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走れ!

大学1年生のころ、『あの花』の特典ポスターがTSUTAYAで手に入るとの噂を聞いて、まだよく知らなかった(そして、今もよく知らない)東京の街をひたすらチャリで巡りながら近隣のTSUTAYAに手当たり次第入っていってポスターを探したという経験があるのだが、そのとき汗だくになりながら上高井戸陸橋のローソンで買って食べたパンケーキは、口に入れた瞬間から、朝から何も飲まず食わずで運動し続けて疲弊していた身体に沁みていき、本当に、心の底から、この世にはこんなにおいしい食べ物があるんだなと思った。
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いやみ

どんなところにも、無意識・無自覚に悪意なく嫌味を言ってしまう人はいる。
自分の発言が嫌味にとられるなんてことを夢にも思ってないから、フォローもない。
それは自分の発した言葉が相手にどう受け止められるか考える習慣がないのか、考えられる頭脳がないのか、それはこちらからは判断できないけれど、ともかく悪意が相手にないのなら、怒ったり指摘したりするのも無駄というものである。それに私自身が「面倒臭い人間」であり、したがって相手の特定の発言を嫌味に捉える私に非がある可能性も大いにあるのだ。

ただし、いずれにしても、その相手とは距離を取っておくに越したことはない。
そして、私自身がそういう発言を他者にしていないという保証がどこにもないのは、とても恐ろしいことである。

寸鉄

注意する<叱る<怒る(≒キレる)
右にいくほど、必要となるエネルギーが大きくなる。
注意の仕方や叱り方が上手い人は人望を集めるのも上手だと感じたので、ここでは私が彼らから学んだポイントを簡潔に記す。

・注意する
「ハンカチ落としましたよ」くらいの気軽さで、指摘する。
(参照:https://twitter.com/shiwazanin/status/485314502024384514

・叱る
「短く、簡潔に」が鉄則。長いと要点がぼやけ、相手にも面倒くさがられる。
真顔で、低い声で。
言葉で相手のホッペを軽く叩くような感じで。
声は荒げない。萎縮させることではなく、集中させることが主たる目的なので。

・怒る(≒キレる)
相手がドン引きするくらい、徹底的に怒る。
「叱る」と違って、「怒る」は完全に利己的な行為であり、ただの八つ当たりである。自分のストレスを発散する最終手段といっても良い。
「どうせキレるときは徹底してキレてやろう」とあらかじめ決めておくことで、逆によっっっぽどのことが無い限りは理性を失った怒り方をしなくなるのでオススメである。
「怒る・キレる」は周りの人間の信頼を大きく減らす要因になるので、極力回避する。

2014年名古屋場所

白鵬が30回目の優勝。ついに大鵬の32回が完全に射程に入った。
前と比べて身体がちょっと萎んでる気がしたのだが、そんなことはなかったようだ。
個人的には、琴奨菊が3敗になってから、10年以上相撲を見続けてまだ観たことのないイベントの1つである巴戦、そして日本人力士の優勝を淡く期待したのだが、結びで白鵬がキレッキレの上手出し投げで日馬富士に勝利。いざというときのこの切れまくりの投げは、いつみても興奮する。

逸ノ城、照ノ富士も勝ち越し。この2人の少なくともどちらかは横綱になると思う。
それくらい見ててわくわくする。モンゴルの時代はまだまだ終わりそうもない。

『マレフィセント』

『マレフィセント』観てきた。
この作品に興味があったというよりは、映画館のキャラメルポップコーンが食べたかったというのが大きく、あらすじや結末も全部後輩から聞いて知っていた上に、前提となる『眠れる森の美女』も観たことない(あったとしても忘れてる)のだが、それでも楽しかった。マレフィセント格好いい。杖欲しい。
核心のシーンはどことなく『アナと雪の女王』に似てた。最近はこういう方向性の主張が多いのかなと感じた。

為コミ①~方法論編

作為的にコミュニケーションをとることが、深くつながるための最もオーソドックスな方法である。
※あくまでも私個人の考えです。

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よるほ

昔は、夜通し起きているのが途轍もなく特別なことだった。
(年齢的な意味で)子供だったから、たとえばW杯日本代表の試合だとか、夏休みの宿題が終わってない時だとか、そういう状況でしか夜更けまで起きているなんてことは許されなかった。
だからこそ、そういうときに見ていた「映像散歩」とか、深夜の国道を走る車のエンジン音とかは、なんだか特殊な魅力に溢れていた。

それから幾年も過ぎて、なんの理由もないのに徹夜することがとても多くなった。
徹夜することは今でも好きだ。照明を落とした暗い部屋の中で、twitterやtumblrに断片的に流れているテキストを目で追ってみたり、いつの間にか聴かなくなってiPhoneに眠っている曲を漁って久しぶりに聴き浸ってみたり、テレビのフィラー映像を漫然と眺めてみたり。

でも、色々な意味で、特別なことではなくなった。
日が昇るまで起きていることは珍しいことではなくなったという意味でも、そこに非日常感が喪われたという意味でも。

そして、陽が律儀に昇ってくるたび、「私にとって夜というものは昔は永遠のものに思えたのに、こんなにも早く終わってしまうんだな」というごくごく当たり前の事実を再確認させられる。
夜通し起き続けていることが、「ずっと」という幻想に浸って安心していられる数少ない機会の1つだったというのに。

短く、簡潔に

どんなにジリ貧の状況であっても、絶対に一発逆転の手を選ばないこと。
一発逆転の手はほとんどが負け確定の手になる。
ジリ貧だと感じたら、負けるタイミングを遅らせる手を打って凌ぐことで、なんとか状況が変わるのを待つ。

媒体

ただ好きな音楽を聴いているだけで、その音楽に「思い出が記録」されていくということ、これは音楽の持つすばらしい特性だと思う。
――Zopeジャンキー日記 - 人生のサウンドトラック



私は浜田省吾という歌手が好きである。
正確には父親が大ファンで、したがって私にとっては生まれたときから当たり前のように聴いているので、好き嫌いの天秤にはかからない、どちらかというと空気のような存在なのだが、折に触れて色んな歌を聴きたくなることがある。熱心に貪るように聴きふけるということもないけれど、ふっつり聴かなくなるということもない。

私にとって浜省の楽曲は、生まれながらに当たり前のように流れていた(浜省の曲を熱唱している4歳の私を撮ったビデオが遺っているくらいである)が、父にとってはそうではない。父は人生のある特定のポイントで浜省に自ら「出会い」、主体的に好きになった。父は浜省のライブに恋人を誘っていき、やがて結婚することとなる(つまりこの恋人が私の母である)。父にとって浜省は一生、彼の青春そのものを代弁するほどの存在であるはずだ。父の青春には常に浜省が流れていたに違いない。
父の「好き」と、息子たる私の「好き」は、内容的には全然異なっているけれど、どちらも最高レベルの「好き」であることは言うまでもない。

私は阿部真央という歌手も好きである。
ちゃんとファンになってからまだ半年というレベルだが、多分、おそらく、この歌手は私の大学生活の思い出を「記録」する一生ものの存在になると思う。父が浜省を好きであるのと同じ意味で、私もあべまが好きである。

こうしてあべまを聴き始めて、ふと思った。
自分の青春を彩った歌手の唄を、その青春を共有した恋人との間に生まれた子供もまた聴いて、しかもその良さを理解されるというのは、どれだけ素晴らしく、感慨深いものなのだろう、と。

台風

台風8号がヤバイらしいとのことで。

こうして夜通しNHKで台風関連のニュースをやっているのを、ぼーっとしながら延々眺めているのは結構落ち着く。
なんとなく、夏が来るんだなぁという感じがするのも良いし、昔は鹿児島に住んでいて台風関連の情報はそのまま学校の休みに直結するという、そういうワクワク感も懐かしみとともに思い出される気がするのも良い。
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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