だったっけ?とにもかくにも、その言葉によって呼び起こされた感情を考えることを留保して、私は肉を焼いて、彼女と会話を続ける必要があった。その為のマントラなんてあったかな。「誰もお前のこと見てないよ」?違う。そうこうしているうちに、心の出力が途端に下がっていく。何でこんなことしてるんだろう?もう会わなくてもいいかもな。そんなことを一瞬でも考えている自分にまたびびる。

現状、異性として好きかどうかという判断はさておき、かつては自明に成立していたこの友情も、今となっては必死こいてギリギリのところでバランスが保たれているような、そんな危ない関係性になってしまったことを、少なくとも私は感じていた。相手はどう感じているかはわからない。抜群の洞察力と掌握力を兼ね備えている彼女のことだから、もしかしたら私の気持ちの変化を(もしくは変化の兆しを)、敏感に感じ取って、先手を打って境界線を巧妙に引いていってるのかもしれない。でもおそらくは、さすがの彼女でも、いわゆる「男女間の友情」を無垢に信じているという可能性の方が高い気がする。わからない。この人のことは、知れば知るほど分からなくなる。

先のフレーズは、しかし全然違う文脈から出てきたものである。「恋人と違って親友はずっと親友でいられるから、私たちの関係はずっと続くよね」という極めてポジティブな意味合いだったことは頭ではわかっている。そのときもわかった。わかったのに、「え、どういう意味だ?」と、心は思ったという事実が、とても大きい。それは君の定義じゃないか。それは君が勝手に引いた境界線じゃないか。

「互いに異性としての魅力は感じないけど、人間としての魅力は感じる」みたいなものが共通理解としてあるから、この男女間の友情は自明に必然に成立する――という考え方は、確かに昔はあった。名実ともに、互いの人生の中でも稀有な友情であることに間違いはない。でもどうやら、その前提となっている考えには実は色んな瑕疵があるんじゃないかということに気付き始めたのは最近のことである。そのとき彼女には彼氏がいて、私には好きな人がいたから、「偶然に」そういう形式を(私は)選ばざるをえなかったのではないだろうか?彼女は喜んでこの形式を選んだのに対して、私は仕方なくこの形式を選んだのではないだろうか?

友情と恋愛感情とを、人は実に見事に、仕分けられるものだよな。私には全然無理だ。友情と恋愛感情はいつだって溶け合っている。親友のことを好きになることだって全然ありえることだ。でもどうやら、世間的にはその考えは少数派みたいだし、彼女にとっては全くそぐわない類の考え方みたいだ。色んなことを同じように感じていたように見えて、実はこんなに互いを勘違いしていたんだなというのは、もはや畏怖の領域である。

私がこのもやもやした気持ちを、もっと確たるものに昇華させないように必死で我慢しているのに、という気持ちはやっぱり無視できない。少しはこの気持ちの存在を認めてあげないといけない。私が今こうして傷ついているのは正しいと、私は認めてあげなくてはいけない。こうして怒っているのは正しいことだと。自然なことだと。

ああ。さっき唱えるべきマントラは、「自分の気持ちも大事にする」なんだ、と思った。
大事にするというのは、決してその気持ちに基づいて行動するということを意味しない。「自分が今こうして感じていることは、普通のことなんだ」って、相手や世間じゃなくて他ならぬ自分が認めてあげること。お前はおかしくないよ。そうしてわだかまりは溶けていく。

焼肉を食べて、映画を見て、家まで送って、いつものように素敵な時間だった。翌日は彼女の誕生日だったので、ちょっとしたプレゼントを渡した。きっとこの関係は、気持ち的にも構造的にも(互いの社会的地位の変化によって、物理的に会える時間が作れなくなるという意味)、思うほど永くは続かないだろうという予感が私にはある。だからこそ、私はどうしても今回の彼女の誕生日を祝いたかった。誕生日は嬉しい日であるべきだけど、その実、寂しい日であることのほうが多い。次に祝えるという保障はどこにもない。誕生日を祝うというのは友達と恋人とではどんな違いを作るべきかとか考えずに、どう思われるかなんてもう知らない、見返りなんかもらえなくてもいい、私は祝いたいから祝うんだという感じだった。
でも案外、世の中の「男女間の友情」なんてものは、こんな風にして成り立っているように見えるんだろうなという感じがする。

素直に自分の気持ちも認めてあげて、誕生日も祝えて、そのときの雰囲気も壊すことがなくて、今回の私はよくやったなと思う。この関係と、この日感じたことを糧にして、私はしっかり大人になっていきたい。

メトロノーム

私は決して優しい人間ではない(誤解されがちだがこれは謙遜などではなく、単に事実を述べているに過ぎない)。しかし、優しい人間でありたいという気持ちが非常に強いというのもまた事実である。「物腰が穏やか」「親切だ」という意味では、確かに私は「優しげ」である。それが仮に「優しさ」とはその内実を異にするものであれ、一定の価値があるというのは私も同意である。しかしこの「優しげ」と「優しさ」を長い間ずっと取り違えていたために、時折私が決定的な場面で見せる冷酷さを自分自身で説明出来ないという問題があった。そしてこの乖離もまた、私が心と格闘する1つの重要な要因であった。

ありていに言ってしまえば、私の対人的な感性は相当にシビアであるということ、面倒くさがりのためにマメさを欠くということ、繊細さゆえ積極性に欠けるということ。

「好きだから優しくする、嫌いだから優しくしない」というように、限定的・流動的な感性を行動の根拠として「優しくする/しない」を決めるというやり方には、(私の場合)限界があるのではないか。私の感性は限定的で、しかも流動的であるので、それに基づいた行動というのは原理的にどうしても一貫性を欠いてしまう。優しい人間になるためには、優しさの一貫性というものが不可欠であると私は考える。なぜならば、一貫性を欠いた優しさは、概して不気味だからだ。

もちろん、いつか書いたとおり、優しさの対価として見返りを本能レベルで求めるという問題もある。

優しさに一貫性を付与し、かつ見返りを求める気持ちを処理するにはどうすればよいだろう。
感性を変えるべきか?もちろん、否である。感性が変わることは期待できない。
したがって、行動規範となるべき感性を変えられないのなら、いっそ別の行動規範を用意すべきであろう。『ノルウェイの森』の永沢さんは、「紳士であること」を行動規範としていたが、私の場合は何が適しているのだろうか。「どういう振る舞いが『格好いい』か」というのが、今のところ有力である。これがなぜ有力なのか説明するのは難しいがあえて言えば、過去の行動を振り返ってみて、この振る舞いがダメだったと思えるものは総じて客観的に「ダサい」ものであったと言えるからである。人間として、男として。

しかし、そもそも決定的な場面で行動規範が感情に劣後してきた経験が多いわけで、それをどうすべきかという話をしているのに、「じゃあ、行動規範にのっとって行動しましょう」では何の解決策にもなっていない。それに私に欠けているものは無論「かっこよさ」だけではなくて、「マメさ」だったり「安定的な積極性」だったり「デリカシー」だったり「お願いする強さ」だったりするわけだ。
ただそれはそれとして、「感性は優しくなくてよいから、せめて行動は優しくする」という決め事は立てておきたい。面倒くさがってる自分を否定しなくていい、それでも面倒くさがらずに自分から悩みを聞いてあげること。嫌いな人間に対して施す優しさの最低限レベルを上げること。当たり前だが、関係を絶やさずに・かつ展開していくためには、それ相応のリスクを背負わなければならない。

優しくしたいときに優しくするのは誰にだって出来ることで、ポイントは「優しくしたい気持ちが無いときに、どれだけ優しくなれるか?」というところにあり、それは紛れもなく1つの高等技術であり、能力である。

かようにして、あくまで対人関係という枠組みの中で自分を規定して、「課題」にアプローチするというやり方にもやはり限界がある。対人的な魅力だけではなくて、存在的な魅力も獲得していかなければならない。それも、私の変えるべきでない部分を変化させないレベルで。最近私が「この人は存在的に魅力的だ」と思えるのは、「自分の理想にひたむきに向かう姿勢を持った人」「好きなものを誰憚らず好きだと言える人」なので、まずはそういう理想を追求していくことも必要になってくるだろう。その手の能力はむしろ対人というカテゴリーというよりも、これからの将来や自己認識において、という側面が大きい。そんな風になっていければ、果たして私の欠陥だらけの認知機構も変わっていけるだろうか。

影にかがよふ

九州北部ではなごり雪が降ったそうである。
私の住む街にも、あられが疎らに降っていた。
これから春になるのだろう。

音階を伴った声や、まだ訪れたことのないふるさとの樹氷を思わせる色、
この街にはないそれらをどんな風に位置づけたところで、また評価しようとしたところで、到底変えられないことがある。
それらのことが、私にとって懐かしい思い出でもあり、私の内部にある様々なものごとを規定しきっている、ということである。
それはまごうかたなき価値のあることであると、今なら強く宣言できる。

時間によって様々なことが濾過されていく中で、それでも今こうして手もとに残ったものが、きらびやかで落ち着いた気持ちになれる思い出ばかりであることに私は驚いた。その時から最近までずっと、これからも君のことを憎んで生きていくのだろうと思っていたから。
空間的・時間的に距離をとってみて初めて、楽しかったという印象だけが残る――そんな関係はそう簡単に作れるものではない。ここに至って初めて、その期間にさざめいた無数の出来事の点綴を、半ば活けづくりみたいにして、その色味だけを残すことに成功したのかもしれない。

私はもう、君と会うことはないだろう。
君にとって私にまつわる思い出なんて決して、そんな色味を帯びてはいないだろうから。
そして、私が犯した罪は決して、時間によってさえ意味を失いはしないから。

心に固く積もっていた深い根雪が、春とともにゆっくり溶け出して、私はその雪解け水の冷たさにおどろいた。

海王星

昨年末に11歳になった犬が、参考書を読んでいる私の足下で丸まって寝ている。
時折不安になってまじまじとお腹のあたりを見つめると、かすかに膨らんだりしぼんだりしているのが認められて、安心して目を文字の上に戻す。犬も夢を見るという話を思い出したが、誰にどこで聞いたかは忘れてしまった。
熱めのコーヒーを飲んで、黙然と文字を読む。外は晴れていて、国道を走る車の数はまばらである。
穏やかで、なにごともないと思う。

午後。祖父母が家を訪れた。
私と祖父はテレビを見ていた。どこか老舗の温泉旅館で、タレントが料理を食べている。
祖母と母は、(私から見て)甥っ子の話をしていた。
「自閉症の傾向があるって診断されて。普段はどうもないんだけれど、カッとなったら顔をひっかくやら物は投げるわで」
それから話題は別の人のことに移った。
「若いのに、ガンだって言われて、それで旅行にも行けなかったって」
祖父がそこで「ガーン」と茶々をいれて、母はそれを軽くたしなめた。
祖父はしゃがれた声で笑った。

帰りの時間になって、祖父母は二人とも急な階段をゆっくり下りていった。
「しんどい」と言って祖母は笑った。
その笑顔をみて私も少し笑った。
私と母は、二人の車が見えなくなるまで見送った。
見送ってから、私と母は特に言葉を交わすこともなく、別々の部屋に戻った。

犬も、祖父母も、母も、私も、今は当たり前に存在している。
そんなことをぼんやり考えているうちに、なんだか私はどこか知らない天体の上を歩いているような感覚になった。

濁り・さざめき

または、そもそも「人間関係なんてものは、どんな形式であれ一時的なものである」と割り切った視点で見てみるのもありかもしれない。
特別な関係に限って壊れてしまう、というのはある種の思い込みである。
特別だろうが一般だろうが、関係というものはしかるべき時期が来たら消えていくものなのである。
その消え方が、フェードアウト的に消えていくか、ある日突然なくなるか、外形だけ残して内面の感情は枯れてしまうような寂しい消え方をしているか、みたいな違いがあるだけだ。
特別な関係も、そんな一般の原理にしたがって同じように消えてしまうってだけの話で、ただその関係が特別であったがゆえに、ときおり引き出しから取り出してとりとめもなくあれこれ考えてしまうだけなのだ。特別であったがゆえに、「壊れた」「壊した」なんて表現を使ってしまいたくなるだけなのだ。

しかし、それを出来るだけ長引かせたい、植物を出来るだけ枯れさせないために絶え間なく水を絶やさないようにして、豊かさを維持し続けたいと願うのは、言うほど徒労でもなく、不当でもないだろう。
不可抗力で簡単に壊れてしまうこともあれば、主として自分のせいで壊してしまうこともあるだろう。
その「自分のせいで」壊れるリスクだけでも減らそうと思うのは、そこまで間違っているとも思えない。

たとえば、「見返り」を求める気持ちとどう戦うかという課題も、その目標を達成する1つのアプローチとなりえよう。
誰かに優しくするということは、その分見返りを求めてしまうものであり、その見返りが不十分だったときに生まれる感情の濁りにどう対応すべきか。
「見返りを求めているわけじゃないけど、自分のはたらきかけが全く無碍にされるのも腹が立つ」
という感覚は、ほとんどの人が持っていると思う。この感覚って、けっこう頻繁に、関係を考え直させるきっかけになっているように思うけれど、これはテクニカルな処理で対応出来るのかな。具体的にどうすべきかは出てこないけど、なんとなく出来そう。

「優しくしたときに、何らかの形で反応を欲する」というのはおそらく本能に近い。
指先に棘がささったときに痛いと感じるのとほとんど同じ原理だと思う。
したがって見返りを求める自分を否定する、という方向性では上手くいかない(反動がくる)。

何かしらの優しさをみせるときに、
「たとえ見返りがなくとも、その行動をするだろうか?」
ということを一瞬立ち止まって考えるのはアリだろう。
また、「特別な関係にある人がそういう優しさを自分にみせてくれたときは、相当の反応を返そう」と決めるのも1つの手だ。
この2つはいずれもテクニカルな処理(つまり、精神論か行動論かで言えばかなり行動論寄りな対応)といえる。

思いやり

『アナと雪の女王』のテーマの1つに、「"an act of true love"とは何か」というものがある。
その『アナ雪』的答えはオラフの台詞でも端的に示されているとおり、
「愛っていうのは、自分より人のことを大切に思うことだよ」
である。

ディズニープリンセスが登場する、『白雪姫』から綿々と続くそれまでのディズニーの王道ともいうべき作品群で繰り返し表現されてきた愛に比べて、『アナ雪』が示した愛はかなり違っている。それまでのものと比べると、より広く、ありふれた愛のかたち。

私は『アナ雪』を観て感動した。そして観かえすたびに感動しなおした。
この自己犠牲的な愛こそが愛なのだと。

しかし、初めて『アナ雪』を観たときと今同じ作品を観るときとで、私の立場では1つ大きく異なるポイントがある。
私は自己犠牲的な愛を施すことが出来ない側の人間である」ということを、今の私は充分に認識している。
そして、初めてこの映画を見た3年ほど前は、私はそれが出来る人間だと無意識に考えていた。

自己犠牲的な愛には、どうして価値があるのか?
私なりの答えとしてそれを体得するためには、「私の愛にはどんな『嘘』があったのか」ということを検討しなくてはならない。
このまま振り返ることなく捨て去りたいと願ってやまない記憶に向き合って、何か核となる「嘘」を抽出せねばならない。

とりあえずの結論としてはこうである。
「私の愛は自己犠牲的に見えるだけで、その実質にはエゴが含まれていた」
「エゴを突きつけるタイプの愛を持ち、それに基づいた言動をとること自体は何ら罪ではない」
「自分の愛にエゴが含まれていることに、自分自身でまったく気付いていなかった」
「自分にはエゴを突きつける愛という『技術』がない」

したがって、
自分独自のエゴを自覚し、分析し、場合によってそれを突きつける技術も勇気もなかったがゆえに、私の言動は「反射的に」自己犠牲っぽく見えるものとなっていたが、それは本質的な「相手を思いやる心」から生まれた言動ではなかった。さらには自分自身で本当に自己犠牲的な愛を達成できていると思い込んでいた。したがって最終的に、互いを必要以上に傷つけ、稀有な関係が破壊されるにいたった。

(そして、当面の仮説は次のとおりである。
「エゴを突きつけるタイプの愛と、自己犠牲的な愛には、つながりがある」
もしその答えが分かったら、その中に自己犠牲的な愛の価値を見定める鍵があるのではないだろうか)

図形にすれば一瞬で解ける数学の問題を、わざわざ数式を駆使して代数的に解こうとしているかのような不毛感がある。多数の健全な人々ならば、それを「経験」というかけがえのない機会を通して体得していくのだろう。
そして私はそれが出来ていない。
こんなに考えているにもかかわらず、全く言動にはうつせていない。

全くの無駄ってわけでもないけど、なんだかそれってあんまり意味がないなと思う。
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みかきもり

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