「若者のすべて」

終わる気がしない。
どうせまたボロボロに扱き下ろされるのだろう。私はそれを極端に恐れている。
そして今まで頑張ってこられなかった自分を責める気持ち。時間はたくさんあったのに。一週間前もこんなことを考えていた。今思えば一週間とは充分な時間である。…もとい、そっちが誤謬なのかもしれない。一週間という時間では所詮何も出来なかったのかもしれない。でも、という思いも拭えない。
終わらないのも怖いけれど、出来の悪いものを作ってしまうのも、死ぬほど嫌だ。
悪しき完璧主義は、例に漏れず私の中にもはびこっているけれど、それにしたって私はものぐさで、対策をしなさすぎる。

頑張りはじめるのはいつも少しだけ遅い。
諦めるのはいつも少しだけ早い。
あのとき、「出来ないかも」という恐怖に正面から向き合ってさえいれば、と思う。
出来ない気がするのは誰だって同じはずなのに、そこからふいと逃げてしまう、一瞬の愉楽に立てこもってしまう、そのささやかな現実逃避の積み重ねが今の自分のすべてのような気がして、首の後ろが寒くなる。

そこで私はいつも、自分自身を組み立てなおす方法を模索する。
過ぎ去った時間は戻らないのだから、今できることをやろう、そんな使い古された概念で、自分自身を奮い立たせようとする。しかしこれは私には合わない手法である。やろうと思った瞬間に、やりたくなくなる。

何度も何度も何度も何度も、こんな嫌な気持ちを繰り返し味わう。
死ぬまでずっとこうなのだろう。治りなどしないのだろう。

みじめだ。誰かを愛する資格など私にあるのだろうか。
こんな私が誰か(誰かという名の、特定の人物)を背負っていけるのか。
本当にみじめだ。どこにも帰れないのに、もといた場所に帰りたくなる。懐かしい寂しさが甦ってくる。温かいぬるま湯の中に、一生閉じこもっていたい。そこに比べればここは、なんて寒くて、冷たさを孕んだ空間なのだろうと、逆に感服する。いつもは気付かないのに。いつもは恵みを与えてくれる平穏な海が、時に津波になって全てを破壊しつくすように、私にとっていつも日常は、楽しい時間でありながら、本当は真っ向から戦うべき相手でもある。

今の日常は好きだけど、ここ数年はどうも、真綿で首をゆっくりと絞められているような感覚を拭えない。
この楽しさを、砂嵐のような現実を生きぬく糧としなければならないはずなのに、私はこの楽しさに依存しきってしまっている。そうしてどんどん、どんどん、私ひとりではどうにも出来ないような「本物の」現実が、私を縛り付けてしまうのではないのか。

そんなことはない。前からずっとそんな恐怖はあったではないか。
それでも今、私は私自身の幸せを見出すだけの最低限の強さを手にしているではないか。
どんな状況であっても笑いを生めるだけの力を、20年強の人生の中で得てきたではないか。

そうして私は、自分自身が思う恵まれているところを、指折り数えはじめる。
私はどちらかというと幸せ者である、という事実を再び心の中心に据える。
私の人生に奈落などありえないことを、再確認しようとする。睡眠不足の、ぼんやりとした頭で。

わからなくても考え続けることが、そして問い続けることが、怖さに克つただ一つの道であり、
全ての面倒を背負いこむことが、もっとも面倒を避け得るただ一つの道なのだと。
そう言い聞かせる。

あるいは、とも思う。いっそ辞めてしまえばよいのでは?
でもやっぱり、どう考えたって、辞めちゃう方が面倒だ。圧倒的に。
そうして、そんなに今の課題は厳しいことかと自答する。
今の自分をとりまくものより、はるかに厳しい現実に、健気に立ち向かっている人のことを考えれば、自分は圧倒的に緩い環境にいるではないかと再確認する。そうでなければならない。そうでなければ死んでしまう。余命宣告を受けているわけでもない、病気であるわけでもない、介護疲れをおこしているわけでもない、毎日満員電車に乗るわけでもない、理系学生の鬼のようなレポートを抱えているわけでもない、バイトでパワハラを受けているわけでもない、…そう考える。そう考えて、今の現実を見る。そんなにこれは難しいことかと。難しい、でも、今挙げたことに比べれば、なんということはない。

これが終わったら、どこか遠くの温泉地にでも旅をすればよい。
それに、待ち遠しいイベントだってたくさんあるのだ。
今の私の前に立ちはだかっている、他人からすればそれほど高くはないはずのハードルを越えようとすることが、私の愛して已まない非日常を楽しむためのスパイスなのだと思えばよい。楽しもう。『ARIA』のアリシアさんのように楽しめばよいではないか。必死になりさえすれば、本気になりさえすれば、今回だけは切り抜けられるだろう。問題はその後だ。忘れてはならない。

どうしてこんなに私は弱いのだろう。
精神が脆いのか。頭が悪いのか。時間が無い。時間がほしい。
頑張るしかない。達成感はいらない。達成感が一番いらない。私は本当に達成感を感じやすい。だから頑張れない。ずっとずっとそうだ。死ぬまでそうだ。見通しもいらない。見通しがたった瞬間に私は頑張れなくなる。見通しに逃げ込んでしまうのだ。本当はそのあとが大事なのに。馬力さえだせばいいと思っていやがる。実際にやってみてから、色々なリスクが見えてくるのに。楽観視もいらない。無心でいたい。まるでそれらは麻薬のように、圧倒的な解放感を連れてくる。そうして日常にかまけて、何も為し得ずに終わってしまうのだろうか。ずるずると下りのエスカレーターを全力で駆け上がり続けるような日常を送らなければならないのだろうか。それでも私は解放感にいつまでも浸っていたい。親離れできない子供のように。日常と非日常を長いスパンで調和させる試みは、いつもいつも、失敗に終わる。いつも。

***

フジファブリックというバンドの、「若者のすべて」という曲を繰り返し聴いている。
おすすめされたのはだいぶ前だったと記憶しているが、いまさらはまってしまった。

「夕方5時のチャイムが今日はなんだか胸に響いて」という歌詞が本当に好き。
タイトルも不思議だけど、歌詞で描かれていること=若者のすべて、ってことなのかなぁ。
こういう経験なんて無いのに、とても懐かしくなる。

かつて

数年前に旅をしたときの写真を見返すにつけ、どこかの和的に洒落た風景の写真を見るにつけ、またふらりとどこかへ出かけたくなる。
住んでみたいとも思うけど、その土地が魅力的に思えるのは、結局今の自分(の生活)がその土地とは利害を共有しておらず、したがってその土地が非日常性を帯びているという面も大きいのだろう。

梅雨が明ければまたどこかに行きたいけれど、果たしてそれを可能に出来るように自分の「生活を整える」(すなわち、就活とか卒論とか、お金とかの問題に対してある程度の見通しを立てる)だけのバイタリティを培えるだろうか。

また高山市にいって、自分らしくもないカフェ巡りでもしてみたいけれど、今年は長瀞に行ってみるのも悪くはないだろうなぁ。
頑張ろう。

行灯

夏至が近いということで夜明けが早い。
雨の日の合間を縫うようにして夜を走っていても、3時45分頃にもなればうっすらと東の空が仄白くなってくる。

この時間帯は時折、老人が「散歩」していることがある。
果たしてそれは早起き故の散歩なのか、はたまた認知症故の深夜徘徊なのか、ちょっと見当が付かない。
微かなやるせなさを感じつつ、私は走り去る。

やるせなさと言えば、深夜のタクシーを見るにつけてもそれを感じる。
この夜更けに走っている車はそのほとんどがタクシーである。そして、路肩にタクシーを止めて仮眠をとっている運転手の姿も頻繁に見かける。
こんな時間に客など見つかろうはずもなく、あてもなく行き場もなく夜を彷徨っているタクシーを見るのもやるせない。

***

家に帰り着いたらちょうどワールドカップの初戦がキックオフ。
ポップコーンを頬張りながら見ていました。

凍らない

「三ツ矢フリージングサイダー」なる飲み物が販売されているらしい。
首都圏では100店舗のセブンイレブンで売られているとのことで、私も一度飲んでみたいと思い各所を探し回ってみたが、30件程度まわったところで未だにフリージングサイダーが置かれている店舗を見つけられていない。少なくとも私の生活圏のセブンイレブンには無いようだ。
そもそも、「首都圏」のセブンイレブン100店舗とは、全体の何%なのだろうか。そう考えたら気が遠くなってくる。
電氣ブランよろしく、フリージングサイダーが半ば都市伝説のように思えてきた。

巷では「凍らない、フリージングしない」などと言われていたりもするようだが、0度を下回る温度にまで冷やされたちょっと濃いめの三ツ矢サイダーというものは、もう想像しただけでも蠱惑的である。うまそうだなあ。
実際に見つけて飲んでみたら、多分この幻想も泡沫と化してしまうのだろうけれど。


#追記
首都圏発売は6月下旬からでした…。

最近は、追い求めた理想や、達成しようと努めた目標というものは、必ず「形を変えて」叶うのだなと実感させられる機会が多くなった。
思い描いていた通りに叶うということはまず(私にとっては)あり得ない。
でも全く遠い結果が出るということもまず(私にとっては)あり得ない。

それを受け入れるかどうかは人それぞれで。
ちなみに私は受け入れる方である。
その内容がどうであれ、自分で頑張って手に入れたものにはそれだけで価値がある。
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みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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