リアルめんまを探そうの会

件の「あの花」のエンディング曲、「secret base~君がくれたもの」のCDが今日発売日を迎えたということを今日知り、早速買いに行こうとした



のだが



「予約必須だろバロスwwwwwwwwwwwwwwww」

「発売日は一日前倒しになってるんだぜwwwwww情弱乙wwwwwwwwwwwwww」



などという某巨大電子掲示板の書き込みをみて半ば絶望しつつ、特典であるめんまポスターを探す旅に出かけたのであった。


特典ポスターというのは、初回限定版を特定の店舗で買ったときに付いてくるもので(※数量に限りがございます)、T●UTAYAで購入した場合は、めんまというそれはそれはかわいいキャラのポスターがついてくるのです。


家の近くにあるTSUTAY●を検索し、朝ご飯も食べずに出発。

ていうか米炊いてなかった。


東京の距離感はいまいちつかめず、それも相まって積極的に散歩や走りに出かけたりしているのだが、とりあえず「付近の」とはいえ自転車で行っても遠かった。


今日は風が強かったし。チャリ倒れそうになるし。

まぁ強風で後に僥倖に預かることになるのだが…それはおいといて。


まず最初の店舗。家から推定7kmほどの距離。

しかしもう規模的になさそうなのね。


仕方なくそこからさらに推定7kmほどの店舗に向かう。

が、そもそもCDすら存在しない。



そう、思えばあのレスを見たとき気づいておけば良かったのだ。

もう予約の時点で完売していると。あたしって、ほんとバカ



朝ご飯をとっていなかったため当然ペダルを漕ぐ足に力が入らず、コンビニによってパンケーキのようなものを買った。甘いものがこんなにおいしいとは思わなかった。


2店舗にふられたので、でかい店舗に行くしかない。

というわけで電車に乗って新宿に向かったのだった。

もはや最後に残った道標である。





しかし新宿TSU●AYAには無かった!!!!




店員さんに聞いたら「予約完売です☆」と言われて魔女化しそうでした。もう何も怖くない。


90%諦めつつ上野の店舗にも行ってみたが、在庫は無かったようだ。




いやぁ舐めてました。平野綾にドヤされるほどなめてましたわー

という訳でつらつら誰得な写メでもうpしていきましょうかね



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ルミネ前。魔女化しつつ撮った。
日常は結構好きです


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上野のせごどん。

そのあと無駄に歩いて秋葉原までいきました。なーんもすることないのに。(帰りがちょっと楽になるくらいかな)


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なぜか浜松町で降りて東京タワーを見に。

このアングルはちょっとエロい。



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まみ穴。

もう何も怖(ry




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六本木は外国人がめちゃくちゃ多かった。

角からいきなりボブサップみたいな縦も横も圧倒的にでかい黒人が出てきたときはびびりましたね。格闘家かアメフト選手かって感じの



まあそんな感じで、六本木から新宿に帰りましたとさ。

特典が残ってるといいなぁ…

いのせんとすたーたー

もうホントね無知な自分が嫌になるんだよね

ああああああああああああああああ


くそ苛つくわホント意味わかんない意味わかんない意味わかんない意味わかんない意味わかんない

ふざけんあ


わかんないことしかなくてその度グーグル先生に頼ってさ
それを自分の知識のようにみせるとかホントうんこだよな俺は

ばかばかしくて笑えてくるわ

くそ 勉強してやるからな ちくしょう

ロゴェ

ものそろじー

一人でいるときより、複数人といるときの方が孤独を感じる。
見知らぬ複数人と居るときより、友達複数人と居るときの方が孤独を感じる。

そういうときには本気で「何かを努力」しなければな、と思う。
そうすることで何か自分の心の中に確固たる居場所ができるはずだからだ。

しかしこれは妙なのだ。
なぜならば努力が先立つことは本来ありえないからである。

努力とは何かを達成するための手段であるから、目標が生じない限り努力も生じ得ない。
だから、「何かを」、つまり目標が決まっていない状況でありながら、努力を渇望するというのは矛盾している。
それは努力ではなく「努力」だ。

僕はよく、「君は一人で居てもなんともなさそうだよね」と言われる。
実際の所そうなのかもしれない。もはや一人で居ることに喜びを感じているのかもしれない。
その方が孤独を感じずに済むからである。

【バレ注】まどか最終回

ええ、というわけで魔法少女まどか☆マギカがとうとう終わってしまいましたな
見てない人は25日あたりニコニコ動画で公式配信があるので、それまではネタバレ注意です

















面白いアニメというのは、過程が面白いのと、過程はグダっててもクライマックスが面白いのと二つあると思うんですね
まどかの場合は最後はどうなるのだろうというハラハラ感や謎解き的面白さ、そしてそれに付随する音楽や演出が素晴らしかったと思います


まどかを語る際によく言われるのは、「展開が新しい」というものですが、実は展開そのものは十分に予想の範囲内だったような気がします。

まどかの真に素晴らしいところは、そこに至るまでの「魅せ方」にあります。

「予想されていたコースに、300km/hの豪速球を投げ込まれた」
という譬えはまさに言い得て妙ですね


ともあれ過程があまりにも面白すぎて、最終話に若干の不満が残るのは仕方のないことかと。

しかしながら、最終回で全てを台無しにする作品があふれているなかで、まどかは遙かに上手く纏めたほうだと思いますね。
あれしかなかった、…それは消極的な賞賛ですが。

それにしてもほむらが魔女化しなくて本当に良かった…



今季は今季で「あの花」というスーパーエース級のアニメがありますし
シュタインズゲートも電波女も毎回すごく楽しみです

関東在住の方はお気づきかもしれませんがこの3作品はすべて木曜日にあるんですね
ちょっとは水曜日に回してもいいだろ…!!

いろはは作画が素晴らしい。ただ2クールだし、3話の様子をみるにグダグダは覚悟しておかないといけないかなと思います
最終回は十分に期待できるかな

犬日とロッテ、Aチャンはブヒ枠

日常はなんだかんだで面白い。

あとはかんなぎとかGOSICKとか。今季見てるのはそれくらいですかね




ともあれ、これほどの史上屈指の別格アニメを見ることが出来て本当に良かった。
もはや感謝の域です

茶をしばく

秋葉原へ行ってきた。

いつもは何かを買おうと思っていながら結局なにも買わずに帰るので、今日はいっそ何も買わずにただ散歩しようと決めて出かけた。

新宿駅からは総武線で一本だ。
ただ中央線の快速を使って御茶ノ水駅で乗り換えれば早いし、その駅で降りて歩いても5分程で着く。


タペストリー(なんか壁に掛けるやつ)がかねがね欲しかったのだが、アニメイトに行ったら新発売でまどか☆マギカのタペストリーが売っていた。
結局購入した。ちなみにほむら版を買った。
キャンペーン中ということでクリアカードも付いてきた。やはりほむらを選んだ。

アニメイトを出た後、いろんな店を巡ったが、
やはりゲームに興味が無い自分としては入る店も限定される。


ラジオ会館がもうすぐ閉館するということで、夜ぴかぴか光ってる会館の写真を記念に撮ろうかと思った。
しかし時刻は3時を回っていない。
とりあえず散歩することにした。

神保町という街には楽器屋がたくさんあり、小学校の時分からギターを弾いている自分としては心が躍る街である。
ただギターそれ自体にはあまり詳しくない。テレキャスターとストラトキャスターの区別すら付かない。

エレキギターも殆ど弾いたことはないのだが、黒のレスポールとZO-3はいつか購入しようと思っている。

漫然ととある楽器屋に入り、ZO-3(ちなみにスピーカーが内蔵されてて、アンプが必要ないという面白いギターである)を眺めていると、店員が声をかけてきた。

僕は持ち合わせがないということを仄めかしつつ、いろいろ話した。
そのとき無性にギターを弾きたくなってきた。


やはり時間が大いに余ってしまったので、喫茶店に入って読みさしの「カラマーゾフの兄弟」でも読み進めようと思った。
カラマーゾフの兄弟とは、文学史上屈指の名作と言われているほどの小説であるが、まだ読んだことがなかった(1800ページ以上あるし)
結局2時間ほど、ロイヤルミルクティー一杯で粘り、100ページまで読んだ。


外が暗くなってきたのを確認してから、再び秋葉原へ繰り出した。
しかし節電の影響もあって街全体が暗く、肝心のラジオ会館も点灯しなかった。



こういう大都会を歩いていると、去年僕が死ぬ思いで勉強した対価として、この大都会を享受しても良いのかな…と思った。
過去の自分に、君が一番望んでいたことは、今まさにこうして叶っているよと言いたくなった。


夜、光っている「JR秋葉原駅」という駅名が、何より綺麗だった。

爆発的奔流

ここでディスプレイに向かってひたすら文章を書くという作業はどういう意味を持っているのだろうか。
ブログは論文ではない。
もし文章に何らかの説得力を持たせようと望むのならば、それなりの方法論が必要だ。
主語述語を明確にし(必ずしも顕在化する必要は無い)、譲歩を上手く用い、抽象論と具体論を使い分ける。
誰にでも明らかであるスタート地点から、論理的に結論を導き出す。
これだけで説得力というのは格段に増す。

ここで大切なのは「語彙力」は必ずしも必要ではないということだ。
得てして語彙力というものは、自分を頭が良い人間だと見せるために用いられる傾向がある。
本当に頭の良い人間が書く文章は、平易な語彙で書かれてあり、誰にでもわかりやすいものだ。
頭が良いふりをしている人間の書く文章は、むやみに難しい語彙が不適切に、みだりに、ぐっちゃぐちゃに使われているものだ。
背伸びした文章は好きではない。
僕は自身が本当に頭の良い人間ではないということは誰より痛感しているが(謙遜の意味合いは全くない、と、こう書いてしまうのも傲慢だが)、そういう文章を見抜くだけの能力はあるつもりだ。

このブログで書かれている文章というのは、そういう説得力を持たせようという努力の為されていないものである。
論理のスタート地点から一般的でないことの方が圧倒的に多かったりするし、具体例を挙げろと言われると言葉に窮するような抽象論ばかりだし、具体的な反例をまるで想定していない生(き)の意見ばかりだったりする。
要するにこれは一介の学生の思考の軌跡にすぎない。

ここで一つ、「考え方」を紹介したい。
何か主張したい意見があるとしよう。
そしたらそれに対して考えられるあらゆる反論を想定する。
そしてその反論を一つ一つ打ち破っていく。
そうすることで、初めの意見があらゆる反論を打ち破るより堅固な意見へと進化したり、その反論を統合した別な意見に転生するかもしれないし、または完全に破綻してしまう。
これを弁証法と呼ぶそうだ。浪人生の頃に教えてもらった思考の方法論である。

最近感じるのはその思考が上辺だけのもの、薄っぺらいものだということだ。
どの当たりが薄っぺらいのか、それを説明するのは難しい。
だが端的に言うことはできる。
「僕が考える全てのことは、全て仮説でしかない」
つまりそれらのことを裏付けるだけの知識が絶対的に足りていないのだ。

例えば「学問を役に立つ・立たないで2分する今の風潮は間違っている」、という意見を提示したとしよう。
それに対して想定される反論の一つはこうだ。
「人間の生活に寄与させる、つまり人間に役立たせるために、学問が発達してきたという側面もある。ゆえに役に立つ学問が優先されるのは当然のことだ」
この反論自体が見当外れなものかもしれないが、それは大目に見て貰いたい。
問題なのはこの反論に対して、「学問とは何か?」という定義を明確にしなければならないということであり、そしてそれをできるだけの学識が、自分に備わっていないということである。

学問とは何であろうか?
ある人にとっては人間に貢献するツールであろうし、ある人にとっては知的好奇心を満たす物であろう。邪魔物の一言で片付ける人も多いだろう。
定義が人によってある程度ぶれることは仕方がないが、学問の歴史の系譜を辿って、より納得のいく定義ができそうなものだ。
しかしその「学問の歴史」などについて、僕は何も知らない。

何かを論じるとき、それに体する知識というのは本来必要不可欠でなければならない。
西洋文学を論じるなら聖書やキリスト教の知識が無いと話にならないし、恋愛を論じるなら性交の経験が無いと話にならないのと同じことである。
だが僕は何も知らない。
長い長い受験生活の中で得た物は、思考するノウハウなのであって、知識の絶対量ではない。

ここまで書いたが、先の「二分法は間違ってる云々」という自分の意見は、ほぼ100パーセント正しいという自信がある。
例えばラテン語学は超一流の学問である。(ただしこれも僕の勝手な推測だ)
しかしラテン語が一体どう人間の生活に直接的に役立つだろうか?
もちろん、ラテン語学を学ぶことでひいては日本語にたいする体系的な観照を身につけることができ云々と意義づけて、「間接的に」役立つと言うことも出来るかもしれない。
しかしこういう学問をそう定義づけてしまうのは、非常に薄っぺらいと感じてしまう。
学問とはそんなに浅いものなのだろうか?
ただそれを証明できるだけの知識は持ち合わせていない。
全てが経験則であり、全てが直感である。


他人に説得力を持たないのは仕方がないとして、自分に説得力を持たないというのは、なんとも歯がゆいことだ。


畢竟、こういった思考のノウハウなどというものは、知識という絶対的で圧倒的な「パワー」の前には消し飛んでいく存在である。
受験勉強にはそれなりの意義があるが、それなりの意義しかない。
僕が大学生活の中でやろうと思ったことは、こうして導かれていった。

メメント・モリ

ふと机の上に置いていた腕時計を見たら、針が止まっていた。

百貨店的なところで3000円で買った代物だが、4年ほど前から使っていたものだ。
この腕時計と一緒に、センター試験を受け、大学受験を戦った。何度も(笑)

そろそろ電池が切れる頃合いかと思いつつ、受験本番で止まってくれなくて良かった。

外に出不精な僕は、この腕時計を手首に填めることで気合いを入れていた。
甘えた自分と今日一日は訣別しようという意味合いもあったかもしれない。
朝、この腕時計をセットすることで、なんか頑張れそうな気がしたものだ。


いざこうして止まってみると、寂しい気持ちで一杯だ。
電池を替えたいが、あけ口が無い。
修理をすべきだろうか、それとも新しいのを買うべきだろうか。


時計という物は普通、だんだん時間が遅れてきて、そして針が止まる、そういう物だとおもっていたけど、この腕時計は最後まで(値段の割にはびっくりするほど)正確に時を刻み、いつの間にか死んでいた。


11・春・初

アニメ評論なんて究極の自己満足です、偉い人にはそれがわからんのですよ



――――――――――――

僕がわざわざ東京に出てきた真の理由、それはアニメ(特に深夜アニメ)が豊富にあるからであった。

だって地上波限定で鹿児島は2本、東京は31本とかもうね
このアニメ格差はイタリアの南北格差より由々しきものである。

というわけで僕はこのアニメ天国を絶賛享受中なのであった。


この膨大な数のアニメに目を通すために、僕は今季(11年春)アニメをほぼ全てリストアップし、1話を見てから5段階で評価をつけた。

「絶対全話見る」「極力全話見る」「一応見るが見逃してもまぁいいか」「見なくても大丈夫」「見ない」の5つだ。


そんなこんなで◎、すなわち「絶対全話見る」がついた今季の3つのアニメについてちょっと書きたい。



花咲くいろは

話も面白そうだったし、作画も綺麗だった。
ただ2話の最後があんな感じだったのでどうなることやら。ちょっと不安

シュタインズ・ゲート

冒頭の厨2的語りで嫌になったけど、よく見直したら凄く面白そうなアニメだった
原作のことを何一つ知らないので展開が読めない面白さがある。頭を使う感じ。
果たして全話見終わったところで理解できるだろうか

あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない。

通称「あの花」、これが今季一番の期待。心が抉られるようなアニメだった。
作画が素晴らしかったし、象徴的に夏が描かれていた。そして展開もハッとさせるものがあった。
雰囲気、ストーリーの両面から良かった。
ただ設定はありがちなので、今後の展開次第で最終的評価が大きく変わりそう



基本的に画面をぼーっと見ているのは苦手なので、よほど面白くないと絶対全話見るぞということにはならなかったりする。

あとは「かんなぎ(再放送)」、「電波女と青春男」も面白かった。


2ちゃんねるとか見てても、大体同じ感じでは無かったでしょうか?と思ったり

あたしって、ほんとバカ

今朝も散歩してきた。
「ちょっとコンビニ行ってくる」的な、ロングコートとジャージというダサいことこの上ない服装で出かけた。
たこ焼きにはこれくらいでちょうどいいのだ。

イヤホンを耳に装着し、早朝の清々しい空気を吸いつつ、軽やかに歩き出す。


ここまでは良かった。


一時間ほど徘徊し、心地よい疲労感を覚えながら、家路につく。
これがいつものパターン、のはずだったのだが…


我が家からは遠くに謎の白い煙突が見える。
いつか行ってみようと思っていたのだが、適当に歩いてたら近くに見えてきたので、どうせなら再接近してやろうと思った。

今思うに、これが間違いの発端だった。


謎の白い煙突の正体そのものはあっさり突き止めることが出来た。
清掃工場のものだった。

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しかしここに至った時点で結構な距離を歩いていた。
とはいっても来た道を戻るというのは本当につまらない。

仕方がないので大回りして戻ろうと考えた。


これが決定的に間違いを導くこととなった…


後でグーグルマップをみる限りでは、一つ手前の大通りを選んでいれば良かったのだが
なぜか井の頭恩賜公園に着いてしまった。


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桜が綺麗だなぁ(死)

無数の桜の花びらが水面を流れる様子を「花筏(はないかだ)」と呼ぶらしいですが、これは花筏と呼べるのだろうか?
流れは淀んでいたけど、これはこれで美しかった。


しかしそれにしても、コンビニ行ってくる的ファショーンできっしょうじを歩くというのは些か恥ずかしいものがあった。
きっしょうじはお洒落な街である。この井の頭公園もきっしょうじにある。
きっしょうじのきっしょうじたる所以はきっしょうじ民のきっしょうじ的お洒落センス即ちきっしょうじイズムにあるのだときっしょうじに再度訪れたぼくはきっしょうじ民の人混みを歩きながらそう思った。


東京ではたとえ道に迷ったとしても、どっかの駅にさえたどり着けば、そこから都内を走る鉄道網に身をゆだねることが出来て問題解決!なのだが…

まだ(その時点では)元気だった僕は電車に乗ったら負けかなと思ってたので、また歩くことにした。

とにかく甲州街道に出れば良いのである。


しかしその直後から腰が痛み始める。
去年の夏にぎっくり腰を発症してしまって以降、腰がよくきしむようになってしまっていたのだ。


適当にぜぇぜぇいいながら歩いていると玉川上水にでた。


玉川上水といえばなんといっても太宰治の入水地として知られている。
入水地が近くにあると案内表示で知って、そこまでちょっと歩くことにした。

しかしどこにあるのか分からないまま三鷹駅に着いてしまった。

多分どこかで通り過ぎたのだろう。
しかしこの小さい水路に飛び込んで死ぬものなのか?

太宰治といえば、走れメロスと人間失格くらいしか読んだことはないが、どちらも良い作品である。



そこから疲労も加速度的に増え始め、僕は泳ぐのを止めたら死んでしまうマグロのごとく、高く昇った陽に照らし出された見知らぬ街を凄まじい形相で驀進した。


結局それからなお2時間を費やして、やっと我が家へたどり着くことが出来た。
足には豆がたくさん出来た。


総計すると4時間弱ひたすら歩いていたことになり、時速6.0キロで歩くという僕の特技というか特性を鑑みるに、多分20キロ以上歩いたことになるだろう。


見知らぬ土地だからこそ為せる業。

カッレ

東京の朝は早い。鹿児島に住んでいたのでよりそう感じる。

大学が5月から始まるので、4月は基本的に暇で、そういう暇があると確実に昼夜が逆転した生活を送ってしまう僕は、やはり昼夜が逆転した生活を送っている。

しかし4時30分頃になると空が白みだすのには驚いた。
僕はあの、闇にうっすら紫色の光が差し込む一連の時間帯(薄明というらしい)が好きなので、散歩に出かけることにした。

薄明という言葉は日の出にも日の入りにも用いられるようで、
昔の日本では明け方を「暁、東雲、曙」というように細かく区分していたらしい。
そういう古人の感性は非常に美しいと思う。


朝と夜の境界が薄れている…ククク…
などと厨二病を発症させた僕はいそいそと出発した。

自転車でほっつき回るのが好きという方も多いだろうが、僕は無目的にぶらつくならやはり歩く方が好きだ。
確かに自転車を使えばより遠いところ、色々なところを回れそうな気がするのだが、いかんせん自転車は中途半端に速いというか、無駄に疲れてしまうのだ。

そこへいくと歩くという行為は、時間という切迫した概念を最初から取り除いてくれているというのか、精神的な疲れをまるで感じさせない。


イヤホンを耳に装着し、誰もいない早朝の街をあてもなく歩く。
ちょっとした背徳感が、この地味な幸せをなおさら良いものにしてくれる。

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こういう時間では実に色々なことが心に浮かんでくるものだ。
でも家に帰ったら大部分は忘れている。そういうものだ。

裏通りに回ると無数に寺があった。宗派は様々あったようだ。

大通りに出て、歩いたことのない方面に出ると、川があった。
僕は川で遊びまくってきた人間なので、どことなく懐かしくなって少しだけ川沿いを散策した。
大都会とはいえ、(住んでる土地柄もあろうが)小さな自然はやっぱりあるものだなと思った。


プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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