あきまして

最近またDVDを借りてきて、『氷菓』を観ている。
4年ほど色々なアニメを観てきたけれど、結局一番心に残ったのはこれなのかなと思う。
既に地上波で全話観ているので、律儀に通して観る必要はない。気が向いたときに、観たい回を観ている。

『氷菓』は飛騨高山が舞台ということで、昨夏青春18きっぷを使って高山市まで旅行にいった思い出を懐かしく振り返ることが出来る……と思っていたが、なにぶんこの物語は屋内で(特に校舎内で)展開されることが多いので、思いの外に自身の紀行の記憶とこのアニメは結びつかない。
だが雰囲気が良いのは変わりなく、落ち着きと楽しみとが上手い具合に混ざり合ってて素敵である。

『ふたりの距離の概算』も、いつかアニメ化されることを気長に待っている。
内面夜叉の千反田さんが見たい。
ああ、概算が読みたくなってきた。

ずんだもち

ずんだもちとおはぎがセットになって売られていた。
私はおはぎに興味があったのであって、ずんだもちに興味があったわけではない。
しかし単品のおはぎは売り切れており、私はおはぎをどうしても食べたかったので、そのセットを購入した。
230円。

その毒々しい緑色の正体をまるで考えもせず、私は生涯で初めてずんだもちを頬張った。
瞬間、懐かしい不快感が甦ってきた。
そのあんこの正体は枝豆だった。

枝豆は未だに食えない。

ジョギングつれづれ日記

ジョギングしながら自分は一体何を考えているのだろう、ということで、まとまりきらないなりにその考え事を文章にしてみた。一つ一つを別個の記事にして、小出しにしてもよかったけど。長文で、いささか抽象的になってしまった。


***


・自分の過去の、どの時期に何があったか調べたいとき、当時の記録を参照することがあるけれど、大学ノートにつけた日記にしても、この電子媒体のブログにしても、前者は焼けたり紛失したりすれば全て失われてしまうし、後者はたとえばfc2がサービスを辞めてしまったら全て失われてしまう。
結局私の記録というものは、そして大袈裟に言えば私の過去というものは、実に頼りないデバイスでかろうじて繋ぎ止められているのだよなぁと、そう思わずにはいられない。


・本命に蹴落とされるよりも、妥当な目標に届かないことのほうが何倍もショックなのだと実感する。
本命の目標というものは、往々にしてそれが「叶わない」可能性を内包?含意?している。
妥当な目標が叶わなかったときに、自分は何に傷ついているのだろうか。
対象そのものへの執着が満たされなかったことにではなく、「妥当」だと思っていた選択肢に断られるという、その現実と自分が思い描いていた理想との乖離に傷つくのだろう。…理想とは違うか。最低限保証されているであろうと考えていた、理想には及ばない「想定」?とでも呼ぶべきものにすら届いていない自分の現実の惨めさに傷つくのだろう、と言い換えた方が良いかもしれない。
(蛇足だが、最低限の想定にすら達しない現実の惨めさに傷ついているだけなのに、それを対象そのものへの執着と取り違えることも、結構良くあることなのではないだろうか。)

この事実はいろいろなことを教えてくれる。
○妥当な選択肢だと内心思っていても、それを達成するためには全力を尽くさなければならない。周到に準備しなければならない。
○妥当な目標をさえ達成できないのが怖いから、あえて人は自身の能力からはまるで考えられないほど高い目標を掲げることがある。(西尾維新『恋物語』)
○でもそんな逃げの発想からうまれた、あまりに突飛な目標を達成する人がいることもまた事実である(本当に少ないけど、0ではない)。私も何度か見てきた。ただし私自身がそういう動機での目標を達成できたことはない。


・誰かに何かを買わせようとする場合、まずその買わせようとしているものを自分自身が好きである必要があるだろうと思う。
つまり自分を誰かに「買って」もらいたいと思うのなら、自分が自分を好きでなくてはならない、少なくともそう思い込む努力をしなければならない。…難しい。


・恋人について。
恋人を純粋に(「純粋に」ってなんだろう?)欲しいわけでもなく、かといってステータスとして欲しいわけでもない。
「今」ほしいとも、強くは思わない。
ただし「今」欲しがらなければ、きっとこの先その存在を手にする機会や、方法論を学ぶ機会は永久に失われてしまうだろうという恐怖はある。
それと、そういう存在を手に入れようと頑張ってみること、手練手管を駆使してみること自体は、とてもやり甲斐が感じられるし、おもしろい。
もしそれで恋人が出来たとして、手に入れる過程が無くなったために、恋人に興味を失うということがあるだろうか。わからない。だけど頑張って手に入れた何かというのは、えてして愛着がわくものだと思う。

○「純粋に」欲しいの定義。一緒に居たい対象として欲しいとか、性の興味の対象として欲しいとか、そういう何というか「直接的に」相手を求めている場合は「純粋に」欲していると定義したい。たとえばステータスとして欲しい、というのは「直接的に」とは言えないだろう。


・頭が悪いとは何だろうか。
私の定義で「頭が悪い」人というのは、「そんな少ない元手で、そんな極端な結論だしちゃうの?」といいたくなるような人のことである。
「そんな沢山の元手があるのに、結論が出せない」よりも圧倒的に悪質な頭の悪さだと思う。
一概に言えないような物事ばかりの環境の中で、自分なりに咀嚼した意見を持つことも大変だけど。

○少なくとも偏差値では人の頭の良し悪しは決まらない、というよりも、頭の良し悪しのごくごく限定された一部の側面しか計れないとは思う。
○「そんな少ない元手で、そんな極端な結論だしちゃうの?」といいたくなる人の中にも、その結論が誰よりも正確な人がいるわけで。稀有な才能だと思う。



・正解の選択肢について。
100人いれば90人が、「それ正解!」という選択肢があった。そして特定の人にそれをして、失敗したことがある。
数ある明確な敗着のうちの1つだったと思う。
どんなにそれが正解のように見えても、それはあくまで多数の人が正解だと「いう」だけであって、それ以上でも以下でもないのだ。「その人」にとって正解かどうかということとは、全く、全然、次元の違う話である。反省反省。たとえ反省したとしても、同じ状況で違う選択肢を選べるかはわからないし、そもそも反省の成果を活かす機会はもう永久に訪れないわけだが…。

○だから臨機応変に対応することが求められるのだよなぁ。それが難しい。
○明らかに「不正解」に見える人間がいたとしても、必ずその人を好む人が少数ながら存在するのも、同じ原理であろう。100人中90人が「不正解」だといっても、10人は「正解」だと判断するからだ。





『ちはやふる』24巻

ひとしきりQMAの全国大会で遊んだ後、新宿のアニメイトで『ちはやふる』の24巻を買ってきた。
個人的にはクイーンにとても心惹かれるので(不思議なところとか、ツンデレなところとか)、クイーンに感情移入しながら一気に読んだ。
結末はどうなることやら。

それと、クイーンの横顔は本当に美しく描かれているなぁと思う。


本筋と関係のないところでは、作中に「ニコニコ生放送」が登場していた。
たしかにここ数年は、「ニコ生」でかるた名人戦・クイーン戦の生中継もやっている。
本作『ちはやふる』に限らず、「2ちゃんねる」とか「ニコニコ生放送」とか、そういったネット文化とでも言うべきものを理解していることが、それが前提というのは言い過ぎにしても、物語を構成する1つの要素になっている作品はいっぱいあるのだなと改めて思わされた。マンガに限らず、小説だったり映画だったりにしてもそう。

後世の人にはこの作品がどう映るだろうか。800年も前の文化と、現代の最先端の文化の混淆が垣間見えて、おもしろい。

花筏

最近は雨の日が多い。
大学初日が雨とはついてないと思いながら大学に行ったら、まだ春休みだった。
交通費は無駄になるし、靴下はびしょびしょだし、眠いし…。

途中ふらりと歌舞伎町のアドアーズ、そして東口のTSに行ってQMAをやったけど、増税の影響で200円3クレだったアドアーズも100円1クレという設定になっていた。これならわざわざ歌舞伎町に行かず、東口から最も近いTSでプレーすることになるかと思う。

結果はフェニ杯で優勝→優勝、でドラゴン組に復帰。ドラ杯で準決落ち。


最近また東方(もっぱら永夜抄)をやっている。
Extraでフルスペカ出来たらいいなぁと思っているけど、まー無理。
あとはプラクティスで6面Bやったり、スペプラでインペリやったり。

なまりなつかし

私は飲食店でバイトをしており、普段はキッチンを担当しているが、たまにホールを手伝うこともある。

先日、1時間だけホールを担当させてもらった。
その日はなかなか混んで、てんやわんやな状態だった。料理提供→お会計→ご案内→オーダー→最終下げ(バッシング)、といったサイクルをバタバタしながらこなしていた。

そんな中で、とある卓のボタンが押された。
「おうかがいいたします」と言ってその卓に行くと、2人の若い女性が座っていた。
2人の関係性はよくわからない。友達かもしれないし、姉妹かもしれなかった。
2人のうち、年長であろう方の1人が注文の料理名を言った。

…あきらかな鹿児島弁である。

この独特なイントネーションは間違いない。
23区の外れに位置するこの飲食店に、同郷の女性が来店しているという事実。
そしてこの故郷の訛りを耳にした瞬間に、えもいわれぬ程の懐かしさが沁みてきて、たまらない気持ちになった。
余談だが、帰省したとき先ず何をもって「帰ってきた感」を覚えるかといえば、私にとってのそれは周囲の人間の訛りである。
諸々の感情がわき起こって、もはやオーダーを取るどころではなかった。

その卓に料理を持っていくときに、思わず「大変失礼なのですが、鹿児島県出身の方ですか?」と尋ねてみた。
彼女はやや恥ずかしそうに、「いえ、宮崎出身です」と答えてくれた。
「ああ!なるほど…私は鹿児島出身なので、その言葉遣いを聞いて思わず懐かしくなってしまって…申し訳ございません」と言うと、「イントネーションが残っちゃってたんですかね」と笑っていた。

彼女たちは旅行で来たのだろうか。
それとも新年度、こちらに移り住んできたのだろうか。


「ふるさとの訛り懐かし停車場の人ごみの中にそを聴きに行く」
と詠んだのはかの有名な石川啄木である。
ちょっとシチュエーションは違うけれど、この心情を追体験できたような心持ちがした。

ちなみにこの句を検索したとき、
「ふるさとの訛り無くせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し」
という寺山修司の句も出てきた。初見だったが、これも良い。

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Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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