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『ちはやふる』24巻

ひとしきりQMAの全国大会で遊んだ後、新宿のアニメイトで『ちはやふる』の24巻を買ってきた。
個人的にはクイーンにとても心惹かれるので(不思議なところとか、ツンデレなところとか)、クイーンに感情移入しながら一気に読んだ。
結末はどうなることやら。

それと、クイーンの横顔は本当に美しく描かれているなぁと思う。


本筋と関係のないところでは、作中に「ニコニコ生放送」が登場していた。
たしかにここ数年は、「ニコ生」でかるた名人戦・クイーン戦の生中継もやっている。
本作『ちはやふる』に限らず、「2ちゃんねる」とか「ニコニコ生放送」とか、そういったネット文化とでも言うべきものを理解していることが、それが前提というのは言い過ぎにしても、物語を構成する1つの要素になっている作品はいっぱいあるのだなと改めて思わされた。マンガに限らず、小説だったり映画だったりにしてもそう。

後世の人にはこの作品がどう映るだろうか。800年も前の文化と、現代の最先端の文化の混淆が垣間見えて、おもしろい。
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ラヂオスタアの悲劇

ぷらたないとさんのブログの記事で取りあげられていたので、私も書きかけのまま放置していた記事を一つ。

***

講義の合間に本でも読もうということで、近くの書店を物色していたら、ちょうど村上春樹フェア的なものが催されていた。何気なく眺めていたら『村上ラヂオ』というタイトルの文庫本が目に付いたので、ぱらぱらページを繰ってみて、面白そうだったので即時購入。

1つのテーマに対して3ページに満たない分量で書かれていて、それが纏められているという構成になっている。比較的読みやすい彼のエッセーの中でも図抜けて読みやすい。そして面白い。ギャグ線高い。文通で奥さんの心を捉えたとかなんとか聞いたことがあるけれど、さもありなんという感じ。

ところで私はハイチュウが好きで、何かの帰りがけにコンビニに寄ったときなどよくハイチュウを買って帰るのだが、いつも買ったときは「一粒一粒ゆっくり食べよう」と誓うくせに、帰り着いていざ頬張り始めたらもう止まらなくなる。一粒食べ終えた瞬間にもう次のを開けている。私はこれを勝手に「一過性ハイチュウ依存症」と呼んでいる(まぁ依存症に一過性もクソもあるかって感じだが)。ともあれ、ハイチュウを目の前にしてしばらく我慢するなんて絶対無理ですね、ひとりでディズニーランドのアトラクションを全部回るくらいには無理。

なんで唐突にハイチュウの話題を出したのかというと、その『村上ラヂオ』を読んでるときの自分の状態が、そっくりそのまま「一過性ハイチュウ依存症」だったからである。純然たる暇つぶしとして時間をかけて読みたいのに、一つのタイトルを読み終えたら次、って感じでどんどん進んでしまう。口当たりもよいし、止まらなくなってしまう。村上春樹の最大の武器って、「読みやすいのに、読みごたえがある」ってところにあると勝手に考えているんだけれど、どうだろうか。

というわけで、一コマの講義で読み終えてしまった。
再び書店に走って、続編の『村上ラヂオ2』を買って、またすぐ読み終えてしまった。
小説は正直マンネリだと思うけど、エッセーは文句なく面白い。人を選ぶのは間違いないから、強くお薦めはできないけれども。

『春の雪』メモ書き

歌留多の札の一枚がなくなってさえ、この世界の秩序には、何かとりかえしのつかない罅(ひび)が入る。
(中略)なくなった一枚の歌留多の探索が、どれほどわれわれの精力を費させ、ついには、失われた札ばかりか、歌留多そのものを、あたかも王冠の争奪のような世界の一大緊急事にしてしまうことだろう。

(中略)故意に隠されていた一枚が手もとに戻って、歌留多の札が揃ったことの、……そして歌留多は再び、ただの歌留多にすぎなくなったことの、……何とも云いようのない明晰な幸福感。

――三島由紀夫『春の雪』(新潮文庫、1977年)以下同じ。47p、49p

友が恩恵でも施すように、秘密を施してくれることは耐えがたかった。(122p)


その幾分薄目な脣にも美しいふくらみが内に隠れ、笑うたびにあらわれる歯は、シャンデリヤの光りの余波を宿し、潤んだ口のなかが清らかにかがやくのを、細いなよやかな指の連なりが来て、いつも迅速に隠した。(88p)

それは時間の結晶体の美しい断面が、角度を変えて、六年後にその至上の光彩を、ありありと目に見せたかのようだった。聡子は春の翳り(かげり)がちな日ざしの中で、ゆらめくように笑うとみると、美しい手がすばやく白く弓なりに昇ってきて、その口もとを隠した。
彼女の細身は、一つの弦楽のように鳴り響いていた。(153p)


他人の心の結果は読めても、心の反応については不敏な(173p)


こう言ったら、こうしたら、どんな風に内心感じのかってことが全く読めないのに、どんな風に感じかということについては文句なくわかりやすい、そんな人っているよなぁ。
何をすれば喜んでくれるのか、怒ってくれるのか全く見当も付かないのにもかかわらず、今現状でその人が嬉しがっているのか退屈しているのかってことについてはとっても分かりやすい。みたいな。

清顕の口を出る一語一語は、正にこういう場合にはこう言うべきだと、彼が考えていたとおりに円滑に流れ出て、何ら感情の裏附のない言葉のほうが、人を一そう感動させるという現場をありありと示した。(200p)


彼は聡子を喪った。それでよかった。そのうちにさしもの怒りさえ鎮められてきた。感情はみごとに節約され、あたかも火を点ぜられていたために、明るく賑やかである代りに、身は熱蠟(ねつろう)になって融かされていた蠟燭が、火を吹き消されて、闇の中に孤立している代りに、もう何ら身を蝕む惧れ(おそれ)がなくなった状態と似ていた。彼は孤独が休息だとはじめて知った。(204p)

※同じページに「みかきもり~」の一首が登場する。

若者が遊惰な風俗や歌舞音曲を通じて、ただ若い柔らかい感性に愬え(うったえ)る口当りのよいものだけをとり入れて、それに同化してしまう危険に比べれば(245p)


海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前でおわるのだ。時間にとっても、空間にとっても、境界に立っていることほど、神秘な感じのするものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思いは、あたかも一つの時代から一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会っているような気がするではないか。(272p)


今日の涙を見ても、聡子の心が清顕のものであることは明らかだったが、同時に、心の通い合うだけでは、もう何の力にもならぬことがはっきりしたのだ。
今彼が抱いているのは本物の感情だった。それは彼がかつて想像していたあらゆる恋の感情と比べても、粗雑で、趣きがなく、荒れ果てて、真黒な、およそ都雅からは遠い感情だった。どうしても和歌になりそうではなかった。彼がこんなに、原料の醜さをわがものにしたのははじめてだった。(337p)


そしてその儀式の速度には、一滴々々疲労がしたたって積るような、胸苦しい喜びの緩さ(のろさ)があった。(382p)


聡子が一言も言葉を発することができないこんな状況へ、彼女を追いつめたのは清顕だったのだ。年上らしい訓誡めいた言葉を洩らすゆとりもなく、ただ無言で泣いているほかはない今の聡子ほど、彼にとって望ましい姿の聡子はなかった。
しかもそれは襲(かさね)の色目に云う白藤の着物を着た豪奢な狩の獲物であるばかりではなく、禁忌としての、絶対の不可能としての、絶対の拒否としての、無双の美しさを湛(たた)えていた。聡子は正にこうあらねばならなかった!そしてこのような形を、たえず裏切りつづけて彼をおびやかして来たのは、聡子自身だったのだ。見るがいい。彼女はなろうと思えばこれほど神聖な、美しい禁忌になれるというのに、自ら好んで、いつも相手をいたわりながら軽んずる、いつわりの姉の役を演じつづけていたのだ。(229p-230p)



一年経ってなお揺るぎなく、間然するところがない。
そういえばこの小説を一年ぶりに読み終えたその日の夜、偶然にも雪が降って、「灰のように漂っ」ていた。

漫画の話

QMAなどでお世話になっている翠様のブログで、少年漫画は「わざと兄(姉)が弟の為に負けて死」ぬパターンが多いという話があって、そういえば自分が中学生のころ描いていた漫画でもまさにそういう展開があったなぁということを思い出しました。
実家に眠る漫画と同じように、どちらかというと押し入れの奥深くにしまっておきたい記憶ですが

小学5年生から高校1年生までは色々な漫画を描いていたという記憶があります。
主人公がずっとウンコウンコ言ってるような小学生的ノリが満載のギャグ漫画から始まり、それから主人公の腕がゴムのように伸びるというどっかで見たことがあるような設定のバトル漫画、そしてパワプロで言えば明らかにチートを使って生み出されたような選手しか出てこない野球漫画、そして上述の兄弟対決編がある剣士漫画。最後の3つは未だ現存していて、それ以来私は漫画を描いていません。

思えばこの期間で一生分の絵を描いたような気がします。画力はまぁ言うまでもなく、ストーリーや展開も特に目新しいものもなく、という感じでしたが、あれほどまでに「あれを描きたい!」と思いつづけ・実際に描きつづけるという創作欲あふれる時期もなかったなと感じています。高校受験の勉強もそっちのけで漫画ばかり描いていました。よく受かったな。

最後に描いた漫画の展開は、

恋人を兄に殺された弟(主人公)が敵討ちのために頑張る→師匠と呼ぶべき人を見つける→兄を倒すけど、そこには恋人を殺さなければならないやんごとなき事情があった(※1)。にいさああああん(ここまで第一章)

主人公はその腕を買われて、海賊を倒すために警察に入る→海賊くる。すごく強い(※2)→劇中最強の敵たる海賊の大ボス出現→追い払うには追い払ったが、一生分の傷を背負うこととなってしまった。(ここまで第二章)

主人公は気が狂うほどに頑張る→「刀に魂を売って」大きな犠牲と引き替えに強大な力を手に入れる→師匠は主人公を止めようとする→やべぇすげー強くなってるオワタ→主人公は大ボスを倒すため海を渡る・師匠は強くなりすぎた主人公を倒すため海を渡る(ここまで第三章)

で、ここまで描いて19巻を費やし、未完。

ここから主人公は弟(三陽という名前)→師匠へと変わり、師匠視点で物語が進んでいく(予定だった)。
そっからいろーーーーーんな展開を経て、第7章くらいでやっとのことでついに三陽に巡りあった師匠は、大ボスを倒した三陽の変わり果てた姿(※3)を目にし、そこから最後の師弟対決が始まる(予定だった)。
生きる意味を失った三陽は、師匠によってついに介錯される(または相打ちとか)、というところで物語は終わる(予定だった)。


(※1)そのやんごとなき事情が思い出せない。多分家の事情がどうのこうの。弟の恋人をぶっ殺すわけですから、そこには相当に読者を納得させるべき事情があるはずなのですが。
(※2)多人数対多人数という構図は、まさにワンピースの「麦わらの一味vs.バロックワークス」をパクったもの
(※3)
DSC_0945.jpg



なにぶん中学生時代が中心の話ですから、それぞれの設定とか動機付けとかってのはあんまり重要視されていません。だからこそ素直に創作欲を満たすことが出来ていたのでしょう。
20を越えた今の自分がもし漫画を描こうとするなら…。自分の画力にうんざりする以前に、物語の整合性ばかり気にしてしまって、結局何も描けないまま終わるでしょう。

今でも戯れに2次元キャラ的な絵を描くことはありますが(ブログのプロフ画像などもそう)、特にそこに向上心めいたものは無かったりします。3ヶ月に1枚描くか描かないかくらい?




ところで上述の剣士漫画、どうやら私の中学生の弟が兄たる私の許可無く書棚から引っ張り出し、同じ中学の友達に大公開しているそうです。なんてことをしてくれるんだ。

私がまさにその漫画を描いていたとき、友達に見せたりしていたのですが、
軒並み「最初は『なんだこれ』って思いながら読んでたけど、読み進めたら--意外と面白い。」という評価を頂いていました。

それで私は弟に「君の友達はこれを読んで何て言ってたの?」と聞いたら、
「うん。最初はへんてこだなぁと思ってたけど、読んでいったら意外と面白い、ってみんな言ってた」
という答えが。
やっぱり10年近く経っても、中学生の感性には何かしら訴えるものがあったんだろうなぁと思って、嬉しいやら恥ずかしいやらでした。

少年漫画でも同じように、実際の人生においても、兄はわざと弟のために犠牲になってあげるものなのかもしれませんね。黒歴史を売り払って。笑

夏目漱石『こゝろ』

友達が読み返していたので僕も読み返すことにした。
高校時代に読んで以来だったので、6年ぶりくらい?2回目となる。

当時僕は好きな女の子のことしか考えていなかったので、読む本読む本全てその感情に結びつけて読んでいた記憶がある。
つまり、この著作で言えば恋に煩悶するKや先生を自分と照らし合わせていたりとか。

今はそういうこともなく、どこに共感したかと言えば第2章の「両親と私」。
東京から田舎に帰る学生が感じることは今も昔も変わらないのかもなぁと感じたりした。
一番楽しく読めたのは第1章の「先生と私」。

妻の過去に一点の曇りも残さないために、秘密と共に自死する先生の選択はやはり考えさせるものがある。
現在の価値観で言えば、罪を贖うためにこそ生き続けるべきなのではないかとか、愛する夫を失うことになってしまう妻はどうなるのかとか、そんなことを考える。もちろんそんなに簡単に割り切れる問題ではないのだ。罪人を誰が裁くのか、どのようにして裁くのか。つくづく永遠性を孕んだテーマだなと思う。

終わり方もモヤモヤする(もちろんそれが良いのだが)。父の臨死を前に、先生を心配して汽車に飛び乗ってしまう主人公の描写の後、遺書の全文が乗せられ、そのまま小説は終わる。結局先生は死んでしまったのか、父は死んでしまったのか、…。

世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念が何処かにあったのです。それがKのために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識したと時、私は急にふらふらしました。


読書メモ'13年4月

川端康成『雪国』新潮文庫
トルストイ『アンナ・カレーニナ』(上・中・下)新潮文庫

トルストイ『アンナ・カレーニナ』

読み終えた。長かった。
概要は説明するまでもない。世界史上屈指の小説である。
3月中に読み終えたいと思っていたけど、結局4月いっぱいまでずっとこの小説を読んでいた。やはり大学が始まると読書が捗るなぁ…。

「この小説を読んで、何を感じたか?」

・死

…自分は裸も同然であり、どうしても苦しい最期を遂げなければならないと、理屈ではなく、自己の全存在をもって、はっきりまちがいなく確信させられたのであった。



どんな人間も、もがき苦しみながら死んでいくということ。
『アンナ・カレーニナ』作中では、リョービンの兄ニコライが結核で病死するシーンと、アンナが汽車に飛び込んで自死するシーンの2つが対比されているが、いずれの死に方をするにせよ、そこに甘美なものなんて何もないよなぁと思う。

・宗教

・女性

作中には色んな女性が出てくる。トルストイは前世は女だったのかというくらい、異性の心理描写がスゴイ。スゴイなぁーってだけ。僕がもし小説を書いて女性を登場させるとしたら、きっと高々どこかでいつも目にするような、理想像でしかない可愛い女の子しか描けないだろう。


・結局、アンナとヴロンスキーは何故上手くいかなかったのだろう?

難しい。いつの間にか燃えるほどの情熱は冷めていて、なぜか上手くいかなくなっていた。アンナとカレーニンとの離婚が上手くいっていれば、果たして首尾良く新しい結婚生活が送れたか?それは確実に否であろう。
中島みゆきの「あした」という歌で、何もかもが愛を追い越していくといったようなフレーズが出てくるけど、そういう慎ましやかなものでもない。

男は結局男で、女は結局女なのだってことなのか。冒頭の一文の「幸せな家族」というものは、そういう超えられない壁に何かしらの折り合いを付けてるってことなんだろうなぁ。

次に読む機会があれば、この疑問を念頭に置いて読み進めていくことになるだろう。

『ちはやふる』カバー袖の歌一覧

数字は巻数。

01.ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平朝臣

02.誰をかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風

03.瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあわむとぞ思ふ 崇徳院

04.めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな 紫式部

05.すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人めよくらむ 藤原敏行朝臣

06.田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人 

07.こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ 権中納言定家

08.かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける 中納言家持

09.花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

10.わたの原こぎいでてみれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波 法性寺入道前関白太政大臣

11.朝ぼらけありあけの月と見るまでに吉野の里にふれる白雪 坂上是則

12.しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで 平兼盛

13.風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける 従二位家隆

14.ありま山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 大弐三位

15.由良のとをわたる舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな 曾禰好忠

16.君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝

17.かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを 藤原実方朝臣

18.秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔

19.心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花 凡河内躬恒



・初期の段階では、袖に書かれている百人一首とその巻の内容が一致しているような気がする。特に2~4巻は内容にリンクした百人一首を明確に意識して載せていると思われる。
・1巻にだけ作者名・在原業平朝臣の記載なし。
・タイトルは「ちはやふる」なのに、1巻の袖のは「ちはやる」となっている。どちらでも正しいが、「ちはやぶる」の方が主流の感じ有り。

『伊豆の踊子』でさよならも言えなかったのは

川端康成の『伊豆の踊子』といえば、説明不要の名作である。
僕が『伊豆の踊子』を最初に読んだのは中学生の頃だったか高校生だったか…。文庫版で40ページ程度だし、ひとしきり読めばすぐに読み終わることが出来て手軽なうえ、内容も甘酸っぱくて良いし、描写されている情景も綺麗で。
今回読むのは3,4回目だろうか。

今読んでみたら読んでみたで、同じ作家の小説『雪国』には何枚か劣るような気がするとはいえ、やはり面白い。
色々考えさせられたり、疑問に思ったりした箇所も多いのだが、ただこの小説に限って言えば、何も考えずに「ああ、こういうのって良いなぁ」と感じながら読み進めるのが正しい読み方なのだろう。

この小説一番のクライマックスは「私」と踊子(薫ちゃん)との別れのシーンである。
旅費がなくなった主人公は、学校があると嘘をついて、旅芸人一家の水子の法事にも出ずに帰ることにした(こう書くと酷い)。踊子を映画に連れて行こうと約束していたのに、踊子の母親が何故か(何故なのだろう?)反対して、結局それも果たせず。
「いい人」である主人公と別れるのもイヤで、映画にも連れてってもらえなかったまだ幼い踊子は、やはりいじけちゃって素直に「私」にさよならと言えないわけで。
で、そうこうしているうちに船が来てしまった。

ここから引用。

はしけはひどく揺れた。踊子はやはり脣(くちびる)をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰ってきた。



ぼくは長年、「さよならを言おうとした」のは主人公たる「私」だと思っていた。
しかし今読んでみるに、さよならを言おうとしたのに言えなかったのはやっぱり踊子であるという結論に至ることになった。

その決め手となったのは、「もう一ぺんただうなずいて見せた」という箇所。
この十何行か前に、「私はいろいろ話しかけて見たが、(中略)私の言葉が終らない先き終らない先きに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。」とある。一方、「私」は1回もうなずいてない。

件の文は、主語「私が」で始まっている上、「『言おうとした』が、それも『止して』」と、いかにも主人公が動作の主体となっているような書き方がなされている。
やっぱり、ここを普通に読んでしまったら、普通に「主人公は踊子にさよならが言えなかったんだなぁ」と解釈してしまうと思う。
もちろん、文脈上ここでさよならが言いたいのに言えないのはどう考えても踊子のはずである。注意力のある読者ならすぐに気づけたのかもしれない。僕はそれに気づくのに何年もかかってしまった。


文法的にいうならば、前文「踊子はやはり~」の主語・踊子を後文に引き摺っている、と見るべきだろう。
「踊子は一方を見つめていて、〈私が振り返ったとき〉さよならを言おうとしたけどやめた。」という風に。


しかし、しかしながら、やっぱりこれで主語が明瞭だとは申せまい。
僕としては、どうも川端康成の仕掛けがここに仕組まれているんじゃないかという気がしてならないのだ。
『伊豆の踊子』全文を通じて、主語が「ん?」となる箇所はここくらいのものである。つまり、他の箇所では常に明確に提示されていた主語が、ここだけよくわからない。ひとしきりの解釈の時間を要する。
やっぱりそれは、この一番大事なクライマックスシーンで、読者の注意を引きつけるために、あえてあいまいにしたのではないだろうか。
そんな妄想が許されても良いはずだ。

もちろん、「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたが、…」と書いてしまうと、少しくどいかな、というのも作者自身にあったのかもしれない。


ところで、旅芸人の女たちは朝の別れの際、夜更かしして起きられないからという理由で「私」に挨拶に来なかったわけだが、踊子ただ一人だけが、船を見送りに来たのだ。
「昨夜のままの化粧」とあるので、寝てなかったのかもしれない。そう考えるとやっぱり、踊子は本当に「私」と別れたくなかったんだなぁ。



『花おりおり』

「草花や木の名前を常識としてはどれくらい知っておけばよいのでしょうか。答えが出る問いではありませんが、『万葉集』4516首には163種類ほどの植物が歌われています。『万葉集』は名のわかる人だけでも470名近い人々が登場します。一方、平安時代の才女、紫式部は『源氏物語』で111種類の植物、清少納言は『枕草子』で138種類の植物を取り上げています。その2人を合せると164種類になります。偶然でしょうが信じがたいほど『万葉集』の植物の種類数と一致します。
 近代の例として、明治の文豪夏目漱石をあげましょう。その全集に262種の植物が顔を出します。そこには近世に渡来した欧米の外来植物が少なからず含まれているので古典とは単純に比較はできませんが、いずれにせよ200そこそこの植物で、味わいのある自然や生活が豊かに表現されているのです。」
――湯浅浩史『花おりおり 愛蔵版その二』(朝日出版社、2003)序文より




たしかに、明治期から昭和期にかけて名作と称される小説作品群には、驚くほど沢山の植物名が出てくる。
(最近読んだ中では『斜陽』や『細雪』がそう)
そしてその植物の、名前は聞いたことがあってもそれがどんな草花・木なのか殆どわからないということに危機感を抱いていた中で、偶然見つけたのがこの本。写真とそれに付随した短文で構成されている。

要するにこういった、上手く言えないけど「まとまりのない知識」(=一問一答的な知識=QMA的な知識)というものが、巡り巡って、創作において重層的に深みを生み出していくというのは非常に面白い。

実におおざっぱで不正確なまとめ方で申し訳なくなるけれど、「教養」・「実学」・「世俗」的な知識というものの混淆が、時代を超えて輝く作品を生み出す。それは小説に限らないだろうと思う。
その「圧倒的なごちゃまぜ」には、ただただ畏怖するばかりで、楽しい。

出来ることなら、ゆっくりでもいいからそういうものに近づいてみたいなぁと思う。
この本がその端緒になれば良い。

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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