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『もののけ姫』

大学の講義で扱われて、こんなに面白い映画だったのかと思い、DVDを借りてきた。
『もののけ姫』を観るのは16,7年ぶりである。
こうして成人して改めてみてみると、めちゃくちゃ面白いし、小学生の時分でこれを楽しむのは困難だと思った。
以下は私の感想文。


・シシ神の森で、サンに口移しで肉を与えられたとき、アシタカが涙を流したのは何故?

アシタカはタタラ場を出てからシシ神の森で目が覚めたとき、シシ神に銃創を癒されたことが分かり、ついでにタタリ神の呪いが解けてはいまいかと期待して手のひらを見るが、呪いのアザはくっきり残っていた。
「呪いが我が身を食い尽く」して死ぬのだ、という事実が、変えられぬ運命としてあらためてアシタカに突きつけられる(このときアシタカは珍しく感情を表情に露わにしている)。
サンに肉を与えられたのはその直後のことである。アシタカは「食べる」という、「生きる」ということの代表的な行為と、それを誰か(今回はサン)から口移しという印象的なやり方を通じて補佐してもらい、最も親密な関わり合いを実感する。
「いつか死ぬけど、いまは生きている」ということに対する、全方位へのありがたみのような感情が、アシタカに涙を流させたのだろうと。
自分がいつか死ぬという事実は誰もが理屈で分かっていることだけれど、ほぼ全ての人が実感レベルでは分かっていない。いつか死ぬという事実が実感をもって迫ってくるとき(現代社会でいうならガンの余命宣告とかだろうか)、人は絶望にたたき落とされるだろう。けれど同時に「いまは、生きている」という当たり前すぎる事実もまた、稀有なものとして、かけがえのないものとして、実感される機会もあるのだろう。そしてその生かしてくれている何か全てのものにたいする感謝(のようなもの)に人は涙するのかもしれない。


・ハンセン病の隔離

『もののけ姫』のタタラ場に出てくる包帯だらけの人が、ハンセン病に罹患した者たちであるというのは有名である。ハンセン病といって私が思い浮かべるのは、遠藤周作『わたしが・棄てた・女』や、松本清張『砂の器』である。
「おさ」と呼ばれる人物の台詞、
「生きる事はまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい。どうか愚かなわしに免じて」


・複雑に入り組む利害関係

『もののけ姫』には様々な集団が登場する。エミシ、タタラ場、もののけ(モロ一族、猩々、猪)、サムライ、師匠連などなど。だれがだれの敵/味方なのか、だれがだれと何の為に争っているのかを、とりあえず踏まえておかないとちゃんと楽しむのは難しい。
ジコ坊の台詞「あいつ、どっちの味方なのだ?」がそれをまざまざと象徴している。


※台詞部分はもののけ姫テキスト(http://homepage1.nifty.com/~yu/mononoke/mononoketext.html)より引用。
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アルビレオの観測所

・「浪人生の闇」とかいうツイートのまとめを見ていて、私も3浪しているのであるあるネタが多くて笑っていたんだけど、いま思えば自分が浪人していたころの生活って本当に酷かったなと。2浪目の年に至ってはゲームと2ちゃんねるばかりしていたし(このブログを作ったのも2浪目の年)、受験勉強は誇張ではなく1分たりともしていない。
それで、今の私の大学生活もなかなか廃人のそれで自己嫌悪に陥っていたのだけれど、その頃に比べたらはるかにマシだなと思う。睡眠時間はバラバラだし勉強なんてしてないし金遣いもあらいし就活してないし、でも卒業はなんとか出来そうだしバイトは3年以上続けられているし、何より人間関係がしっかり築けている。なんだかんだでちゃんと色々こなしてるんだ、もっと自分を肯定してあげてもいいかななどと思った。面倒くさがりのくせに、隠れ完璧主義者みたいな面があって我ながら厄介な性格をしている。

・暇だなと思ったとき、卒論すすめなきゃいけないのに怖い話をひたすら読んでしまう。
都市伝説も好きだ。
怖い話に大事なのは、まず「幽霊」という装置を出さないこと、だと思ってる。
最近になってやっと気付いたけど、私は怖い話が好きなのだな。

・さっき目が覚めて、缶コーヒー買おうと思って外に出たらめちゃくちゃ寒かった。3度らしい。
星がとても綺麗でびっくりした。

酔い覚め

・起床して昨日の酔いを引きずっているとき、何か食べたいと思って実際いろいろなものを買ってきて食べるんだけど、そのどれもが美味しくない。けれどミカンだけは別である。重たい頭痛を抱えながら、近所のスーパーに行っていつもは買わない袋詰めのミカンを買ってきて、ひたすらほおばる。そんなとき、ミカンだけはどこか最後の救いのような気がしてくる。なにものも受け付けない身体が、唯一ミカンだけは受容している。

・飲み会の席では理性をとばすような飲み方をしていて、けっこう踏み込んだことだったり思い切ったことだったりをバンバン言ってるんだけど(あまり覚えてない)、「本当に言ってはいけないこと」は言っていないらしい。
理性も記憶も飛んでいるのに、そういうストッパーはちゃんと効いているようである。最終的な判断能力は身体レベルで身についているのだなと感じて嬉しくなる。

『リング』

貞子が出てくるアレである。
ホラーを借りてきて一人で観ようなどと酔狂なことを思い立ち、部屋を真っ暗にしてイヤホンを装着して観た。
怖かった。とても怖かった。昨今の3Dの普及に乗じて、最近では貞子もスクリーンから出てくるようになったみたいだが(『貞子3D』)、怖すぎてとても観られたものではないだろう。

『リング』は15、6年ほど前にも観た(観させられた)記憶がある。
そんなに前の話なので場面じたいの記憶もはなはだ曖昧で、そもそも小学校4年とか3年とかの話なのでストーリーも全然把握出来ていなかったはずだが、それでも「次怖い場面が来たような気がする……うわ…こわ…ああああああ!」みたいなのがいっぱいあった。呪いのビデオの映像のおどろおどろしさは格別だった。単に先の展開が予測できるとかじゃなくて、「覚えている」という感覚だったので、ちゃんとそのとき観た記憶がどこか知らないところに眠っていたのだろう。

それで、いざこうして成人してちゃんと観てみると、突然画面が切り替わって白い血だらけの女の人が出てくるみたいな心臓に悪い怖さだけじゃなく、なんというか、普通の「読み物」(映画だけど)として面白かった。脈絡のない怖さじゃない。

だけど今の若い人たちにとって「VHS」とか「ダビング」とかって通じるんだろうか。『着信アリ』とかもガラケーだし。スマホとかBlu-rayとかに独自のホラー作品があっても良さそう。
あと、冒頭の竹内結子が可愛い。

ふたりきり

私はこの1年を通じて、誰かを(一般の意味でも特殊な意味でも)好きになる際、「一緒にいて楽しめるかどうか」という視点を最も重要視するようになった。今回私が話題にしたいのは、なぜそのような視座を体得するに至ったかという過程、およびその視座が私にどのような観照をもたらしたかということについてである。

私は去年の11月、当時一方的に想いを寄せていた子とデートに出かけた。好きな子とふたりでどこかへ出かけるというのは齢23にして初めての経験だったが、私はそのデートを全く楽しむことが出来なかった。この敗北は様々な問いを惹起させた。なぜ楽しめなかったのか。好きな女の子とデートするというのは、こんなにも楽しくないものなのだろうか。私の人間性に大きく欠けたところがあるから楽しめなかったのではないか。云々。

その疑念に一つの光明がもたらされたのは、今年5月にとある女友達と映画を観に行ったときのことである。恋愛感情の介在しないこのデートは、しかし非常に楽しかった。私にも女性と何かを「ふたりで」楽しめたという経験は、自信というよりもむしろ安心感を与えてくれるものだった。

それから今年の9月・10月、私はとある女性に好意を抱くようになり、その子をご飯や映画に誘ったが、それらのデートもとても楽しかった。もっと声を聞いていたい、もっと一緒に居たい、もっと頻繁に会いたいと思った。
それ自体も大いに価値のある経験だったが、これらの経験が私にとって非常に意義深いと感じられた最大の所以は、それらを通じて過去10年間の私の”恋愛”の欺瞞を説明出来るようになったということ、及び私の恋愛観に180度の転回をもたらしてくれたということの2点に尽きる。

10年間の”恋愛”の欺瞞とは何か。一言でいえば、「ふたりで一緒にいることが前提とされていない」ということである。しからば、ふたりで一緒にいるという前提の欠落した恋愛においては、何が前提とされていたか。表現が難しいが、あえて簡潔に言うなら、「見てること」が前提とされていた。同じ組織の中、つまり教室やバイト先で、見てて楽しい/絡んでいて楽しいことだけが、私にとっての誰かを好きになる基準であった。無論、それ自体は基本的で大事な基準である。問題なのは、それが自分の感情を規定する「全ての」基準となっていた点である。いざ2人きりでそのテリトリーを離れたとき、果たしてふたりは何を為しえるだろうかということに、全く考えが及んでいない。

なぜこれがそもそも問題になるのか、答えは明瞭である。恋人どうしという関係は、ふたりきりだからである。ふたりきりでどうなるかということに何らのビジョンも描かずに、どうして恋人どうしという関係を切り結ぶことが出来るだろうか。私がそういうビジョンを描けなかった要因の一つには、知識不足・経験不足が確かに挙げられるだろう。しかしそれだけではない。私はただ同じテリトリーの中で、一方的に見、一方的に絡むことで満足していたのだ。それ自体が問題なのではなく、その満足を恋愛と取り違えていたことが問題なのである。その満足に甘えていたのだ。相手の為に何が出来るか・それが出来るようになるためにどんな努力をすれば良いのかという観念がまるで剥離している。頑張ることもしないで、ただかりそめの恋愛の上澄みだけを舐めていたのである。そして相手のことを本質的に知る機会も得られず、ただこちら側の勝手な思い込みで行き場のない想いだけがふくれあがるのだ。

恋愛は畢竟、(総体的な営みとしての一面も確かにあるが、原則として)ふたりきりの営みである。ふたりきりでどうしたいのか、どんな感じになるのか、そういった感覚を互いに共有したり、あるいはしっかりと説明したり出来ない段階で抱く恋愛感情は、あくまで「恋愛感情(仮)」なのである。そして「仮」が「正式」なものとなるかどうか判断するためには、「ふたりきり」というビジョンを共有することが必須となる。そのために必要となるのが、同じテリトリーから離れ、2人きりで別の時空間で経験を共有するという営み、すなわちデートなのである。

そういう基本的なことに、私は上記の複数の出来事を通じてようやく思い至ることが出来た。中高時代の片想いを偽物だと断じ切るつもりもないが、私の20代も中盤に差し掛かっている。「仮」で満足している時間はもう残されていないのだ。

次に、先に記した180度の大転回とは何かということを説明したい。
私は「一緒にいる」ことを前提として恋愛を考えることを学んだ。では、一緒にいて何を感じることが出来たら、ふたりの関係に可能性があると言えるのか。人によってその答えはときめきだったり、安心感、信頼感、楽しさだったりするだろう。私の答えは「楽しさ」である(その「楽しさ」はどんなたぐいのものでも構わない)。一緒にいて、兎にも角にも楽しさを感じる・感じさせることが出来れば、9割方目標は達成されたと言ってよい。なぜか。ときめきや安心感といった要素は、こちらの努力ではどうにもできない側面があるが、「楽しさ」だけは努力の余地が大いにあるのだ。それなりの手間と、金と、心構えさえあればどうにかなる唯一にして最重要のポイントである。「楽しさ」さえ自分が感じられ、相手に感じてもらえれば、「ふたりきり」という状況をまた生み出すことが出来うるし、もっと大事なことには、たとえ関係が特殊に発展(つまり恋愛に発展)しなかったとしても、それはそれで充実した関係(つまり友達という関係)に持ち込めるからである。完全勝利とはいかなくとも、一つの勝ちの形ではあるだろう。それに満足できるかどうかはさておき。

つまり大転回というのは端的に言って、私の恋愛に「努力」という概念が持ち込まれたという一点である。それまでの私にとって、恋愛とは何か漠然とした運命的な営為であり、また先天的なものであった。時期が来れば私のような人間にも可愛らしい子が空から降ってくるようにして眼前し、恋人になるという淡い期待を抱いていたし、「リア充」は生まれながらにして「リア充」なのだと思っていた。それが否定され、頑張り次第でどうにかできることを発見できたというところにも、去年・今年の出来事の意義がある。まず誰かをデートに誘えるだけの度胸と実力を身につけ、そしていざデートに漕ぎ着くことができたとき、相手と楽しみ、相手を楽しませることに集中するということ。…断られることで全人格を否定された気持ちになる恐怖をおし殺し、教室やバイト先といった共通の枠組みから連れ出し抜け出すために手練手管を使うこと、自分の容姿を一定のレベルまで引き上げるために似合わぬ服屋や美容院に行く手間と金をかけること、人間性や振る舞いを矯正するために常に自分を省み、他者に相談すること、デートスポットの情報収集・パターン化、いわゆる「恋愛コード」の学習、出会いがありそうな場に出かけること…。
それまでは努力という概念が無く、ただ自分だけが楽しむことしか考えることが出来なかったことを鑑みれば、大きな進歩と言えるだろう。
努力という言葉が不適切だと思われるなら、投資と言い換えてもいい。

また「ふたりで一緒にいて楽しい」という視点の導入は、自分が今すべきことを指し示してくれたのと同時に、好きになるべき相手の理想像も確定させた。楽しむ・楽しませるためには、こちら側の能動的な行動次第でどうにかなる余地があると書いたが、しかしそれには限界があることもまた事実である。相手の容姿、性質、知性、ノリの良し悪し、気の利き具合などなど、種々の要素次第(それらを包括して「相性」と呼ぶのだろう)で楽しさの変動幅は大きく振れる。先述のイベントに加えて、それ以外の「楽しくないふたりきり」もいくつか経験してはじめて、「一緒にいて楽しい」ということが最も大きな比重を占める指標となった(ちなみに「深い話が出来ること」「色気があること」も重視しているが、それらは後からついてくるので序盤は気にしていない)。

以上、いくつかの経験を通じて、「一緒にいて楽しい」という視点の重要性を学び、それを達成するための努力の方向性を知ることができ、自分にとっての理想の恋人候補を確定させることが出来たことを述べてきた。またここでは説明していないが、私はこの視点を対女性だけでなく、全ての人間関係においても最優先するようになった。「一緒にいて楽しい」という視点の導入は、幼い恋愛観に一大転回をもたらしただけでなく、もっと大きな枠組みである人間関係観にも影響を及ぼしている。結局は、最良の恋人を作ろうとすることと、豊饒な人間関係を築くことは、ほとんど同じ営みなのかもしれないとすら思う。

ところで「一緒にいて楽しい」ということは友達にも成り立つことだが、同じ「一緒にいて楽しい」人間が異性の場合、友達止まりなのか恋人に昇華しうるのか、それが別れる要素はどこにあるのかという問題がある。ふたりきりが楽しくても、好きには至らない場合も充分に有り得るからだ。実はこの点について未だ有為な考えは浮かんでいない。楽しさ自体の性質の違いに内包されているのか、楽しさとは別の要素に左右されているのか、単純にタイミングや運の問題であって「楽しさ」さえ感じていれば全ての異性が恋人候補たりうるのか。もし何か考えが纏まったら記事にしてみたい。


以上のことと関連して次に私が記事にしたい話題は、「リア充」という存在の虚実についてである。「リア充」っぽいことをしていて感じる楽しさは、おそらく傍観者側の視点とプレイヤー側の視点とでは全く異なった捉え方をされているように感じる。期待していたような楽しさは無いが、かわりに予想もしてなかった楽しさがあるという言い方もできるかもしれない。「リア充」っぽいことの楽しさの虚実。あるいは、その虚実の区分が出来ていないがために起こりうる、茫漠とした妬みだったり、恋人という存在に求める役割の齟齬だったり。「一緒にいて楽しい」という視座が内在するにいたって、世の中に当たり前のように溢れている恋人たちを見る目も驚くほど変化したが、それはまた次の機会に譲ることとしたい。

書きたいことはたくさんあるんだけど、それを正確に書くことにこだわりすぎているのか、なかなかうまく言い表すことが出来ない。それに、一度に色んなことを書こうとするあまり、文章がやたら長くなりすぎる。もっと短く、簡潔に、的確に「書きたい」と思う。1000~2000字くらいがちょうど良いと個人的には思う。思うんだけど、書けない。これ全部詰め込んだら10000字越えるなぁとか思って、いつも途中で放り出してしまう。それくらいの字数の文章をここにあげるのもそれだけで気が引けるし、文章そのもののクオリティにまず自分自身が満足できるに至るまでのチェックで時間がかかる。そうして途中の記事が今10本くらい溜まっている。スランプなのかな。恋愛系のことばかり考えているから、そういう面も影響しているのかもしれない。日々のことで小ネタでも書ければいいのだけど、読み手の立場にたって考えても明らかに面白くないし、書き手の自分としてもなんかどうでもいいなこれって思ってしまう。色んなことを学んだ、色んな誤解が解けた。それはいいんだけど、まだ文章にするほどには処理しきれていないのだろう。頑張ってみる。

『小野寺の弟・小野寺の姉』

『小野寺の弟・小野寺の姉』という映画が公開されたとのことで、観に行ってきた。
先日記事にもとりあげた、阿部真央の「それぞれ歩き出そう」が主題歌となっているという、ただそれだけの理由で観に行ってきた。

内容には正直いうと全く期待していなかったのだが、これが本当に良い映画でびっくりした。
コミカルな掛け合いと、さりげない優しさがあり、私の大好きな「笑いあり涙あり」をまさに具現化したような作品だった。何度もうるうるしてしまった。
ふたりの姉弟こそが、まさに本物の「関係」だよな、などと思った。
あと向井理のファンになった。

今日まで知らなかったのだけれど、毎月1日は映画が安くで観られるらしい。
景気づけで毎月初日に何か映画を観に行くのを習慣にしようかな。

お知らせ。

ブログを新設しました。

南沙レポジトリ
http://miquerkey.blog.fc2.com/

このブログではもっと「ちゃんとした」文章を記事にしていこうと考えています。
「ちゃんとした」というのはつまり、推敲したり時間をおいたりしているということです。
基本は、むかしこのブログで扱った記事を満足行くように書き直したものを載せていこうかなと考えていますが、オリジナルの文章も記事にするやもしれません。方向性はよくわからないです。更新頻度は一層少ないだろうと思われますが、もしお時間ございましたら時たまふらりと訪れてみてください。
もちろん、こちらのブログの更新も続けますし、文章が重複する可能性もあります。
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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