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六段昇進記念

春休みの目標の1つ、六段昇進を達成しました。
同時にレート1600↑も達成。

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設定した目標を一つ一つクリアしていくのは楽しいですね。
達成感もひとしおです。


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決め手はこのきれいな手。親っぱねで上家が飛んで終了でした。






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帰去来

去年の夏休みに甑島に帰ったのだが、そのときの記事を書いていなかった。
なので今更感が半端じゃないが、その時のメモと写真を基につらつら書いていこうと思う。

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…写真これだけしかない。
本当はたくさん写真を撮ったのだが、大部分が手違いで消滅してしまった。

2番目の写真は僕が小学2~4まで住んでいた住宅である。


短いメモの中で、こういう文章が書いてあった。

私はここにきて、あのときあそこはどうなっていたのだろうという一種の後悔を持っていて、今回はそれを探りに来たのだ。
それにしても、1つの個風景に、本当に1つ1つに、昔の幼い頃の記憶が結びついているのは面白い。



住んでいたのはたったの3年なのに、甑島はずっと僕の中での原風景であり続けた。
そしてそれを証明するかのように、甑島の一つ一つの風景や施設を見るにつけ、沸々とその時の記憶が蘇ってきたのだ。
そしてそのどれもが驚くほど具体的で、呆れて笑ってしまうほどだった。
(例えば海の公園のアスレチックスを見たとき、この鉄の部分で静電気が当たって痛かった、とか。他のどれでもないまさにこの木で、ツクツクボウシを捕まえた、とか)



この旅を物語る上でもう一つ欠かせないのが、幼い頃の友達と再会したことである。
僕の親は転勤族だったので、もちろんこの甑島も3年で離れてしまうことになったのだが、僕の当時の同級生も大方そのようだった。
なので、10年以上たった今もここに住んでいるという人は殆どいなかった。
しかしただ一人だけそういう人がいて、運良く当時の友達と出会うという感動的な出来事があったのだ。

10年以上経って、僕は彼女を彼女だとすぐに分かり、彼女も僕を僕だとすぐに分かったらしかった。
覚えていてくれたのがありがたい。
彼女は勤務中だったので短い時間しか話せなかったが、「自分の中の幼い記憶を巡る旅」はここにおいて最高に結実したと思う。

ゑびす上水

大学の友達と恵比寿へ行ってきた。
初めは恵比寿ガーデンプレイスに行ってみたが、明らかに一見さんお断り的な雰囲気の店が軒を連ねており、とてもじゃないが入っていけなかった。
しかし夜景はそれなりに綺麗だった。

なので結局手頃なパスタ屋に入った。
僕はペペロンチーノを食べた。味は薄かった。まぁ、こんなもんか…と思った。

一通りマジアカに興じた後、今度は高校時代の、半年くらいあっていなかった友達からメールがあった。
終電が近かったが、一緒にまた飯を食べることにした。

結局ペペロンチーノ→マックのポテト(L)→若鶏のグリル→ピザ→唐揚げ→ケーキと、何故か自重することなく食べ続けたことになる。たまに胃袋が底なしになる日というのがあって、それが昨日だった。

そして雨の中、自転車をこいで帰宅した。



友達から頼られるのは嬉しいものだ。
そして、その頼りに応えるだけの力を自分が持っているということもまた、嬉しいものである。

比較①

cantō(歌う)の比較
羅:cantō cantās cantat cantāmus cantātis cantant
仏:chante chantes chante chantons chantez chantent
伊:canto canti canta cantiamo cantate cantano


sum(英語でいうbe)の比較
羅:sum es est sums estis sunt
仏:suis es est somme êtes sont
伊:sono sei è siamo siete sono


間違いがあったらすいません
どちらかというとフランス語の方がラテン語の影響を色濃く受けているようなイメージ

ペンチャン即リーが2度も上手くいったからといって

春休みはやりたいことがいっぱいある。

一度挫折したラテン語の勉強、漢字検定対策、マジアカ対策、麻雀、読書、ギター、そして絵。
どの項目にも等しく時間を割くのはなかなか難しい。

しかし受験期だって、英語、数学、国語、世界史、日本史、生物、現代社会…と、あらゆる科目を(全方位まんべんなく、とは言えないが)やってきたわけで。
それと同じように考えれば、少しは楽になるかも知れない。

***

「努力」、というものが仮にあったとして。
僕はそれを昔、「才能を磨くためのツール」としてではなく、「才能の無い者にとっての、才能の欠落を補うもの」だと捉えていた。

言うなれば、昔は豪腕でならした投手が年を経るにつれ、剛速球を投げられなくなり、そのため変化球を習得し、技巧派投手へと転化して一花咲かせるような。
努力というのは、持たざる者がするものだ、と。

つまり何事かに結果を出すには、才能という項目と努力という項目の数値の合算が物を言うのだと昔の自分は無意識裡に考えていたようだ。
あながち間違ってはいないが、本質からは遠い。

余談だが、才能と努力の相関は、対数関数のようになるのではないかと思っている。
実力をy、努力をx、才能をnとすると、おおむねy=log(n)xのようになるのではないだろうか。
(ただしx,yは共に1以上とする)

こうすると「才能=努力を実力に変換する効率の良さ」という図式も見えるし、実力が向上して行くに従って求められる努力の量が加速度的に大きくなっていくところも、なんかそれっぽくていいなぁと思う。
よく言われる「80%の地点に到達するには20%の努力でいいけど、そこから20%を埋めるには80%の努力が必要だ」ってのは実はこういうことなんじゃないかなと思ったり。


***


少し前の自分に巣喰っていた病魔について。

今頑張れば頑張るほど、「昔に今ほど頑張っていれば、今よりもっと良かったであろうのに」という後悔というか観念が萌芽し始め、今の時点での努力を放棄する。

今努力することによって、あのときこうしていれば…という意識が自分の中でどんどん大きくなり、やがてその尽きぬ後悔が今の努力をやめさせる。

今、頑張ることをやめることによって、過去への後悔も薄れ、忘れ去られていく。
そうして、目的に向かわない生き方が、見かけ上最も穏やかで幸せな生き方になっていく。


なぜか、こんな大事なことが、バイト先で料理を作っているときにふと言葉になってぽーんと浮かんできたのだ。

一旦言葉にしてしまえば、対策は簡単である。

「過去はもう戻らないのだから、今できる最善をつくすこと」が正解であり、最も利得ある考え方だ。火を見るよりも明らかである。

流星

僕にとって


東方は紅魔郷ルナティッククリアがピークだった

アニメはまどかマギカがピークだった

相撲は朝青龍が引退するまでがピークだった

ragione d'essere

覚えてていいよ
http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-232.html


鹿児島を離れ・東京に出発する、まさにその日のこと。
鹿児島県民から東京都民になる、人生史上指折りの分水嶺、境界の日を綴った記事である。
言うまでもないことだが、この変化は地理的な変化に留まらない。


文学的才能のない自分は、文学的でない「素直さで精錬された」とでも言うべき文章を書くことを常々念頭に置いているのだが、

新幹線に入り、振り返ってみたときに、ちょうど太陽がこちら側に差し込んでおり、その太陽に透かされた4人の姿はまるで絵写真のようであった。



というこの表現だけは、手放しで自画自賛できる。
というのも、この文章を目にする度に、僕はまさにその時の視覚的な風景と、その時の心情をリアルに思い出すことが出来るからだ。

文章というのは、何かを誰かに伝えるための道具だ、というのが第一義の存在事由であると僕は思う。
それは必ずしも、「自分と他者」という構図に留まらない。
「過去の自分と、未来の自分」という構図も、もちろんそこに存在している。

だから僕は、どんな文章であれ「伝わり得なければ意味がない」と思っている。
(伝わらなければ意味がない、ではなく、伝わり得なければ意味がない、ね)

ゆえに背伸び的な、鼻につく「文学的」な文章は、僕は嫌いだ。
「伝える」という行為が、意志が、第一ではないからである。

「伝える」ことを前提とした上で、その意志を補助するために、文学的な表現というものは存在している。
でなければ結局文学的な表現というのは活きない。ただの自己満足、ファッション、そんな文章を読んだところで鼻白むだけだ。

過去の自分の記事を読んでいても、僕がそう感じる箇所は幾つもある。

翻ってみるに、さきほど僕が引用した箇所もまた、(笑)を付したくなるほどに「文学的」である。
にもかかわらず、そのときの風景を、心象を、家族一人一人の表情を、これほどまでに(少なくとも今の僕に)伝えてくれる文章を書けているというところに、なにかありがたさ?を感じる。

この「絵写真」を目にしたとき、主人公は一体何を思ったのだろうか…。

豊洲

無駄に海が見たくなり、無駄に東京湾へ向かった。
「薄汚れた川と、つなぎ止められたぼろっちい小舟」が見たかったのだが、あいにくそんな風景はなかった。
どこにあるのだろう。

ダウンロード (1)

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ダウンロード (2)


ダウンロード (3)
東京ゲートブリッジ。確か今日開通。

ダウンロード


青海駅から帰るとき、ちょうど摩天楼が西日に照り映えていた。
スモッグと太陽がビルを浮かび上がらせている光景は、なかなか良いものだ。

結局ただ歩いて帰ってきただけだったのだが、その間やはりとりとめのないことが浮かんでは湯水のように消えていき、しかしその中でもただ漠然と「家に帰りたいな」という思いもあり、なんだか一人旅はいつも訳がわからない。


ひので

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池袋で15クレほど投下。
過去の記録を200点ほど更新。ここまでくると微更新ではなくれっきとした更新ですね。
しかしながら5000には届かず。

ちなみに1クレ目は全問正解で4100点でした。
ここまでくれば、回収よりも問題を回すことのほうが遙かに大事になってきています。
かねがほしい。

4900点台が見えた回があったのですが、悔しすぎるお手つきをしてしまい4700止まり。無念。
ちなみにそのお手つきとは連想問題で、

「宇宙遊泳を最初に行った」→この時点でレオーノフを答える
「…女性」→あ、サビツカヤだ…

おそらく配点もそれなりにあったと思われるので残念。


ちなみに宇宙遊泳シリーズとしては、

史上初の宇宙遊泳→レオーノフ
史上初の女性での宇宙遊泳→サビツカヤ
史上初の命綱無しの宇宙遊泳→マッカンドレス
日本人初の宇宙遊泳→土井隆雄

を、押さえていれば大体大丈夫な筈です。

あと準惑星の発見順とか結構鬼畜だなと。回収サボってるだけですけどね

「中身がない」

ちょうど良い機会なので、ここでじっくり考えてみよう。


アニメが評される際、「中身がない」という言葉を本当によく目にする。
最初から言っておくと、この言葉は本当に魔性の言葉というか、つまり思考停止を招くフレーズであるのだ。
だからみんながみんな「知ったような口」をきいてしまう結果となるし、この言葉に基づいた有為な議論など到底期待することも出来ない。(まぁ結論から言ってしまえば、実のところこの言葉を用いる人間は、そもそも真面目にそんな議論をする必要性など毛ほども感じていないのだ。だからこの僕の試みは結局自己満足でしかないのだが…)


「中身がない」の中身、とは何か?
僕は2つ前の記事で、境界線を定めること――この場合では、「中身」とは何かを厳密に定めること――にはさしたる意義が無いと書いた。
だが、この"中身"はあまりにも広義なので、ここでざっくりと類型化してみたい。

僕が思うに、この"中身"の指す意味内容は3つほどある。


①ストーリー性

「事件」とも言う。
物語には、出来事・そしてそれに付随する結果の2つが必要である。
入力と出力の繰り返し、それらの織りなす複雑さが、物語というものの起伏・奥深さを形成していく。

日常アニメにはそれがない、故に見ていて退屈だ、という批判。

本当のところ、「事件(=出来事=入力)」の無いアニメなど存在しない。
ただ、それがもつ比重が極端に薄いだけなのだ。
ストーリーはあるけれど、それが登場人物の人間関係に影響しにくい、というように。

もっとも、ストーリー性があっても退屈なアニメはいくらでもあるけれど。



②人生における大切なことへの示唆

わかりやすい例で言えば、名言とか。
それを全面に押し出している作品が、まさしく「ARIA」とか「ローゼンメイデン」とかである。
確かに、この要素は重要である。だがそれは本当に、「中身がない」アニメには存在しないものであるのだろうか。



③非テンプレート性

「中身」がこの意味で用いられる際、「中身がある」という風に用いられることは実は少ないのではないかと思う。
非テンプレート性という言葉を使ったのは、これ意外にどう表現して良いか分からなかったからである。

要するに、適当に「萌え要素」をぶち込んで、何も考えずにテンプレート的に作られた作品をさして「中身がない」という批判が用いられる場合だ。
そしてこの場合における「中身」が、最も漠然としている。

とりあえずオタクが喜びそうな萌え要素を取り入れ、それっぽいどこにでもありそうなストーリーを付与し、適当に手を抜いて作られた、つまり量産型の作品…が批判される際、この「中身がない」というフレーズが濫発されるようだ。

尤も、そんなアニメが売れるはずはないのだが。


ここまで書いて、僕は僕で思い当たる節がある。
JPOPで今売れているのは嵐とかK-POPとかだが、JPOPを全く嗜まない僕からすれば、なんでそんな「中身がない」曲が売れるのだろう?と思うのだ。
そしてその後で、僕は僕で「中身のある」曲を想起する。僕は浜田省吾が好きなので、彼の曲を「中身のある」曲として挙げるだろう。

しかし結局、現在は嵐とかなんだとかが売れている。
この事実から僕はどんな結論を導くべきだろうか?
「視聴者のレベルが落ちている」だろうか。「量産型のように見えるその曲の中に、実は他の曲と一線を画す何か光るものがある」だろうか。

どちらの結論を導くべきかはともかく、ここで大事なのは、前者を肯定するためには後者を否定しなければならないということ。
そしてそのためには、僕が「中身がない」と見なしている曲に、面と向きあわなければならないということ。つまり、僕が彼らの曲を(売れてる曲だけでも)聴いて、光るものが無いということを確認する必要があるということだ。

「"聴いていないけど"中身のない量産型な曲だよねー」と、僕が嵐のファンに言ったところで、僕の批判は何ら説得力を有さない。

そもそも、聴いていない か ら こ そ 量産的だと感じてしまうのではないだろうか、とも思う。
僕自身にも思い当たる節は一杯あるからだ。



***

思うに批判するという行為は、結局その批判したい対象と粘り強く付き合うことを意味するのだと思う。
それがなければ、批判はただの偏見と成り下がってしまう。

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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