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銭湯に行ってきた

俗に言うスーパー銭湯というやつです。

銭湯と温泉が同義である鹿児島で生まれ育った僕は未だに銭湯のことも温泉と言ってしまいます。


とりあえず行けば何とかなるだろう、と思って行ってみましたが、なかなかリフレッシュできるところでした。
惜しむらくは時間帯が遅かったせいか、よくわからん大学の運動系の部活に属していると思しき若者に露天風呂が独占されていたことだろうか。


温泉、といえば青森県の酸ヶ湯温泉(読めない)に行ってみたい。
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比翼連理のカタルシス

んーやっぱり前の記事の、「意味を見出す人には意味を持つし、意味を見出さない人には意味を為さない」という結論は、なんというかご都合主義的(?)な結論になってしまっているような気がする。

たとえばこの記事の「比翼連理のカタルシス」というタイトルに、誰かが何らかの意味を見出しうるだろうか?
ちなみに書き手たる自分はこのタイトルに、実のところ何の意味も付与していないのだが、それでも誰かがこのタイトルに意味を見出したら、それは意味があると言えるだろうか?

難しいな。やはり前の記事の理屈は、すこし「浮いている」気がしている。

見えざる領域

「ある文学作品を読み解く際、筆者が考えたであろうことを越えても良いのかどうか?」
僕自身は文学評論なるものをしたことはないが、おそらくこの手の問題は常について回るだろう。
そしてこの問題は文学に限らない。

たとえば東方projectで考えてみよう。
東方シリーズに登場するキャラが作中で発する台詞は「意味深」である。
それらの台詞を読み解くにおいて、あるファンはこう言う。
「この台詞は、ZUNの~という概念が含まれており、これはすなわち~ということを意味しているのだ」
またあるファンはこう反論する。
「いや、ZUNはただ適当に無意味な単語を並べて、それっぽく整えただけだ」、と。

この命題は畢竟、「筆者がどの程度の含蓄を込めてそれを書いたのか、を見極める」ということに集約される。
もっとややこしいことには、意味深な文章(文章に限らず、ありとあらゆる言葉や行為)を前にしたとき、「評論家」は「それが何を意味しているのか」以前に、「それは何かを意味しているのか、または何ものをも意味していないのか」(意味の有無)ということをまず考えなければならない。


しかし僕の結論から言ってしまえば、「何事かを意味してようとしていまいと、解釈それ自体の価値が変動することはない」ということだ。
そしてこの結論の前提にあるのは、「それが何事かを意味しているか、意味していないか」ということは結局のところわからない、というある種の諦観である。

なぜわからないか?
一つは、解釈される文章を書いた人間に直接その真意を問うのは難しいからである(たとえ問えたとしても、それが正しいかどうかはわからない)。
もう一つは以前の記事に書いたとおり、人間の本質はより深い次元にあるので、およそ普通の人には理解されないような意味合いが込められている可能性があるからである。


わかることが本質的に不可能な場合、それをわかろうとする努力はむしろしてはいけない。
(これはあくまでも僕なりの意見であり、やり方でしかないが。)
それは中身の見えない二つの箱(その内の一つに赤い玉が入っているとしよう。さらに実際にその箱の中身を確認することは永遠に出来ないとしよう)を前にして、どちらに赤い玉が入っているのかを延々考え続けることと同義だと思っているからだ。

で、あるならば。
とある文章が何かを意味するか否か、というポイントは考える必要がないのだ。

すなわち結論は次のような言葉遊び的な意見に落ち着く。
「意味があると考える人にとっては意味があり、意味がないと考える人にとっては意味がない」

そしてどちらを選ぶかどうかは、それは好き嫌いの問題でしかない。


この一連の問いに答え続けていく内に見えてくるのは、解釈というものは結局のところ自分にとってしか効力を持たない、ということである。
もちろん自分の解釈が他人の共感も呼ぶこともあるが、その共感はあくまでむこうからいわば勝手にやってくるものなのであって、自分から強制することは出来ない。いかなる論理を持っても本質的には強制できない。

たとえ多数派の解釈があったとしても、その解釈に共感できるかどうかは結局自分次第なのである。


さきほどの東方の話で言えば、意味がある派・意味がない派はどっちも解釈としては成り立っている。
では筆者が文章に込めた以上の意味を勝手に読み取って、妄想しても良いのか?

結論を言えば、それは可である。
ただし解釈は一人一人に固有なものなのであって、したがって他人に押しつける、その解釈を強制することがあってはならないということについては留意しておく必要がある。

ZUNがブログかどこかで、確か「ファンの方が充分に妄想できる、または妄想しすぎることのできるゲームとなっております」みたいなことを書いていたような記憶がある。
妄想しすぎる、とZUNが書いているということは、あきらかに巷にはZUNのこめた意味を越えてしまった解釈つまり妄想が存在しているということを意味している。
しかしだからといって、その解釈が無価値であるということはない。少なくとも当人にとっては価値を有している。

余談だが同じことを、『ローゼンメイデン』について侃々諤々していたころから思ったりもしていた。
PEACH-PITがどこまで意味を含ませているのかというところから解釈を決めていこうというきらいがあったが、結局それは彼女ら自身のみぞ知るのであり、したがってそこから解釈を決めていくことは不可能だ。

すなわち、作者がどれほどの意味を込めたかということは、解釈の絶対的正しさの指標にはなりえない。
それは、どんな解釈も平等に正しく、平等に正しくない、ということなのだ。
であるならば、「誰にでも通じる正しさ」ではなく「自分にとっての正しさ」を追い求めていくのが、理想的な態度なのかもしれない。



ただ自身の立場を明確にしておくなら、僕自身は作者の意図を越える(と思われる)解釈は嫌いである。

かつて「崖の上のポニョ」をあらゆる心理学的視点から考察し、さまざまなシーンから心理学的意味を見出し、この映画は大変素晴らしい!!と書いているブログを見たことがある。
心理学の素養など全く無いし、また持ちたくもないと考えている自分に言わせてみれば、単に心理学の教養を見せびらかしたかっただけの嫌味な文章にしか映らなかった(自分も全く同じことを言われたことがあるけど)。
なにより宮崎駿はそこまで考えていないだろう…と。

しかし宮崎駿がそこまで考えていたかどうかということは「見えざる領域」なのであり、解釈も固有の道だとすれば、その嫌味な解釈も充分に解釈として成り立っているのだ。
その解釈者にとって意味があれば、それは意味を持つのだ。


まことに不快なその解釈をある程度認めなければならないというのは我ながら残念きわまりないが、理屈でちゃんと考えてそれなりに譲歩できるようになったのは自分の成長だと前向きに捉えるようにしたい。




もう一つ余談だが、この考え方を応用すれば、次のことも言える。
「人生に意味があるかどうかを考えるとき、人生は意味を持つと考えている人の人生は(少なくとも当人には)意味を持つし、人生は意味を持たないと考えている人の人生は(少なくとも当人には)意味を持たない」

でもこれは言葉にしてみたらあまりにも当たり前のように見える陳腐でありふれた意見だ。
もしかしたら真理というものは、当たり前のところに落ち着くのかもしれない。追い求める類のものではなく、元々そこにあったものに気づく類のものなのかもしれない。


二都物語#補足

自分の内奥の世界というものは、そもそも他人と同質化することが確定的に不可能なものです。
「同質化」とは端的に言ってしまえば「理解すること・させること・しあうこと」です。

「深淵をのぞき込むとき、深淵もまた君をのぞき込む」というニーチェの言葉がありますが、
この深淵とはつまり自分の内奥、自分の精神世界を指しているのだと思います。

以前も同じような内容の文章を確か書いたことがあるはずですが、人間の本質というものは理屈で到底測ることのできない、もっともっと深い部分で「うごめいている」ものなのです。

これを説明するのは非常に難しいですね。
自分というものの深い部分というものは、実は自分自身では制御することの全くできない何かによって動かされているような、そんな気さえしてきます。

そしてこういう表現は盛大に誤解を招くかもしれませんが、
「人間は誰しも悪魔になる可能性を秘めている」のです。
(ここでいう悪魔とは「理屈を超越した存在」と同義です)

そしてその本質は、決して他者と同質化することはない。
他者どころか、自分と同質化することもありえません。





その前提を踏まえた上で、やはり文章を書くことを通じて自身の内奥の精神世界を描出していく行為というのは、とても大切なことだと思うのです。

他者どころか自分自身にも理解されえない(されない、ではなく、されえない)自分というものを、どうにかこうにかして他者に、ひいては自分自身に理解させようとする。

これは一見不毛な行為ですが、その実非常に意味深い行為でもあります。
少なくとも自分はそう考えています。

そうすることによって他者を、たとえ1%でも正確に理解できるようになるし、ひいてはそれが自分という人間を理解することに繋がっていくからです。
そして、その試行錯誤の軌跡が、自分という人間を作り上げていく。



わかりやすい具体例があります。三島由紀夫の『仮面の告白』。

主人公は、汲み取り屋(もちろん男性)のふんどしの輪郭に心惹かれるようないわゆる変態、端的に言えばゲイです。
自分は異性にしか性的欲求を抱かないので、もちろんこの主人公と同質化することはできません。

しかし三島由紀夫のその圧倒的な文章力は、読み手に対して「無理矢理」この主人公を少なからず同質化させてしまうのです。
『仮面の告白』や太宰治の『人間失格』は、全く理解できそうもない人間を(100%とは言わないまでも)理解させてしまう文章が存在することを教えてくれました。


二都物語-断片のメモ

<文章を書くときに個人的に気をつけていること>

・背伸びしない。
(googleで調べたようなやたら難しい語彙を使って頭の良いふりをしない、など)
・ありもしないようなことを、あたかもあるかのようなふりをしない。
(例えば、文章がなんとなく美しくなるからという理由で、感じても居ないことをあたかも感じたかのようにして書いてしまうこと:上の「背伸びしない」と似ている)
・極力、日本語を正しく運用する。
(主語と述語が極力明確になるようにする、指示語が何を指しているのかが明確であるようにする、助詞を正しく使う、などなど。常に相手に伝わるような文章を書くことを意識する。それが出来ないのに、思いついたことをつらつらと意味不明な日本語で書き表すのは「感情表現」ではなく、「逃げ」。ただし100%拘る必要は無し)

基本的にはこの3つしかありません。
3つしかありませんが、守れているかどうかは我ながら結構あやしいです。
豊穣な語彙?うまいことを言うこと?
それらに価値が無いとまでは言いませんが、遙かに重要度は劣ります。

もちろん語彙を身につける勉強はしていますが、単なるお遊びのような感じです。まさにゲーム感覚。

なので自分の文章の弱点としては、話題にあまり気を遣わないせいで、文章に統一感が出にくいというところでしょうか。
一つの文、およびそれらの小さい集合体ではカッチリ整っていても、文章全体で見ると比較的に整っていない。

また、文章を短く纏めることが出来ないのも修正すべき点です。
本当に頭の良い人間は、実に短く、それでいて的確に論理を展開し、相手を納得させてしまいますから。



新宿にはいろんな人がいます。
キモオタから暴力団構成員まで誰でもござれです。
実に多くのタイプの人間がいて、それでいながら互いが互いに心的に干渉しない街です。
具体的に言えば、昨日に至っては新宿駅構内で抱きしめ合ってる中学生カップルを見かけましたが、それが明らかに非日常的な光景なのになぜか日常茶飯事の出来事のように錯覚する、そんな街です。


新宿では自分を大きく見せる必要がない。
ないものを、あたかもあるように見せる必要がない。
他の街(意外かもしれないけど特に秋葉原)、そしてネットで感じるような気疲れをする必要がない。

ちなみに僕の人生のこれからの目標は、「無いものをあるかのようなふりをしない」です。
わざわざ目標に据えるあたり、今までそれが出来ていなかったのは言うまでもありません。


話は少々脱線しますが、無いものをあるかのように見せる生き方もしたくなければ、無いものをあるかのようにみせる文章も書きたくありません(大学のレポートなど、書かなければならない文章を書く場合を除きます)。
ほら、無いものをあるかのように見せてる文章って、すぐに分かるじゃないですか。空中分解してて。そんな文章は書くだけ時間の無駄なのです。

最悪なのは、その「無いもの」が「頭の良さ」に相当する場合です。
なぜかというと、そういう文章は読み手どころか書き手にすら理解されていないことがあるからです。まさに誰得

文章というのは自分の「感性」だの「論理」だのをただ見せつけるだけのツールであってはならない。100%とまでは言わないから、読み手に理解してもらうことが必要です。
読み手に理解してもらうことを放棄するのは逃げとしか言いようがありません。
手書きの日記や、誰も見に来ないブログのような、読み手と書き手が完全一致する場合であったとしてもそう。
もちろん、相手に少しでも理解させる気すらない人間の持つ「感性」や「論理」といったものは、たいてい支離滅裂なのですけれどね。
具体例を挙げれば、例えば厨二病的文章などです。


(本当はそうでもないのに)頭が良いふりをしたいがためだけに、「それっぽい」文章を書く。
そこに目的は先立たない。文章の内容それ自体は何らの意味を持たない、単なるファッションでしかなくなっている。
そんな文章は読んでて面白くも何ともないし、書くだけ時間の無駄だと言わざるを得ません。


うまいことは言わなくて良い。語彙力なんかは無くてもかまわない。
でも「背伸び」した文章だけは、20を越えた人間として絶対に書きたくない。
それは一見簡単なことだけど、趣味で書く文章にすら責任が生じるということでもあります。
言い換えれば、自分の文章について説明を求められたら、説明できなければならない、それほどまで自分が書いた文章を自分で理解しておく責任が。
つまり、背伸びしない文章を書くというのは、ほんっっっとうに難しいことなのです。無意識にフィーリングで書いちゃうことのなんと多いことか。

それが出来ていないと、相手を煙に巻くような曖昧な文章が出来上がってしまいます。
いかにも「あなたが私の書いた文章を理解できないのは、あなたの頭が悪いからなのですよ」と言いたげな文章。
その場合おそらく書き手自身が自分の書いた文章を理解できていないことが多いと思われます。

同じことを繰り返しているような気がしますが、
「自分の深い部分を抽出し文章に表出させる」という行為は、フィーリングで思いついたような気がすることを支離滅裂な日本語で書き表すことではありません。それは表現とはいいません、単なる甘えです。
そういう文章を書くのはいずれかの段階で卒業しなければならない。

脳内の何かを目に見えるようにするために文章を書く、ということだけではなく、文章を書くことによって脳内に何かを生みだす、という側面がある以上、たとえおよそ文章にすることができそうもないような自分のコアにあたる深い深い部分を、洗練された文章を以て表現しようと努めようとする行為は、非常に重要です。

もちろん言うまでもないことですが、文章というのは「不完全な器」ですから、自分の核心を完璧に描出することは不可能です。
でも粘り強く自分の潜在意識と対話し、それを文章という器に盛っていくという行為は、とても大切で、驚くほど難しく、そして楽しい「挑戦」なのです。


特殊な語彙を使って頭の良いふりをしている文章の代表格としては、「涼宮ハルヒの驚愕」に出てくる佐々木の一連の台詞があげられます。
佐々木という秀才キャラを立ち上げるために、「韜晦」という見慣れない語彙を作者はたくさんしゃべらせていますが、他の語彙がそれに追いついていないために、「韜晦」という単語が浮いてしまい、ひいては佐々木の台詞全体が浮いてしまっています。

読書量の乏しい自分があえて挙げるとするならば、たとえば『山月記』(中島敦)、『草枕』(夏目漱石)の、出だしの1ページでいいので読んでみてください。本当に語彙のある人間はこうも違うのかと感じることと思います。それは圧倒的高次元での統一であり、そこに嫌味ったらしさは微塵も感じられません。
漢籍の素養は偉大ですね。


僕が好きな文学作品はほぼ明治~昭和期の日本人作家の小説に集中しているのですが、なぜか村上春樹の小説も好きなのは多分それが背伸びしてない文章だからなのかなぁと今は思います。

背伸びしない文章というものが、結局のところ最も洗練された文章なのです。

書き慣れてないことを隠したいが為だったり、妙に自分を大きく見せようという意図を持って書かれた文章などは、見る人が見れば一発で看破されてしまいます。本当はわかってないでしょキミ、みたいな。

青銅賢者

青銅賢者になったぞ
DSC_0196.jpg


なんか本当に黄金賢者までは突っ走っていってしまいそうな気がする

そろそろ回収を意識すべき段階まで来てしまったのだろうか…

昔の記事を

引っ張ってきた。
だからコメント欄がちょっと凄いことになってる。


翠凜見聞録から東翠録に移行する際、初期の記事を結構な数削除したのだが、やはりもったいなかったなぁ…と思っていた矢先、昔のブログの全記事がログとして残されているのに気がついてこっちにも移すことにした。


なんていうか、ぶっちゃけ2年前の自分は「香ばしい」。

昔の自分はまさに今の自分の「嫌いな人間像」を見事に具現化してしまっているというかねぇ…


物事の考え方が浅い、いや浅いのは今も変わっていないが、深めようとする意識すら感じられなかったり、なんか一々滑ってるというか、いろいろと貶したいところしか見あたらないけど

一番ダメなのは「誰も君のことなんてそこまで気にしてないよ」ってことをわかっていないのです。

自分は19歳から21歳の間で、かなりの価値観の変容を遂げているように思う。
だから昔の自分をこうして客観的に見てみると、圧倒的な幼さを感じてしまうのも仕方がないのかもしれない。

もちろん自分のことを、周りから必要以上に見られているように「錯覚」してしまうのは未成年特有の性質であるし、ゆえにそれに対して年上の人間は寛容さを持って接しなければならないと思っている。

だからこそ、自分より同い年だったり年上の人間が未だそんな錯覚を抱いているのを悟ってしまうと、猛烈な嫌悪感を催してしまう。


そんなこんなで結局いらだちしか覚えないような作業だったような気がしないでもないが、黒歴史を積み重ねながら生きていくのも人間らしいのかもしれないなと思うし、なにより過去を否定して生きるのは「今の」自分のポリシー()にそぐわないので。

それにどうせ今の記事だって、2年後の自分から見ればさぞや幼く映るだろうさ。


もちろん自分の幼さを感じるだけじゃなくて、懐かしさも当然感じた。

こんげつのしゅっぴ

(給料日から3日目)

ギター 10000
定期券  4000
飲み会  3000
借金返済 6000
伊辞書  5000
教科書 2500




今月のクレジットカードの引き落とし   64000







(^ω^)

瑠璃魔神討伐②

14日~16日という短い期間であったが、瑠璃魔神討伐が終了した。
16日は14時頃から新宿のゲーセンに引き籠もり、ひたすら討伐戦だけをやっていた。
途中から友達も合流し、一緒にクイズを解いた。




結局、夢のまた夢だと思っていた魔神討伐に2度成功した。
といっても特に魔法石が増えるということはなかったが、やはりうれしい。

そして大賢者2段から9段まで昇格。
青銅賢者は、まったり目指すことにします。

「有名問題」に対する自分なりの意見を持つことについての概論

「2ちゃんねる」を見ていると、定期的に「有名問題」についてのスレが立っているように思う。
ここでいう「有名問題」というのは、たとえば「死刑を執行するのは是か非か」とか「女は男より差別されているか否か」といった、頻繁に目にする問題でありながら議論の紛糾しやすい問題のことである。

自分も一応、これらの問題を目にする度に何かを感じないこともない、のだが…
やはりこういう問題に対して、「自分なりの意見」をもって対峙するというのは少し限界があるのかな?と。

この自分なりの意見というのは、"その問題"と"自分という主体"のみの関係性から構築される意見のことだと解釈して欲しい。
つまり、他の人の考え方というもの一切が排除された中で産み出された意見のことである。オリジナルの意見といってもいいかもしれない。

しかし有名問題というのは、ほかの問題に比べて、それについて様々な人が考えているのだ。
世界でもトップクラスの頭脳をもつ人がたくさん考え、意見を述べているのだ。

ここにおいて自分なりの意見などというのは、誰かの意見の焼き増しにしかならないだろう。
また、それらの軌跡を踏まえることなしに有名問題を論じても、おそらく誰にとっても説得力を持たないと思われる。なぜならば生(き)のままの自分の意見が、有名問題を論じてきた才能の堆積、そして歴史に勝てるわけがないからである。

その結果が、どこかでみたような体の良く、都合の良い言葉による「批判」(たとえば「中身がない」、など)の投げ合いの無限ループなのである。


であるから、自分の意見を持つだけではなく、他人がどう考えてきたのかという軌跡を踏まえようとする姿勢もまた持たなければならないと感じる。

それによって自分の中に確固たる芯が設けられ、低次元な(つまり各人の、各人なりの意見の応酬による)議論の無限ループから抜け出すことが出来るのではないだろうか。



プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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