絶対論理のパラノイア

東京大学の数学(理系)で、このような問題が出たことがある。

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」

結構これは面食らう問題であったことだろう。
当時、小学校教育で円周率を3として扱う云々に対する最高学府からの警鐘だ、などと言われたりもしたが、ともかくも解法を紹介したい。

半径が1の円と、それに内接する正十二角形を考える。
正12角形を構成する三角形は、二辺の長さが1で、その二辺に挟まれた角は360÷12=30°である。

のこり一辺の長さをaとおくと、
余弦定理よりa=√(2-√3)となる。
よってこの正十二角形の周の長さは、12×a=12√(2-√3)、となる。

さてこの円の円周の長さは円周率×2である。
(なぜならば円周÷直径=円周率だから)

この円周は、もちろん正十二角形の周の長さより大きいのだから、
円周率×2>12√(2-√3)

これを計算していくと、円周率>3.05が求まる。

110531_0212~0001



この考え方を応用して、正n角形ではどうだろうか?
円に内接する正n角形の周の長さを直径2でわると、円周率に近い数値が出てくるはずだ。
そうして、そのnの値を大きくしていけば、その正n角形はどんどん円に近い図形となっていき、
周の長さ÷直径が、どんどん円周率に漸近していくのではないか?

と思って考えたのが、下の図である。

110531_0224~0001


残念ながら文系なので数3は履修しておらず、したがって極限は扱えない。

lim(x→∞) 〔x√{2-2cos(360/x)°}〕/2 

この値は本当にπとなるのだろうか。

雨でうす

日曜日、そしてバイトも無いという久しぶりの完全休養の一日。
つもりにつもった些末ごとを片付け、平日の準備をする。
もし雨が降っていなかったら、ちょっと銭湯にでも出かけてみたい、そんな日であった。

鹿児島(温泉天国である)に帰省したら、どっか鄙びた温泉街を巡ってみるのも悪くない。
温泉に入り、ぼーっとほてった身体で風呂上がりのコーヒー牛乳を楽しむ。
けど、どちらかといえば温泉より、温泉街が好きなのかもしれない。
温泉街の風情は格別なものがある、と僕は思っている。
一人でぷらぷら巡ってみるのも面白そうだ。

こういう憧れも、鹿児島にいた頃に僕が「地下鉄」に抱いていたようなものなのだろうが。

それにしても、鹿児島にいたときは東京に焦がれていたくせに、東京に来たら鹿児島に帰省することを夢見て頑張っているというのも、また妙な話だ。
ふるさとはとおきにありておもふもの とは至言だなと思う。

ともかくも雨だ。

驚愕

雨が降っている。
東京に来て初めての梅雨だ。


雨言葉

やはり、自分のミスで他人が怒られるというものは精神的にくるもので。
自分が怒鳴られたり、殴られたりした方が、どんなに気が楽だろうか?と思う。

自分は部活をしたり、なんらかのチームプレイ系の習い事をしていたわけでもないので、「自分のミスが連帯責任となる」という経験が欠けているのだな。

自分のミスが自分の中に終始するなんてのは、まだまだ甘い方なのだ。

凹んでいる時間も亡く、「すみません」も甘え。
これからもっと辛かったり、情けなかったりする経験が怒濤のように襲ってくるはずである。

そういう状況においては、仕事を早く覚えることと、ミスをしでかす本質的で潜在的な要因を少しでも変えていくように意識することだけだ、と思った雨の一日。

隠された視線

受験勉強とはどのような意味を持つのだろう?
僕の人生にとって受験勉強とはどのような意義があったのだろう?

どこから手をつけて良いか分からないテーマだけど・・・

自分の場合は中学生の頃から、合算して実に5年の月日を受験生という枠組みの中で過ごしてきた。
幸いなことに勉強だけは出来た方なので、他人が持つ以上には受験に対する疑問を抱くことはなかったように思える。

僕は元来、勉強が好きだった。
幼い頃親が買い与えてくれた図鑑の影響もあるかもしれないが、小学生のころは元素を暗記したり(今でもサマリウムまでは諳んじることが出来る)、世界地図を書いたり(今でも残ってる)と、知的好奇心は旺盛な子供であった。

今思うに、その頃は直感的に勉強というものの面白さを理解していたのかもしれない。
わからないことが、夜が明けていくように開けていく感覚。
こういう感覚こそをカタルシスと呼ぶのかもしれない。

それがいつからだろうか、中学3年生の頃だろうか、高校に入ってからだろうか、東大を目指し始めてからであろうか…
今だからこそわかることだが、僕の中での「勉強」というのはゆっくりと変容を遂げていったように思う。
いつからか勉強は受験勉強と同義となり、決められた教科・決められた問題をパターン化して解くこと、そして生活の中でどれだけの時間を受験勉強に注げるか、それらこそが義となっていった。

その証拠に、上に挙げた期間、自分は受験勉強以外の勉強を一切していない。
しないというより、できないのだ。あの強迫観念はなんだったのだろう?

自分でも気づかないうちに、勉強と受験勉強が同化し、しかもそれを「好きだ」と思い込んでいた。
思い込んでいた、という言葉を使った理由をわざわざ説明する必要はないだろう。

結局の所、そうやって自分の本音・本質に気づいてやれなかったことが、過ちを犯す原因となってしまったのだろう。

大学に入ってからの目標の、数少ないもののうちの一つは、何度か書いたとおりである。
「本当に好きだった勉強を取り戻すこと」
且つ、今の自分はその道を着実に達しようとしていると断言できる。

(勉強と受験勉強が同化している、僕は僕の本音を見まいとしている、という視点から、このブログに多数含まれている受験関連の記事を読んでみるとどんな感じになるのだろう?まぁ自分はやらないが)



しかしここで、もう一つの大事な側面もまた明記しておかねばなるまい。

それは、「受験勉強によって本来の勉強そのものに必要な素養も培われた」というものである。
半ば強制的な勉強が、僕の読む力や書く力を、少なくとも昔よりは格段に成長させてくれたことは明らかだし、学問に対する興味そのものも引き上げてくれたこともまた確かだ。

世界史をやっていなければ、ラテン語になんか興味を持たなかっただろう。
小説や講義に登場するものを、世界史的な観点から捉えるなんて芸当は到底出来なかったであろう。
そういう意味では、数学も、英語も、国語も、生物も、同じである。

目的が「夜明け」でなく「受験」の勉強は、確かに無意味に見えるかもしれない。
しかしこと自分自身に関しては、決して学歴や地位、資産のために受験勉強をしていたわけではない。
ハナからそういうものには興味が無い。東大を目指していた人間がいう台詞ではないのかもしれないが(くどいようだが、好きな女の子と仲の良い友達が目指していたから、自分も目指していたというだけのことである。その後に飛躍的に成績が上昇したのは事実だ)。

受験勉強というものは、「受験という目的」という仮面をかぶった、勉強のための勉強なのである。

確かに、「受験勉強はつまらない」と捉える人間が大多数であろう。
しかし結果的には、それこそ「楽しい勉強」の為にさえ、充分に資するものを与えてくれるものでもある。

ここで断っておかなければなるまいが、「受験勉強をしないと真の勉強の面白さなんて理解できっこないよ」と言っているわけではないし、もちろん「受験勉強をしない人間はゴミだ」などと言っているわけでもない(受験勉強しない受験生はアレだが)。


でも「学ぶこと」の為に必要な素養を効率的に培ってくれる、一つの手段であるということだけは言っておきたい。



受験勉強に充分に向き合えず、受験に何度も失敗した人間が、受験勉強の意義を肯定的に説明するなど、自分でもおこがましく説得力のないことだと思っている。
しかしながら受験勉強を否定されると、大げさかもしれないが、どことなく親を否定されたような気分になる。
たとえもし受験勉強というものが、学問に対する冒涜であるとしても。

誰も君のことなんて知らない

大学が始まってはや一週間。
なんだかんだ言って朝ちゃんと起きられているので、出だしは好調なのではないでしょうか。

具体的な夢や目標があろうとなかろうと、日常はせわしなく動いていくもので。
暇であれ、忙であれ、それぞれの辛さがある、というか。

日常を生きていくというのは辛いものです。
個人的には朝起きるときが一番きついと思います。睡眠欲に打ち克って、自分にむち打って、馬車馬のような気分になりながら駅まであくせく走っていく。
朝起きるたびに、ああなんて自分は不幸な人間なんだとか思ってます(とくに快い夢を見ていた時はなおさら)。
寝たいときに好きなだけ眠れるというのは、贅沢ですし幸せなことでもあります。あまりにそれが続くと、芯から腐っていくような気分という代償が生じますが。

けれどおそらく、時間が経てばそれなりにノウハウを獲得して、落ち着くところに落ち着くのではないでしょうか。

さて、こうした日常を生き抜くために、自分なりに課題を課してみました。
それは以下の通りです。

①睡眠をしっかり取ること
②体力作りを続けていくこと
③しっかりとした食事を取ること


①については可もなく不可もなくと言ったところ。
②については自分でも手放しに褒めて良いくらい守れています。
③については絶望的に出来ていません。とんだ偏食家です。

せめて野菜を取ろう、そして可能な限り睡眠時間を適切に取ろう…というのが今後の課題ですかね
といって、こんな時間にこんな記事を書いてて説得力も何もないですが。

人間というのは所詮動物なので、身体だけは常に丈夫に保たれておかなければいけないということに最近気がつきました。
逆に言えばこれらを遵守すれば、なんとかなってしまうのではないかなと。

浪人生の頃の自分って、つねに努力できるための「思考方法」の開発に向かっていたという傾向があったように思います。
頭でっかちの負のスパイラルとでも言いましょうか。
考え方というのもある面では大切かもしれませんが、多分それほどにしか大切でもないのかもしれません。

健全な精神は健全な身体に宿る、とは至言ですね。


プエッラ

ついに大学が始まった。
バイトも並行して始まっているので、一気に日常が目まぐるしく動き出した。
疲れているのは否めないが、充実した生活が送れているのが嬉しい。


ラテン語の授業があった。

ラテン語は周知の通り難しい、というより面倒臭い言語である。と思う。
名詞の格変化だけで6種類ある。動詞もぐちゃぐちゃに変化する。

しかしラテン語の初歩の初歩を学び始めて一番びっくりしたのは、ラテン語は基本的に語順が自由だと言うことである。
一般には動詞が最後に来るというのが、日本語っぽいと言えなくもない。

ということはmemento mori(死を記憶せよ)というのは本来はmori mementoの方が基本形なのかな?と思ったりした(mementoが動詞なので)。

イタリア語もそれなりに面白かったが、ラテン語の持つ魅力というのが自分の中では別格になりつつある。
この先どうなるかはわからない、あまりの難しさに投げ出してしまうかもしれない…が、勉強を続けていきたいと今のところは思っている。


言語にはそれぞれの難しさや易しさがあるということもわかった。
イタリア語の名詞には性別があり、語尾そのものが変化する。形容詞まで変化する。だが日本人でも簡単に発音出来るし、発音は綴り通りだ。
英語は語順がしっかりしているし、綴りだけでは正確な発音がわからないが、性別とか格変化などの煩わしさはない。
ラテン語はぐちゃぐちゃに変化しまくるが語順はきわめて自由だ。

…といっても上の3語はいずれもラテン語の系列だけど…


それと、ラテン語を学ぶ上では本来はギリシャ語も並行して学んでいった方が理解が深まるのかな?とも思う。
ラテン語を教えてくださる先生はギリシャ語の先生でもある。ゆえに両語の対応を頻繁に説明される。
ただしギリシャ語の授業はバイトの都合上取れなかった(大学生の本業は授業であるはずなのにね)ので、多分来年とることになろうかと思う。
いざとなれば教えてくれる人もいるからね!

それにしても自分は英語に対しては未だに苦手意識を抱いているし、語学の才能はないと自負しているのだが、ネット・現実含めて周りには語学に精通した人がいっぱい居たりする。
そんななか授業の殆どが語学関係というのは、ある種の運命なのかなと感じている。


ラテン語の授業の際に、先生が「いちいちググってたら話にならない、使う知識は覚えて、いつでもすぐに引っ張り出せるようにしとかないとダメですよ」とおっしゃった。
バイトでなかなか料理が覚えられない今の自分にはより響く言葉だったが、自分が以前言いたかったことはこういうことなのだと思う。
グーグルで人間はより知の集結に向かうと言われているが、頭が良くなるのはグーグルの方で、当の人間は逆に馬鹿になっていくのではないだろうか。
英文を読む際に、「I」とはどういう意味かとか、「am」とはどういう意味かとか一々調べていたら話にならないということだ。(
(まぁ「am」がどういう意味を持つかという話題はそれなりに深い気もするが…)

調べるのは最小限に留めておかなければならない。
頼っていてはダメだ、自分の支配下に置かなければ。



そんなわけで、ラテン語は本来の勉強の楽しさを教えてくれそうだ。

勉強が受験勉強に気づかぬうちに転化され、嫌いなものを好きだと思い込み続けた結果の歪みで何度も同じ過ちを繰り返した。
本当に好きだった勉強を大学で取り戻すこと。それが大学で学ぶうえでの目標の一つであった。
そしてラテン語はその端緒を開いてくれそうな気がしている。



ハワイアンでイタリアンな

偶然の一言で決まった、人生初のバイトがついに始まった。
厨房に入る前は滅茶苦茶緊張したけど、やさしい先輩方のおかげで充実できたように思う。
全然仕事を覚えていないので、これからちゃんと頑張ろう。とおもいますた

スパゲッティとたらこスパゲッティが同義である僕にとって、ペペロンチーノとはどういうものなのか?とか、カルボナーラとはどういうものなのか?とか、まずその大前提がわかっていないので料理が覚えられない。きちんと勉強しなければね


まーあと明日からいよいよ講義が始まります。
最初はイタリア語の授業、ということで。
僕にはちょっとしたささやかな夢があるのですが、その一歩がやっと踏み出せるのだなぁ…と
ていうかまだ教科書買ってないっていうね

今日も今日とて秋葉原を旅してきました。
というのも「secret base ~君がくれたもの~(10years after ver.)」を買いにはせ参じたわけですけどもね
そしてオノデンで3000円級のイヤホンを買ったりとか、AKB48のファンとおぼしき人たちの群れに混じって一人でたこ焼きを食べたりとか。
そういう感じの贅沢な日常です

そしてお金が足りない
だれか僕に危険なバイトを紹介してください、マグロ漁とか治験とか

まぁそんなところですかね!

Carpe diem

ふと、温かい缶コーヒーが飲みたくなって、散歩に出かけた。

玄関を出た後、iPodのイヤホンを装着しようとしたら、左側が断線していたのか聞こえなくなってしまっていた。
仕方がないのでコンビニで新しいイヤホンも買うことにした。

木々が空を覆う道路は靄がかかっていて、ちょっとした異世界に居るような気になって嬉しくなった。

コンビニにはやる気の無さそうなバイトの店員しかいなかった。
店を出てすぐにイヤホンを装着した。

そしてその音質はびっくりするくらい糞だった。

出鼻をくじかれたような気がしつつ、近くのベンチに座ってぼーっと缶コーヒーを飲んだ。
温かいコーヒーを雰囲気と共に味わうには、若干季節が過ぎてしまっていたようだ。

仕方がないので誰もいない駅まで歩くことにした。
静謐な住宅街を縫うようにして歩くのも一興かと思ったが、結局耳が寂しくなったので件の糞音質イヤホンをつけた。

誰もいない、と思われた駅には二人組のギャルがいて、駅前で奇妙なポーズをとって写真を撮っていた。
僕は見て見ぬふりをしつつ、踏切に立った。
信号だけが光っている。レールが見えないほど夜は更けている。
このままレールを伝って歩いて行きたい衝動に駆られたが、それはさすがにしなかった。

走ることについて

人はなぜ夜の街を走るのだろうか?


かくいう問いを呈する自分もまた夜の街を走る人間だ。

ちなみに自分がジョギングを始めたきっかけは、中学校時代にさかのぼる。
当時空手をやっていた自分は、大会にエントリーしたあとに体重制限を少し越える体重を有していることに気づいたのだ。
我ながら間抜けである

そのためどうしてもダイエットということが必要となり、体重を落とす手っ取り早くかつ確実な方法としてジョギングを選んだ。
ジョギングに関するノウハウは(たとえば走り始めてから20分経過しないと脂肪が燃え始めないとか)、その当時に身につけた。

結局体重はパスしたが一回戦で負けた。

その後も、やせるためだったり、純粋に体力作りのためだったりで、ジョギング(散歩やランニングも含むけど)を継続したり、途絶したりを繰り返した。
後者の期間の方が圧倒的に長いような気がしないでもないが。

そんなこんなで自分は今も東京を走っている。



こっちに来て走り始めてから2週間が経過しようとしている。体重が3kg減った。
とは言ってももちろん毎日走っているわけではない。週4走ることができたらそれでノルマは達成である。

自分の場合は、基本的に40分走れればOKということにしている。
もし足が痛いとか疲れたとかだるいとか糖が切れたとかだるいとかで、40分に達しなかった場合は、散歩で補うことにしている。

自分のペースで1時間走った場合は、おそらく8km~10kmほど走っていると推定できる。
最近は1時間走っている。それができるだけの体力も膂力も回復してきた。
もちろんこんな距離は毎日は走れない。まだ。

ジョギングに限らず、「2週間」というのはブランクから元に戻るための基本的な日数と自分は捉えている。

体力膂力が回復したら、あとはbotのようにひたすら継続するだけである。
ひたすら、黙々と走る。
実はここからが一番難しいところでもある。目に見えて結果が出てこなくなるからだ。
維持することの重圧、こんな行為は無意味ではないかという疑念。肉体的な困難に代わって、今度はあらゆる精神的な困難が襲ってくる。

もちろんジョギングだけでなく、筋トレだったりゆるやかな食事制限だったりもしているが、今回は「走ること」に焦点を絞って話したいと思う。


人はなぜ走るのだろうか。

結構な深夜帯でも、走っている人は多い。
ペースがかなり速い若者が居る。おそらく部活の練習だろう。
肥満体型のおじさんが走っている。おそらくメタボ対策だろう。
そんな中で、自分はおそらく一番遅いペースで走っているが、残り2kmくらいになると誰よりも速いペースで走りだす。
肺は死にそうになり、喉は血の味がする。
それでもペースは速まる一方だ。

そんなとき、自分が「飛んでる」ような感覚がすることがあるのだ。




現代に信仰はあるのだろうか。
信仰を持たない人間は、何にすがって生きているのだろうか。

他人や他の何かにすがって生きている人間を目にしたとき、それを非難する人種が居る。

しかしおそらく、彼らは知らないのだ。
自分の中に居場所を見つけ、自分の中にすがるべきよすがを創り出すことが、どれほど困難なことなのかを。

twitterなどを見ていてもそうだろう。
鬱なつぶやきを垂れ流すひとがどれほど多いことか。


まだ高校生のころ、憑かれたように勉強に没頭している同級生が何人かいた。
今ならなぜその人たちがそうだったのかわかるような気がする。

彼女らは勉強という努力を通じて、自分の中に現実を踏み抜くための強い柱を創っていたのだと。


努力とは手段である。
ゆえに、目標無き努力は存在し得ない。

しかし、努力という手段を目的化するという禁忌を犯すことで、人は自身の中に何かを見出そうとしているのだな、と思うようになった。

彼女らに確固たる長期的目標があったのだろうか?
努力を重ねることで、自分を自分にしようとしていたのだろうと、僕は考えている。もちろんそれが正しいとは限らないが。



自分は直感的に理解していたのかもしれない。
凶悪な現実に立ち向かい、弱い自分と訣別するためには、強い身体が必要なのだと。

もちろんこれは仮説でしかない。
ゆえに「これから」を通じて、検証していくしかない。

だが僕に長期的な努力が向いていない最大の要因は、もしかしたら全てを捧げる努力によって体力を養うだけの時間がとれなくなるから、なのかもしれない。

走るという行為そのものもまた、現実を生きるという艱難を象徴しているではないか。

走ることそのものを通じて、走ることから得られる産物を通じて、現実を踏み抜いていくための支えを自分の中に創出する。
朝起きたときに感じる泣き出したくなるような鬱に、不安に、恐怖に打ち克つための支え。

それが信仰のない世界を生きる人間が見出しうる救いとなり得るのかもしれない。


もちろん走ることで現実が楽に生きることが出来れば、誰も苦労はしないだろう。
だが少なくとも自分の場合に限って言えば、走ることで何かしらの力が湧いてくるのを感じている。

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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