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最近の事情について

どうもお久しぶりです。

先日、パソコンにビールをこぼしてパソコンが逝ってしまわれるという事態が発生してですね…
ネットが完全封鎖されております(ケータイではネットしないので)

この文章は大学のパソコンから書いています。
本来は禁止だったかな?まーどうでもいいや
ちなみに2ちゃんには書き込めませんでした。公開PROXYがなんとかで

というわけで、別に現実が充実してるからネットしなくなったとか、そういうことではないのでね。
ていうか別に、現実の充実とネットの充実は反比例するものでもないかなと。

しかしながら、この前修理代の見積もりが出て、なんとその額が購入時と同じ値段というふざけたことに(いやふざけてるのは僕ですけど)。
といって、買い換えることはしません。必ず修理します。合格祝いなのでね。
それまではこういう状況が続きそう。

ネットに繋げないこと自体はもう何度も体験してきたことなので慣れていますが、そういう大切なものをぶっこわしてしまったことに凄まじい自己嫌悪を感じているところです…

それにしても、家に帰ってもやることがなくて。
やはりネットに頼ってたんだなぁと感じる次第です。
愚痴やらなんやらをネットに垂れ流す時間って、思ったより貴重で、癒しだったんだと。

まぁこういう状況も楽しむべきなのかなと思っていますけどね。今はARIAを読み返したり、小説を読んだり。ちなみに今はカラマーゾフの兄弟を読み進めています。

そして、別に現実が充実しているかというと、そういうわけでもなく。
大学の授業も思ったより大変で、バイトでは失敗しまくってついに昨日本気で怒鳴られるし、金がないから遊びに行けるわけでもないし、そこにきてこの自己嫌悪です。

現実は疲れますね。苔むした意見ですけど。もう鹿児島帰りたいわ



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in youth,in mente

中学時代の友達と池袋で遊んだ。
中学時代といっても、小学校も同じだったが。
そんな昔から今も付き合いが続いているのは3人ほどしかおらず、しかもこうして月1くらいの頻度で遊べる相手となれば彼しかいない。

高校や大学の友達となれば、お互い趣味が確立しているため、似たものどうしが集まることが多い。
だが中学以前の友達ともなれば、まるで違う世界の人間だったりすることもあるわけだ。

「一期一会」、という言葉を聞いて皆さんはどういった出会い方を想起するだろうか?

特定の同じ時間で、場所が同じになることで生まれる出会い。僕はこれを「横の一期一会」と呼んでいる。
場所という同一平面上で、二つの座標がぶつかるようなイメージである。

蓋し一期一会というものにはもう一つあって、それは「あらかじめ出会うことは決まっているが、どの時間・タイミングで出会うか」によって出会いが出会いたりうるか?というものだ。

つまり、お互いに人は成長していくわけで、価値観も時間に伴って流動的に変化していくものだ(核の部分はなかなか変わらないが)。
だから、もし特定の者どうしが出会うにしても、その出会うタイミングによって、「こいつは友達になれる!」と思えて強い結びつきが生まれたり、「ああ違う世界の人間だ」となって何も関係が発生せずに終了する(つまり出会いが出会いたりえない)ということもあるわけだ。

僕はこれを「縦の一期一会」と呼んでいる。
同じ時間"軸"を、異なる2つの座標が自由に動き回っているようなイメージである。
こちらの一期一会は、より運命論的である。

そしてこの「縦の一期一会」は、まだいろいろと柔軟な若い頃、というより幼い頃に起こりやすいと思っている。


まぁそんな酒の肴にもならないような出会い論はさておき。


その友達は美容師を目指していた。
しかし東京の美容室を短期間で辞め、今は別の仕事に就いている。

一方自分は第一志望の大学に通らず、彼から1年遅れで東京に出てきたというわけだ。


東京に出てきて2ヶ月ちょっとの間に、彼とは5度ほど遊びに行ってるような気がするが、
いつも「彼と自分はまったく違うタイプだな」と思う。
それだからこそ付き合いが続いているのだろう。

しかし同じ鹿児島という風土で育った2人が、今遠く離れた東京で、駅の人混みに紛れながら、月しか見えない空を眺めながら、挫折を分かち合いながら、酒を呑む…というのはなんとも(言い方が適しているかどうかわからないが)乙なものだなぁと思うのだ。


人間的な面でも、面白いやつだなぁと思うわけだが、
そういうのを遙かに超えて縁(えにし)を培っているものは、一連の経験なのだと思う。
つまり昔から一緒に遊んだり、一緒に何事かをなしていく……いやもっと単純な、単に同じ時間をすごしたという経験の絶対値が、関係を関係たらしめているということだ。

生きる世界そのものは違っても、共に同じ時をすごす経験が増えてくると、なんとなく親近感が湧くという経験は広く共有されていることと思う。
時にはそれが親近感ではなく、憎悪だったりすることだってあるだろう。

しかし今となっては僕は思うのだ。
憎悪であれ親近感であれ愛情であれ、なにがしかの経験(時間)を同じ場所で共有したのち、何らかの感情を互いに生み出すことが出来れば、それは関係としては成立している、と。

三浪生のフィロソフィー(下書き)

初めこの文章を書くに当たっては、2年前のとある重大な(といっても、そう思っているのは僕だけだろう)出来事について詳細に語っていこうと思っていた。
その出来事は、今の自分の大部分を構成しているほどに、自分の中では重要である。

しかしいざディスプレイに向かってみると、当時の記憶というのは思った以上に曖昧であり、かつ僕自身にとっての重要度がもの凄く大きいため何から手につけて良いのか分からなかったので、そういう方向性での記述は断念することにした。

よって、その出来事そのものよりもむしろ、その出来事以降に僕が考えたことや、それをとりまく周辺事項について、短いながら書いていきたいと思う。
なので、前提が充分に共有されず、したがって僕が一体何を言っているのかわからないってこともあると思う。

ただ、これを読んでくれた皆さんが、僕の人間的な歪みや根源的な何かを感じ取ってくれたのなら、それはありがたい。




その出来事とは、とある友達との進路に関わる会話である。「説教」と言ってもいいかもしれない。
当時僕は2浪生であったので、大学生とする会話なら、大学がどうのこうのという話題になるのは当たり前の展開と言える。
しかしそのときの会話の内容は、誇張でも何でもなく、毎朝起きる度に反芻してしまうほどに強烈であった。

その会話の内容を端的に要約するなら、「お前、東大受けるの止めろ」というものだ。


結論から言ってしまえば、彼の言っていることは正しい。
当時予備校にも行かず無勉だった僕が、日本最高の大学を受けるなど、無謀に等しいからだ。

しかし問題はそこではない。
僕が今に至るまで彼のことを強烈に憎んでいる所以は、むしろその基盤にある。


その発言に続けて、彼は大学生活の充実と浪人生活の不毛を滔々と説明し(そんなものがどちらも真実でないことなど、とっくに看破していたが)、東大を目指し落ちていった者の末路を井戸端会議の専業主婦のような口調で語り、東大を受けさせたがる鶴丸の教育方針を批判した。


彼にそういう発言をさせた理由、そういう発言をするにはあまりにも説得力を持てない主体、その発言を正当化するために彼が犯したありとあらゆる禁忌、…

何が彼を許させないのか僕自身分からないほどに、多くのテーマを孕んでいる。


だが、僕自身の瑕疵(言うまでもないことだが、僕は彼の欠点を反映する鏡だったのだ)に対する反省を差し置かせてまで、彼に猛烈な反感を抱くに至ったのは何故かということを考えてみると、一つのことに思い至った。

その「許させない何か」というのは、「お前に言われたくない」ではなかったのである。


高みを目指したことをまるで無かったことのようにしたその態度、
そして、それを他人に押しつける姿勢だったのだ。



彼は僕と同じ大学を目指していた。
そしてしばしば、努力をする甲斐性に欠けたところのある僕に説教した。

「彼がわざわざそういう説教をするのは、僕のことを思ってくれているからなんだ!」という僕の思考可能性を、彼はおそらく把握していたと思う。
そして、実際にそうであったのか否かと言うこともまた、問題ではない。そんなの分かりようがないからである。
だが、そういう疑念を抱いてしまう自分を、今となっては肯定している。自分はある面では非常に底意地が悪く、しっかりとした客観的判断など出来ない人間だからだ。

そして彼は一足先に、東大を受けることすらなく、東大ではない大学に通っていった。

先の「談話」で言えば、一つ一つの発言そのものは、正論だと思う。
そしてどれも、なまじ正論であるだけに、余計に悲惨なのだ。

一方で、僕が長きにわたって彼の体の良い「供物」だったということを恨んでいることもまた事実だ。
しかしそれ以上に次元が違う問題も同時に存在していたのだ。

僕は絶対に、東大を受けたことを後悔はしない。
そして、東大に弾かれたことを背負って生きていきたい。

また、ある一つの生き方を他人に押しつけることも、絶対にしない。

歳を重ねるごとに、正解というものは変わっていくものだ…と思う。
だからといって、その正解が変わるごとに他人に押しつけるという姿勢は間違っているだろう。

達成目標を持って生きる生き方なんて、所詮現代での生き方の一つのモデルでしかない。
しかし、高いところを目指す生き方は積極的な悪だ、といったことを言われるとカチンと来る。



僕は高校時代の中で、彼に一番認めて欲しかった。
そして今思うに、彼は僕のことを認めていてくれたのだと思う。

晴耕雨読

ここ数日、突然わけのわからない焦燥感に襲われるようになった。
しかも性質の悪いことに、何に対する焦りなのかが分からない。

直近の単位だろうか、「何かを忘れているような気がする」という感情の類だろうか
または将来に対する漠然とした不安だろうか
(もちろん世間一般が持つところの漠然とした不安とは性質を異にしているだろう)

どれとも違っているが、どれをも混淆したような、名状しがたい焦り。


しかしこういうことを感じるようになったのは、まさに今の日常にある程度慣れたからだ。と言えなくもない。

まぁいずれにせよ、何らかの対策を立ててみることにしたい。
例えば小説に読みふけるとか(昨日驚愕読み終わったけど)

むぁー
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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