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茶会

昨日ふと、最寄りの駅近辺にはどれくらい喫茶店があるのだろうと思って検索したら、予想以上にたくさんの喫茶店があることがわかった。普段チェーンの、人がやたら多い喫茶店にばかり行く私にとって、この発見は心を愉快にさせるものであった。この町に住むのも残り半年程度だし、せっかくなので一つ一つ巡ってみようと思い立ち、2軒の喫茶店をはしごしてきた。
1軒目は、驚くほど良い雰囲気の喫茶店だった。内装も、店員も、コーヒーの味も、文句なく良かった。3年以上もこんな穴場を知らずにここで暮らしてきたのがもったいなかったなと感じた。
2軒目は、古いビルのテナントとして入っている喫茶店だった。若干みずぼらしく、店員もそこまで愛想が良いわけではなく、コーヒーも酸味がかっていて悪くはないけど好みの味ではなかった。何よりトイレの鍵がかかりづらく、ハンドペーパーが補充されていなかったのが、なんだか色々なことを象徴しているなと感じた。でも全然嫌いではない。本物の隠れ家みたいになっていて楽しい。もう今では目にすることのない緑色の公衆電話がなぜか店内にあったところに、ちょっとした歴史を感じた。

3年半も住んでいるこの町で、まだ入ったことのなかった喫茶店でコーヒーを飲んだことで、もう見慣れて色あせたはずの景色がなんだか全然違う、まるで見知らぬ町のように感じられたのが、本当に愉快だった。ちょっと探せば穴場が見つかるのは、東京の良いところの一つだよなと思う。そして私らしくもなく、カフェ巡りが趣味みたいになってきてしまった。
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琴瑟

妹と、妹の彼氏が東京に2泊3日で遊びに来た。
兄たる私は2人のせっかくの旅行を邪魔しちゃ悪いなと思い、また例のごとく2人の世界に相伴するのも気まずそうだとも思ったので、どこかでちょっと落ち合ってお茶できればそれでいいやと考えていたのだが、「せっかくだし3人で遊ぼうよ、私たちもう4年近くも付き合ってるし、『2人きり』という状況にはこだわらないよ。3人で遊んだ方が楽しい」とお二方ともが言ってくれたので、2泊3日付きっきりで私も一緒に遊ぶことにした。

妹の彼氏とは既に面識があり、何度か会話を交わしたこともあったが、こうしてまとまった時間ずっと一緒にいるというのは初めてであった。私とは真逆のタイプの人間であり、良い人だとは知っていながら最初はやはり緊張したが、とても面白く、気が利いて、純朴なスポーツマンだった。私とは何一つ競合するところがない。そして私はすぐに彼のことを気に入ったし、彼もすぐに私のことを気に入ってくれたようである。

2泊3日は実に実に充実した日々だった。とても疲れたし、とても笑ったし、とても楽しかった。
2人と別れるのはとても寂しかった。最初の杞憂はどこへやら、である。
羽田空港で飛行機を待っている間、ふたりが「やっぱり、3人で遊べて良かった」と言ってくれたのが、私は本当に嬉しかった。そして、冬に私が帰省したときにまた3人で遊ぶ約束を交わした。

さらりと記したが、「3人で遊んだ方が楽しい」という、妹とその彼氏の台詞は、その関係が本物でなければきっと言えない言葉である。そして私は2泊3日という時間のなかで、1秒たりとも気まずさを感じることはなかった。ふたりの関係は掛け値無しの本物であった。互いが互いを愛し、知悉し、それなりの時間に裏打ちされた信頼を築き上げていた。だからこそ、私はそこに居ないように振る舞うことも、居なければ成立しないように振る舞うことも許されていた。それがどんなにかけがえのないものであるかを、今の私は知っている。

もう一つすごいなと感じたのは、互いが互いのためにSNSを辞めたことである。
facebookで近況を知り合えることで、互いに嫉妬し、喧嘩の火種になったから辞めたのだそうだ。
互いの極めて強い独占欲や嫉妬心のために、今の世代にとって非常に重要なツールをも捨てるというのは、そうそう出来ることではない。

2人の関係に心底惚れ惚れしつつ、しかし、軽い畏怖のようなものを覚えたこともまた事実である。
本物の関係とはここまで見事なものなのかということを目の当たりにして、ちょっと感覚が狂ってしまったような気がする。
きっと、「好きなのかなぁ、どうなのかなぁ」と思ってる時点で、もうそれは違うのだろう。
もっと自分の好みにこだわってみるのもありなのかもしれない。

稀に気まぐれで部屋の片付けなどしているとき、自分が昔かいた絵だったり、字だったり、そういったものが発掘されることがある。
書(描)いた当時は、出来映えにそこまで満足していたわけではなかったはずだけれど、何年か後にこうして見返してみると、案外上手くかけているじゃないか、と感じる。

でも、それはあくまでも「案外」でしかない。
確かに、ぱっと見はそれなりに上手い。でも何かが足りていない。
きっとそれは絵や字に限らず、文章にしてもそうなのだろう。

こういうのを見るにつけて思い出すのは、国語の授業でおなじみの中島敦『山月記』の一節。
虎になってしまった李徴が、昔の友に詩を吟じるシーンである。

――李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁参は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
――中島敦『山月記』
(※袁「参」は正しくはにんべんに参)



これ、高校生の頃からいまいちよく分からなかったのだが、今なら理解出来る。
要は「うまへた」なのだ。

「非常に微妙な点」というのは、向上のために費やした時間の絶対量(ベクトルの大きさ)や正しい手ほどきを受けているか否か(ベクトルの方向)によって表出されるものであろう。微妙だから、それをピンポイントで指摘することは難しいが、しかし明確に真贋を分けるシビアなポイント。ある人はそれを「中身」と呼んだりするのだろう。この領域に至っては、もはや方法論やマニュアルは通用せず、あくまで費やした時間だけがものをいう。
素質や才能というのは所詮ベクトルの伸び率でしかない。

私自身は「うまへた」になれればそれで満足だけど、他人の「本当に上手」と「うまへた」を見分ける眼だけは持っていたいなとは思う。

これは極めて個人的な感覚だが、本当に上手いものには「銀色の芯」のイメージが重なって見える。
何か、そういう、「確乎たるもの」。うまへたは惜しいんだけど、何かがぶれてる、ぶれそうな弱さが透けて見える。

――と、書いてて思ったのだけれど、「うまへた」(技巧は一見優れているが、「微妙な点」が足りず心に響かない)と「へたうま」(技巧は拙いが、心を掴むもの)の違いが、初めは自明だった気がしてたのに今となってはよく分からなくなってきた。

へた→うまへた/へたうま→うま ?
うまへたはうまに成長しえるのかしえないのか?
へたうまはうまに成長しえるのかしえないのか?
そもそも私はうまへたなのかへたうまなのか?へたなのか?(カラオケは多分、へたうまです。笑)

そう考えると、こと李徴の場合においては「非常に微妙な点」が方向性や時間の絶対量によって左右されるというのは、多分違うというか、完全な正解ではない気がしてきた。人間性とか、そういうあいまいなもの?この文脈での「才」とはあくまでも技巧的な意味での「才」だろうか。技に走りすぎて、心を掴む何か(で、それが李徴を虎たらしめた"人間"性)に欠けている…?

恋愛観②:興味のベクトル

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恋愛観①:「10年体制」

便乗して書きます。
最近の関心事が専ら「こんなこと」ばかりなのはなぜかということを、歴史的経緯も交えながら説明したい。

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ねんざ

ひょんなことで捻挫してしまった。痛くて歩けない。
死ぬ思いで病院に行ったら、骨に異常はないから湿布貼っとくとのこと。
今日と明日のバイトも他の人に代わってもらった。
ひま。

甲子園で負けた選手たちの涙を見る度に、
自分はこの涙の意味を一生理解できないんだなと思う。

もっとも涙というのは得てして訳の分からないものだし、訳の分かる涙があるとしたらそれは偽物の涙だろうと思うけれど、それでもある種の羨望とでも呼ぶべきものは拭えず在る。

二人だけの国

ここのところずっと、妙にもやもやしていて、何でなんだろうと考えていたのだけれど、その理由がこの数日間でするすると解けていった。今回はその2つある理由のうちの1つについて書く。

私には日頃良くつるんでくれる友達がいる。一人は男であり、一人は女である。
単純に仲がよく、色々遊びに行くだけではなく、互いに深いレベルでの悩み事の相談もするし、信頼関係も強いと自負している。

二人はかつて、付き合うかどうかという状況にあったのだが、色々あって破談になった。
そのときの二人がそれぞれどんな感情を抱いていたかということを、私は知っている。
女には彼氏ができ、男にもやがて彼女が出来た。
そうして二人は「良い友達」という枠組みの中におさまった。

ずっと「良い友達」だった二人は、しかしいつからか互いに恋愛感情を抱くようになっていた。
私は二人の気持ちを知っているただ一人の人間として、絶対にこの二人を結びつけたいと考え、それぞれに色々なことを言い、そして互いが互いにどう思っているかということも個別に告げた。

二人はそれぞれの恋人と別れ、めでたく付き合うこととなった。

私が何をしても、あるいは何もしなくても、二人は付き合うことになっていただろう。しかし少なからず私の影響で、それぞれの恋人だった人たちは突然に不幸に突き落とされることになったということ。
そして、3人一組で友達として成立していた関係は、そのうちの2人が恋人関係となることによって、否応なしに少なからず変わってしまうだろうということ。
この2つのことはあらかじめ予見していたことだったけれど、私は2人に(一瞬にしても、この先ずっとにしても)幸せになってほしかったし、その爆発的な幸せを作れる立場に他ならぬ自分がいることが嬉しかったので、2人を結びつける方向に動いた。
そしてその選択は間違っていなかったと思う。

今でも3人でよくつるんでいるが、しかし、やはり、この関係性は大きく変わったと言わざるを得ない。
わけあって2人の恋人関係は公にされておらず、この集団の中では私だけが知っている。
だから彼らは同じ組織の中にいるときは、あくまでも友達関係を偽装して接しているが、私と3人で居るときは、その偽装を解除して、恋人として振る舞っている。

そんなとき、私は単純に、途轍もない居心地の悪さを感じてしまうのだ。

2人は私のことを信頼してくれているし、私は恋人関係としての2人を応援している。
私はこの2人だけの世界に(限定的に)相伴することを許されている唯一の存在である。

だがそれでも、単純ないたたまれなさは拭えない。
2人が手を繋いでいたり、肉体関係を匂わせるような冗談を飛ばし合ったりしているのを見ると、目を背けたくなる。
見てはいけないものを見せられているような気分になってくる。何故かは分からない。そこにいるだけで2人の邪魔をしているような気分になるからであろうか。2人の過去のことをそれぞれ知悉しすぎているからであろうか。訳も分からず別れを告げられた人たちのことを思い出すからであろうか。それとも、この2人の"関係"は私にとってはあまりにリアルすぎるからであろうか。
(ことわっておくが、私はこの女の子にたいして恋愛感情を抱いたことはない。)

私が勝手に結びつけようと望んでそうしたのだから、いまさら2人にこんなもやもやを伝えることは出来ない。
だから私が執れる唯一の方策は、2人(1人1人からではなく、2人一組)からゆっくりと距離を取ることだけである。


ともあれ、私がいるときは、せめて友達として振る舞ってほしいな。

夏祭り

野球好きの後輩と、神宮球場に行ってきた。

IMG_3431.jpg
この写真は試合開始直前のものである。まだ空が明るい。
空をぼーっと眺めていると、なんだかもう秋みたいだなと思う。
連日の猛暑で、神宮も暑くなるかなと思ったら、心地よい風もあって涼しかった。
名物のウィンナーを頬張りながら試合開始を待つ。

それで試合の方はというと、ヤクルトが一挙7点を獲得するなど一方的な展開になってしまった。
試合そのものはとくに緊張感もなく、眠気をこらえるのに必死だった。

IMG_3436.jpg
途中、太鼓の達人などでお馴染みの名曲「夏祭り」が、元Whiteberryのボーカル本人様によって披露され、そのあとで花火があがった。
ビールを飲みながら漫然とこういう光景を眺めていられるのってなんて幸せなんだろうと思った。

とりあえず、ホームランよりも、こっちに飛んでくるファールボールのほうが興奮できるということも知った。

たとえば、二人で何かの話をしていたとして、私がちょっと中座したとする。
私が戻ってきたときに先方が話の続きを促してこなかったら、私は先方から「わりとどうでもいい存在」であると思われていると判断する。

たとえば、私が相手に何かをオススメしたとする。
後日会ったときに、相手がそのオススメしたものについて自分から言及してきたときは、私は相手から相当の好感を抱かれていると判断できる。

こういった細かい行動様式のようなものの集積で、自分が現時点で先方にとってどの程度の地位にあるのかということが推量される。

難しいのは、先方の言葉の字面は、その推量にほとんど役立たないということ。
どんなに好意的なメッセージでも、それは本当に好意から発されたのか、それともその場面にたまたま適合するようなメッセージだから発されたのかということは、こちらからでは判断不能である。
字面を偽装してくる人はいても(というより、ほとんどの人はそうしているだろう。円滑に生きるためには必須の技能だからである)、行動様式まで偽装する人はなかなかいない。

問題なのはその発言や行動が「どのように為されたか/為されなかったか」である。発言や行動の中身じたいはどうだっていいことが多い。

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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