根雪

あの日の夜の話。
「水族館の子」にメールで「映画の予定が取れそうにない」と言われた私は、その子に電話をかけた。
私は友達と、閉店作業が終わったあとのバイト先に居た。
水族館の子は家にいた。

電話を掛ける前に、その友達にメールのやりとりを見せて「正直どう思う?俺は、100%ないと思う」と言った。
彼女は「うん…でも○○(私の名前。以降は「みかきもり」とする)は、このままで終われるの?」と言った。
私は「終われない」と強く答えた。
彼女は「じゃあ、とりあえずここに電話で呼んでみて、それでだめなら電話で想いを打ち明けたらいいと思う」と言ってくれた。
私は店を出た。

水族館の子に電話をかけるのは初めてのことだった。
「今から3人でラーメンでも食べにいかない?」
彼女はとても行きたそうだった(3人とも仲が良い)が、もう布団に入っており、次の日にテストがあるからさすがに寝ますという返事が返ってきた。
一通り、そんな他愛もないやりとりをして、やっぱり来てくれないなと思った私は意を決した。そして、
「映画、やっぱり気が進まなかった?」
と聞いた。
「気が進まないのか、本当に予定が詰まっているだけなのか、はっきり教えて欲しい」

彼女はちょっと沈黙して、
「実は、気になる人がいて、その人のこともあって映画をためらってた、というのは正直あります」
と答えた。(※後日、これは嘘だと分かるけど、なんとなくそんな気はしていた)

私は外で電話を掛けていた。
さすがに風が冷たかったが、不思議と寒くは感じなかった。

「そっか。…」
言おう、と思った。
不思議と緊張はあまりなかった。私にとって彼女のことが好きだということは、もはや当たり前すぎることだったからなのかもしれない。ありがとうという気持ちと、好きだという気持ちを、悔いがないように自分の言葉で言おうと思った。

「いつも、僕のために時間を割いて会ってくれて本当に感謝してる。
その中で君のいいところをたくさん知ることが出来た。
俺は君のことが本当に好きだ。ずっと君の笑顔を見ていたいし、他の誰とも付き合って欲しくない」といった。そして、
「でも、その気持ちは受け入れてもらえないってことでいいのかな」と付け加えた。

彼女は
「みかきもりさんは、安心感があって、優しくて頼りがいがあって、でも何回か出かけてみて、それ以上の感情は生まれませんでした」
と答えてくれた。

私はもう一度「そっか」とだけ言って、それから少しの間だけ沈黙が流れた。
「自分の気持ちに素直になって、自分の恋愛を頑張るんだよ!じゃあ、またバイト先でね」
と言って、電話を切った。

私の「好き」の半分は、「誰にも渡したくない」という強い嫉妬で出来ている。
でももう半分は、「幸せになってほしい」なのだな、とこの夜気付いた。
だから、誰とも付き合って欲しくないという気持ちと、私の好きな人がその子の好きな人と結ばれるのを応援したいという気持ちは、どちらも自分の心にあるのだ。

***

店に戻って、友達にぽつりぽつりと事の次第を話した。
彼女は真剣に聴いてくれた。
そして、
「あの子は、後悔すればいいよ」と言った。

どうしてもこのまま家に帰りたくなかったので、結局ふたりでカラオケに行って朝まで歌い尽くした。
気分もいくらか和らいだ。
歌い終わったときにはもう始発が出ている時間だった。彼女を駅まで送っているときに、彼女は半ば冗談めかして
「でもあたしだったら、バイト先の男で彼氏を選ぶんだったら、みかきもりと付き合うなぁ」と言ってくれた。
私は「彼氏いるじゃん!」と笑った。でもとても嬉しかった。自分が(冗談でも)そういうことを言われる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
多分だけど、私は誰かにそんなことを言って欲しかっただけなのかもしれない。

***

それから3日後、店で「水族館の子」に会った。
私はバイトに入ってなかったのだが、私は「やっぱり、会って話したい」とメールで伝え、彼女も「私も会ってちゃんと話したいです」と言ってくれたので、閉店後の店に寄った。

彼女の表情を見たその瞬間に、この数日間で本当に色々なことを考えたり、感じたりしてくれていたのが分かった。
諸々のことを不安がっていることもすぐに察することができた。
それが何よりも嬉しかったし、その不安をすぐに解いてあげたいと思った。

私は色々なことを伝えた。
私が「勝手に」好きになったのだから、あなたが私の気持ちを受け入れられないからといって、罪悪感めいたものを感じる必要はないということ。
だから気まずさを感じる必要もないし、感じさせないように努力するということ。
傷つくことは最初から覚悟の上であり、むしろ本望であるということ。
逆に、告白によってあなたを傷つけてしまって申し訳ないということ。
どういうところが好きかということ、いつから好きかということ。
女性としても好きだけど友達(後輩)としても好きなので、その友達(後輩)としての関係は維持したいということ。
「一緒にいて楽しい」と感じてくれたのがとても嬉しいということ。
私は好きであることをやめないし(そもそも、やめられない)、これからも頑張るということ。
そして、今はダメだという現実はしっかりと受け止めた上で、いつか絶対に再挑戦するということ。

彼女もまた真剣に聴いてくれた。いくぶんほっとしたようでもあった。そして、デートを断った本当の理由も話してくれた。

「みかきもりさんとは一緒にいて楽しくて、安心感もあって、全然嫌いじゃなくてむしろ好きだけど、3回おでかけしてもそれ以上の感情にはならなくて、しっくりこないまま付き合うのは互いに良くないと思ってました。
告白されても受け入れることは多分できないし、それによって今までの私とみかきもりさんとの関係が壊れるのが嫌でした。数度もデートしてきたし、次のデートは告白が予想されるから、それはダメだろと思って断ってきました」

ここで私はやっと、彼女に求めていることが何なのかはっきりわかった。それは「付き合う」ということではなかった。
1つは、「自分が好きな人に、私のことを好きになってもらうこと」
もう1つは、「一緒にいて楽しむこと・楽しんでもらうこと」

「付き合う」ってことがどういうことなのかは正直わからない。けれど多分「付き合う」という営為は上の2つが達成されたその延長線上にあるものなのであって、それだけに拘るのは本質的ではない。
単純に「恋人がいる」というステータスを自慢したいがためだけに「形式的に」付き合うだけなら、他にいくらでも方法はあるし、それが出来るだけの力はこの1年でついただろう。でもそこに何の意味もないということは、自分の恋愛や、周囲の恋愛を通じて学んだことだ。

そして、こんな考え方が出来るようになったということが、自分のコンプレックスの最も大きいものが消えた何よりの証拠であるとも感じる。
生まれてから1年前までは、好きな女の子から全く相手にもされず、「彼女が出来ない」というのは(実際にはつくろうとすらしていなかっただけだが)大きなコンプレックスであった。
だが、この1年の経験を通じて承認欲求が満たされるにつれて、また周囲にある本物の恋愛や偽物の恋愛を色々見てきて、「付き合っている」という状態に拘るのはあんまり意味が無いのだなと気付いた。「付き合っている」というのはあくまで1つの形式にすぎない。ゴールでもない。あくまで結果的についてくるものでしかない。

単に彼女が欲しいだけなら、ちょろそうな相手を選んでその気にさせればよいだけの話だ。
だけどそれは本当に幸せだろうか。誰でもそんなものは虚しいだけだろう。
(ただ、矛盾するようだけど、「好きな子を1人落とす」ためにこそ、「色んな人からモテる」方法論を身につけておく必要は大きいと感じる。「もてなくてもいい、ただ好きな人を1人落とせればいい」という意見は多いけど、実際はそんなに甘くはないだろう)

では、何に拘るべきなのか?
私の答えは先述の通りである。
「自分が好きな人に、私のことを好きになってもらうこと」
「一緒にいて楽しむこと・楽しんでもらうこと」

そして、私は「水族館の子」にたいしては、「一緒にいて楽しむこと・楽しんでもらうこと」という目標は達成していた。
ただし彼女にとって、「一緒にいて楽しい」が「もっと一緒にいたい」にまで昇華していなかっただけの話である。

だから、私が今後やるべきことは2つである。
2人で会える関係を維持することと、もっと楽しみ・楽しんでもらえるように色々考え、努力すること。
もっと一緒にいたいなぁと思ってもらうにはそれしかないし、その延長線上に「付き合う」があるはずだ。
たとえ付き合えなくても、充実した関係になれれば、今の私は満足である。
楽しくなければ意味はない。

私は、「付き合えないからといってじゃあ一緒に遊ぶこともしない、なんてことはない。好きだという気持ちが受け入れてもらえないからといって、誰かを恨むということもない(あるわけない)。確かに君のことは女性としても好きだけど、友達としても好きだから、その関係を壊したくない。
デートは嫌なら断ってほしいけど、嫌じゃないのなら断ってほしくない。
一緒にいて楽しいと思ってくれているなら、一緒に映画を観に行こう」と言った。
私はどこまでも理屈っぽい。それが自分なのだ。


彼女は絢爛な笑顔で、「はい」と言ってくれた。

スーパースター

水族館の女の子(http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-1000.html)との、その後について。

結論から言えば、「友達から」というかたちになった。

***

1月に予定していた4度目のデートが「予定が出来た」ということで無くなり、2月に予定していた映画のデートも「予定が」ということで潰え、私はこの段階ではっきり負けを確信した。
また、1月以降に、その子に少なくとももう2人の男がアプローチを掛けているということを知った。

私はわりと穏やかにその子のことを好きになってきたつもりだったけれど、他の男が近づいていることを知って極度の嫉妬を覚えた。ここまで自分の気持ちが大きくなっていたのをそのとき初めて知った。何も考えられなくなって、せめて自分が先に想いを伝えておこうと決めた。負けを確信しての告白は正直したくなかったけど、何も伝えられないよりはましだと思った。

その子の答えは、
(私は)「一緒にいるのは楽しい、安心感があって、優しくて、頼りがいがあって、けれど好きかどうかと言われると、そういう感情とは違っている。お兄ちゃんみたいな感じ。人間としては好きだけど、男としては好きではない」
というものであった。
そして、
「付き合うことも選択肢としてはあったけれど、こういうあいまいな感情のまま付き合うのは互いにとって良くない」
「気をもたせるのは悪いし、告白されて関係が壊れるのがとても嫌だったから、デートは断ってきた」
「きっぱり断ることが出来なくて、自分は最低だと思う」
とのことであった。

私は「あきらめない」と宣言したうえで、

・デートしてきたからといって私が「気を持つ」なんてことはない。可能性なんて関係ないほど好きになってる(付き合えなさそうならあきらめる、なんてことが出来ないほど気持ちが発達しているということ)
・その子のことは、たしかに異性としても好きだけど、友達としても好きである。告白が失敗したからといって友達としての関係まで崩れる必要なんてないし、気まずさを感じることもさせない。
・一緒にいて楽しいというのは何よりも大事だと思っているけど、あなたがそれを感じてくれてるのがとても嬉しい

ことを伝え、だから「嫌だからデートに行きたくないというわけじゃないのなら、(あくまで友達として)映画観に行こう」といったら、行きますと言ってくれた。

一般的に、しっくりこないまま付き合ってそれから好きになっていくというパターンは多い。
だからここで、「付き合おう」と言うこともできたけど、私自身が逆の立場なら、しっくりこないまま付き合うことは出来ないだろうし、自分が出来ないことをその子に押しつけることは出来ないと思った……ということも、本人に直接言った。努力でどうにかなる問題じゃないのかもしれないけれど、いつか絶対に再挑戦するし、そのためには出来るだけのことはするとも言った。でも今は無理であるという現実も受け入れるとも言った。

他にアプローチしている男のことについて聞いたら、どっちも「無いなって感じです」ということで、ひとまずは安心した。

私は、こんなに素晴らしい子をちゃんと好きになれた自分のことも好きになれた。
それで傷つくことは覚悟の上だから、誰かを恨んだり憎んだりするなどということはない。
「一緒にいて楽しい」は確実に、上位の感情に転換する可能性がある。だから、その可能性が少しでもある限りはそこに掛けたいし、それくらい価値のある子だと感じている。

付き合うことは出来なかったけれど、「2人で会う」関係は保つことが出来たし、他の男が寄ってきても自分のことを思い出してくれるくらいには全力で想いを伝えることができた。とりあえずは打ち明けられて満足である。この告白が、何かのきっかけになれればよいなと思う。異性としての関係に発展すればそれはとても嬉しいけれど、たとえこのままそうならずとも、きっとそれはそれで、この2人はかけがえのない関係になるだろうなと感じている。

自分がこの恋愛を通して成長できたのもとても嬉しかった。
少し前まで、女の子を誘うなんて自分にも他人にも想像さえ出来なかったようなレベルの低い男が、いまや「一緒に居て楽しい」と思わせるほどにまでなれたのがすごくありがたいことのように感じる。周りの応援のおかげである。

そして、その子とやっと本音で語り合うことができたのもとても嬉しかった。
別れ際に、「これからもよろしくね」といってその子と握手したのだが、その手が死ぬほど柔らかくて、この柔らかさは一生忘れたくないなと思ってしまった。




※注釈:「水族館の女の子」に関する過去記事。

実はもう1人気になる子がいる。交際経験は1人で(注:実は2人)、彼氏を欲しがっている。
とてもしっかりしていて、好意的な反応をするのが上手く、そしてなによりも、そこまで強く外見に気を遣ってる風でもないのにもかかわらず、キレイで可愛い。しかるべき努力をすれば到底私の手には負えないくらい高いレベルの女性になるだろうなという感じ。
ここまでの逸材なのにまだ誰も手を出していないのが不思議なのだが、ともかくこの子の存在も頭の片隅にはある。

距離感はどうかというと、明らかに人間的な好意は持ってくれてるけど、恋愛的な「気になる」には全然達していないだろう。
頑張って「為コミ①~方法論編」で書いたことを意識しながら接して、「誘える閾値」を確実に越えるようにしたいけれど、ぼさぼさしてたらすぐに取られちゃう気がする。

(恋愛観②:興味のベクトル:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-965.html

その子は外見・内面・振る舞い・頭の良さ・面白さという、私が大切だと思う項目全てにおいて満点を付けられるくらいの存在であった。ここまでポイントが自分の中で高いと、逆に私はあきらめる。私程度の男では到底手におえないと考えてしまうからである。だから私はこの子のことを好きになることはない、と思っていた。その子のまだ都会慣れしていない感じが他の男に受けないのか知らないが、その子には彼氏がいなかった(いない)が、もしそのある種の野暮ったさが抜けて洗練されてきたら、もう私の手には届かないところに行ってしまうだろうと感じていた。

ここまでレベルの高い子を好きにはならない、そう感じていたとはいえ、やはり私は2人をたびたび無意識に比べてしまったし、そのたび自分の「ライブの子」に対する感情が、もはや「仮」にすらなり得なくなっていることを悟った。こんなにどストライクで素晴らしい女の子、しかも今を逃せば一生アプローチ出来ないかもしれないくらいポテンシャルの高い子を見ないふりをして、好みでもなければ可能性も低い子をそこそこのやる気で追いかけるのは、かなり難しいことではないのかと。

(ライブのはなし:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-981.html


9月12日:対抗の子を水族館のイベントに誘う。OKもらえた。
(中略)
結局、9月にBにアクションを起こす。
初回では、デートスポットのチョイス、誘い方、誘うタイミング、どれをとっても我ながら非の打ち所の無い誘いが出来た。ここまで上手に誘えたことはなかった。幸運なことにBも「ちょうどそれに行きたいと思ってたけれど、誰かと行く予定はない」という都合の良すぎる状態だった。
それから実際にイベントを見に行き、夕食を食べ、もとから外見・内面・振る舞い全てAよりBの方が好みだったのだが、相性もBの方がぴったりくるなと感じた。
この3ヶ月の間で5人の女の子と合計10回デートに行って思ったことだが、2人きりでデートに行ったときに感じたことは嘘をつかない。どんなによさげに見えても「2人きり」がつまらなかったらその関係性に未来はないし、2人きりが楽しいということは何よりも大きな事実となってくる。

まだAとの2人きりを経験してない段階で、私の中で「本命-対抗」は逆転した。
Bを本命に据えて、本命だったAが対抗となる。
(中略)
昨日がBとの2度目のデート。夕食→映画→居酒屋、という流れ。
前回の反省だった「自分から話題を振る」「相手の子の面白さをもっと引き出す」「褒める」の3点も全部こなせたし、正直3度目のデートは絶対に断られない自信があった(実は2度目の映画デートを誘うときはだいぶ日和った)。

(昨日と今日:http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-980.html

絢爛

1000番目の記事。

***

先日、水族館の女の子とご飯を食べにいった。3度目のデートである。
昨日と今日(http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-980.html)という記事の末尾に、「3度目のそれで、その結果を相手に問う」と宣言しているが、問うていない。

実は2度目のデートのあとで、共通の友人2人に協力してもらって、その子の気持ちを聞き出してもらった。

・私にたいして今は恋愛感情は持てていない。だが今後そういう気持ちになる可能性がある(彼女にとっての何かしら致命的な欠点が私にあるわけではないらしい)。
・「お兄ちゃん」という感じ。安心感や頼りがいはあるが、ドキドキはしない(よく言われるので、これが長所でもあり短所でもあるのだろう)。
・デートは「普通に」楽しい。計画をたててくれるのが嬉しい。誘われて断る理由はない。
・自分が女性として好かれているのはうすうす気付いている、けれどいくつか引っかかる点もあるので確信は持てていない(最近連絡がこないとか、他の子ともデート行ってるのを聞いたとか)。
・今もし告白されたら悩む。もう少し考えたい。
・他に言い寄ってきてる男はいない。

という感じである。要は当落線上ということだろうが、もし先日告白していたら振られていただろうと思う。危なかった。情報網があるだけで行動の精度がこんなに違ってくるものなのかと実感した。

先日のデートは近場の飯屋に行って、ご飯を食べて、帰ってきただけである。
1,2回のデートは私自身も「普通に」楽しかったので、今回は彼女の内面に触れるようなことを聞いてみたい、もっと踏み込んでみたいと考え、それを目標にして臨んだが、かわされた。原則誰に対してもオープンに接するという高い能力を持った子だが、踏み込ませる人はかなり慎重に選ぶタイプなのだろうと思った。
3度目にして私は敗北感を覚えて少しへこんでいたが、後々聞いたところでは彼女はいつも通り楽しんでくれていたらしい。

それまでと違うもう一つの点は、その日に彼女を次のデートに誘わなかったことである。
1度目はLINEで「また誘う」と宣言したし、2度目はサシ飲みしてる間に次のデートの予定を合わせたが、今回は何も無し。これは何かの作戦だとか、日和ったとか、気持ちがさめたとか、そういうことではなく、単純に卒論が忙しくて都合がつきそうになかったからである。

彼女はそれに違和感を覚えたらしい。
「いつもは日中に誘ってくるのに、今回はそれがなかったから、もう次のデートはないのかなって思いました」とのこと。私はそれを伝え聞いてびっくりした。彼女はそういう素振りを私には一切見せなかったからである。ただその時を楽しんでるだけのように私には見える(見えた)けど、実際は色々なことを考えたり感じたりしてくれているというのは、それが関係の発展に繋がるかどうかはさておいて、男としてとても嬉しいことだ。

ともあれ、彼女にとって

・誘いは断らない
・今は好きじゃないけど今後好きになるかもしれない
・最近は自分が好かれているのか確信が薄れている

という距離感に自分がいるという事実を踏まえれば、一番大事なのは告白をもうちょっと待って数回デートを重ねてみることなのかなと思う。私の評価が悪くなることはおそらくない、かといって良くなる保証も全くないし、あまつさえ好きになってもらうというのはデートでは厳しいかもしれない。ともかく焦らず、既成事実を積み重ねていければよい。

しかし、自分の好意の有無が気にされているというのは極めて大きいと考えている。
明らかに彼女は私のことをそれなりの時間を費やして考えてくれているので、もしかしたら、があるかもしれない。私は別に意図してそうしてきたわけではないが、結果的に「相手に自分のことを考えさせる」という恋愛において基本的な戦略を成功させていたことになる。

私の相談相手の1人は、「今後好きになってもらう可能性があるのに、告白して万が一にもミスって関係が終了するというのが一番あってはならないこと」と言ってくれた。確かにその通りである。このままではジリ貧だろうし結論を急ごうとしていたけれど、すんでの所で思いとどまることができた。
(しかし私には、勝負を急いで土俵際で逆転される力士や、『もののけ姫』で人間の罠に甘んじて引っかかる猪たちを笑えないな、とつくづく思った)

要するに、「ま、こいつでいっか」と思ってもらえればよいのだ。

***

ただ、一番大事なことは、一緒に居られる時間を大切にすることである。
私はろくでもない人間のくせに無意識のうちにデートすることに慣れてしまっていたのだろう、3度目のデートをどこか漫然とやり過ごしてしまったように思う。

いやいやいや、と自分に言い聞かせる。いいか、一生のうちでこんなに可愛い女の子とデートできる機会なんて滅多にないし、次があるという保証などどこにもないのだ。あれこれ思い悩むのはあとにして、ともかくその時々を素直に楽しめ、と。

妹にも「付き合えるにしろ、付き合えないにしろ、『この時間が幸せだったな』と思う日がくると思うから、(結論を焦らずに)まだ楽しむのもありだよ!」と言われた。妹は3歳下だが、恋愛に関しては大先輩である。本当にその通りだと思う。
今を、悔いのないように楽しむこと。これを強く念頭において頑張る。

ふたりきり

私はこの1年を通じて、誰かを(一般の意味でも特殊な意味でも)好きになる際、「一緒にいて楽しめるかどうか」という視点を最も重要視するようになった。今回私が話題にしたいのは、なぜそのような視座を体得するに至ったかという過程、およびその視座が私にどのような観照をもたらしたかということについてである。

私は去年の11月、当時一方的に想いを寄せていた子とデートに出かけた。好きな子とふたりでどこかへ出かけるというのは齢23にして初めての経験だったが、私はそのデートを全く楽しむことが出来なかった。この敗北は様々な問いを惹起させた。なぜ楽しめなかったのか。好きな女の子とデートするというのは、こんなにも楽しくないものなのだろうか。私の人間性に大きく欠けたところがあるから楽しめなかったのではないか。云々。

その疑念に一つの光明がもたらされたのは、今年5月にとある女友達と映画を観に行ったときのことである。恋愛感情の介在しないこのデートは、しかし非常に楽しかった。私にも女性と何かを「ふたりで」楽しめたという経験は、自信というよりもむしろ安心感を与えてくれるものだった。

それから今年の9月・10月、私はとある女性に好意を抱くようになり、その子をご飯や映画に誘ったが、それらのデートもとても楽しかった。もっと声を聞いていたい、もっと一緒に居たい、もっと頻繁に会いたいと思った。
それ自体も大いに価値のある経験だったが、これらの経験が私にとって非常に意義深いと感じられた最大の所以は、それらを通じて過去10年間の私の”恋愛”の欺瞞を説明出来るようになったということ、及び私の恋愛観に180度の転回をもたらしてくれたということの2点に尽きる。

10年間の”恋愛”の欺瞞とは何か。一言でいえば、「ふたりで一緒にいることが前提とされていない」ということである。しからば、ふたりで一緒にいるという前提の欠落した恋愛においては、何が前提とされていたか。表現が難しいが、あえて簡潔に言うなら、「見てること」が前提とされていた。同じ組織の中、つまり教室やバイト先で、見てて楽しい/絡んでいて楽しいことだけが、私にとっての誰かを好きになる基準であった。無論、それ自体は基本的で大事な基準である。問題なのは、それが自分の感情を規定する「全ての」基準となっていた点である。いざ2人きりでそのテリトリーを離れたとき、果たしてふたりは何を為しえるだろうかということに、全く考えが及んでいない。

なぜこれがそもそも問題になるのか、答えは明瞭である。恋人どうしという関係は、ふたりきりだからである。ふたりきりでどうなるかということに何らのビジョンも描かずに、どうして恋人どうしという関係を切り結ぶことが出来るだろうか。私がそういうビジョンを描けなかった要因の一つには、知識不足・経験不足が確かに挙げられるだろう。しかしそれだけではない。私はただ同じテリトリーの中で、一方的に見、一方的に絡むことで満足していたのだ。それ自体が問題なのではなく、その満足を恋愛と取り違えていたことが問題なのである。その満足に甘えていたのだ。相手の為に何が出来るか・それが出来るようになるためにどんな努力をすれば良いのかという観念がまるで剥離している。頑張ることもしないで、ただかりそめの恋愛の上澄みだけを舐めていたのである。そして相手のことを本質的に知る機会も得られず、ただこちら側の勝手な思い込みで行き場のない想いだけがふくれあがるのだ。

恋愛は畢竟、(総体的な営みとしての一面も確かにあるが、原則として)ふたりきりの営みである。ふたりきりでどうしたいのか、どんな感じになるのか、そういった感覚を互いに共有したり、あるいはしっかりと説明したり出来ない段階で抱く恋愛感情は、あくまで「恋愛感情(仮)」なのである。そして「仮」が「正式」なものとなるかどうか判断するためには、「ふたりきり」というビジョンを共有することが必須となる。そのために必要となるのが、同じテリトリーから離れ、2人きりで別の時空間で経験を共有するという営み、すなわちデートなのである。

そういう基本的なことに、私は上記の複数の出来事を通じてようやく思い至ることが出来た。中高時代の片想いを偽物だと断じ切るつもりもないが、私の20代も中盤に差し掛かっている。「仮」で満足している時間はもう残されていないのだ。

次に、先に記した180度の大転回とは何かということを説明したい。
私は「一緒にいる」ことを前提として恋愛を考えることを学んだ。では、一緒にいて何を感じることが出来たら、ふたりの関係に可能性があると言えるのか。人によってその答えはときめきだったり、安心感、信頼感、楽しさだったりするだろう。私の答えは「楽しさ」である(その「楽しさ」はどんなたぐいのものでも構わない)。一緒にいて、兎にも角にも楽しさを感じる・感じさせることが出来れば、9割方目標は達成されたと言ってよい。なぜか。ときめきや安心感といった要素は、こちらの努力ではどうにもできない側面があるが、「楽しさ」だけは努力の余地が大いにあるのだ。それなりの手間と、金と、心構えさえあればどうにかなる唯一にして最重要のポイントである。「楽しさ」さえ自分が感じられ、相手に感じてもらえれば、「ふたりきり」という状況をまた生み出すことが出来うるし、もっと大事なことには、たとえ関係が特殊に発展(つまり恋愛に発展)しなかったとしても、それはそれで充実した関係(つまり友達という関係)に持ち込めるからである。完全勝利とはいかなくとも、一つの勝ちの形ではあるだろう。それに満足できるかどうかはさておき。

つまり大転回というのは端的に言って、私の恋愛に「努力」という概念が持ち込まれたという一点である。それまでの私にとって、恋愛とは何か漠然とした運命的な営為であり、また先天的なものであった。時期が来れば私のような人間にも可愛らしい子が空から降ってくるようにして眼前し、恋人になるという淡い期待を抱いていたし、「リア充」は生まれながらにして「リア充」なのだと思っていた。それが否定され、頑張り次第でどうにかできることを発見できたというところにも、去年・今年の出来事の意義がある。まず誰かをデートに誘えるだけの度胸と実力を身につけ、そしていざデートに漕ぎ着くことができたとき、相手と楽しみ、相手を楽しませることに集中するということ。…断られることで全人格を否定された気持ちになる恐怖をおし殺し、教室やバイト先といった共通の枠組みから連れ出し抜け出すために手練手管を使うこと、自分の容姿を一定のレベルまで引き上げるために似合わぬ服屋や美容院に行く手間と金をかけること、人間性や振る舞いを矯正するために常に自分を省み、他者に相談すること、デートスポットの情報収集・パターン化、いわゆる「恋愛コード」の学習、出会いがありそうな場に出かけること…。
それまでは努力という概念が無く、ただ自分だけが楽しむことしか考えることが出来なかったことを鑑みれば、大きな進歩と言えるだろう。
努力という言葉が不適切だと思われるなら、投資と言い換えてもいい。

また「ふたりで一緒にいて楽しい」という視点の導入は、自分が今すべきことを指し示してくれたのと同時に、好きになるべき相手の理想像も確定させた。楽しむ・楽しませるためには、こちら側の能動的な行動次第でどうにかなる余地があると書いたが、しかしそれには限界があることもまた事実である。相手の容姿、性質、知性、ノリの良し悪し、気の利き具合などなど、種々の要素次第(それらを包括して「相性」と呼ぶのだろう)で楽しさの変動幅は大きく振れる。先述のイベントに加えて、それ以外の「楽しくないふたりきり」もいくつか経験してはじめて、「一緒にいて楽しい」ということが最も大きな比重を占める指標となった(ちなみに「深い話が出来ること」「色気があること」も重視しているが、それらは後からついてくるので序盤は気にしていない)。

以上、いくつかの経験を通じて、「一緒にいて楽しい」という視点の重要性を学び、それを達成するための努力の方向性を知ることができ、自分にとっての理想の恋人候補を確定させることが出来たことを述べてきた。またここでは説明していないが、私はこの視点を対女性だけでなく、全ての人間関係においても最優先するようになった。「一緒にいて楽しい」という視点の導入は、幼い恋愛観に一大転回をもたらしただけでなく、もっと大きな枠組みである人間関係観にも影響を及ぼしている。結局は、最良の恋人を作ろうとすることと、豊饒な人間関係を築くことは、ほとんど同じ営みなのかもしれないとすら思う。

ところで「一緒にいて楽しい」ということは友達にも成り立つことだが、同じ「一緒にいて楽しい」人間が異性の場合、友達止まりなのか恋人に昇華しうるのか、それが別れる要素はどこにあるのかという問題がある。ふたりきりが楽しくても、好きには至らない場合も充分に有り得るからだ。実はこの点について未だ有為な考えは浮かんでいない。楽しさ自体の性質の違いに内包されているのか、楽しさとは別の要素に左右されているのか、単純にタイミングや運の問題であって「楽しさ」さえ感じていれば全ての異性が恋人候補たりうるのか。もし何か考えが纏まったら記事にしてみたい。


以上のことと関連して次に私が記事にしたい話題は、「リア充」という存在の虚実についてである。「リア充」っぽいことをしていて感じる楽しさは、おそらく傍観者側の視点とプレイヤー側の視点とでは全く異なった捉え方をされているように感じる。期待していたような楽しさは無いが、かわりに予想もしてなかった楽しさがあるという言い方もできるかもしれない。「リア充」っぽいことの楽しさの虚実。あるいは、その虚実の区分が出来ていないがために起こりうる、茫漠とした妬みだったり、恋人という存在に求める役割の齟齬だったり。「一緒にいて楽しい」という視座が内在するにいたって、世の中に当たり前のように溢れている恋人たちを見る目も驚くほど変化したが、それはまた次の機会に譲ることとしたい。

ライブのはなし

※長いです。

***

去年の冬にとある歌手を好きになり、今年の春、その歌手のライブのチケットに当たった。
この先どれだけ長く、強く、この歌手を好きでいられるかはわからないが、少なくとも今の自分にとっては最高の歌手。そう言い切れるくらい、思い入れのある歌手である。

その歌手の初めてのライブのチケットを、私は2枚入手した。
チケットを手に入れた当時は、以前好きだった子にふられた直後のことであり、誰を誘うあても無かったのだが、ライブが開催される秋までには絶対に女の子を誘おうと決意していた。
当時の私のお誘いの戦績は、2人/1勝5敗である。「誘う」という行為がとてつもなく難しく、また敷居の高いことのように思えていた時期であった。

折しも、春に私の後輩として入ってきた子は、偶然にもその歌手の大のファンであった。
容姿とか振る舞いとかは私の好みとは違っていたが、その歌手の話題ではいつも盛り上がることができたし、聞くのが好きな私にとって、話し好きなその子とは相性が合っていた(ように感じていた)。

その子と出会ってから3ヶ月半が経った夏の夜のことである。ライブまではあと3ヶ月。
私はぼんやりとその子のことが気になりはじめていた。
ぼんやりと、漠然と、ゆっくりと気になっていったが、しかし、決定打には欠けていた。
そんな状況にありながら私は、ぼおっとしてたらその子も別の人とその歌手のライブに行ってしまうのではないかと焦り、ついに誘うことに決めた。

ライブは私にとって間違いなく今年一番楽しみにしてきたイベントであり、大仰な言い方が許されるのならば、生きる意味の一つであった。それくらい気合いの入ったイベントに誘うということはとても重い意味を帯びてくる。

誘った日は小雨が降っていた。
同じ帰り道で、私は彼女にライブに行く予定はあるのかと聞いた。
彼女はライブのチケットが売り切れたと勘違いしていた。当然、行く予定はなかった。
私は、「チケットなら一枚余ってるんだけど、行く?」と言った。
彼女は少し驚いた顔で、「ありがとうございます」と応えた。

私はそこそこ緊張していた。好感度が足りているかどうか微妙だったというのもある。
しかしライブそのものの魅力は彼女にとってもとてつもなくデカイはずなので、来てくれるという自信もあった。
余談だが、女の子が誘いに乗ってくれるときというのは、「自分への好感度+デートそのものの魅力度」が閾値を越えた場合であると考えている。今回の場合では、デートそのものの魅力度が爆発的に高かったから、好感度がマイナスでさえ無ければ(もとい、ある程度マイナスでも)断られることはないだろうと踏んだのだ。

こうして3ヶ月後のライブまで、私と彼女の間には「契約」が生まれた。
契約という言い方は馬鹿らしいけど、要するに互いに予定がある状態であり、それは男にとってはなかなか誇らしいことであろう。

しかしそれから、私は彼女に対してどのようにアプローチすべきか非常に迷った。
というのは、彼女は明確に男を区分するタイプの女の子であるというのがうすうす分かり、しかも明らかに私を恋愛対象としては見ていないというのが理解できたからである。彼女の、恋人にしてやってもいいと思える許容範囲がかなり狭く、その狭い領域に入っていけるほどの魅力や相性が私にあるわけでもなかった。許容範囲というのは、彼氏彼女の関係になれるか否かという場面で、好感度以上にポイントとなる。そしてそれは運であり、こちらからはどうしようもない。
もしかしたら、元彼のことを引きずっていたのかもしれない。本人はそれを否定していたし、今がどうかも分からないけれど。

そして何より、そういう難しさを打破してやろうと思えるほどには、私の気持ちは成長していなかった。
あえて意識して成長させなかったというよりは、そこまで彼女が私の好みじゃないのに、どこか無理に彼女の良いとこ探しをしている自分に気付いていたからであろう。
これは寂しいことであるのと同時に、しかし私にとっては大変な進歩でもあった。
「2人きりを経験するまでは、惚れたら負けである」という鉄則を、私は初めて守れたからである。以前の自分なら、誘えた時点で「この人は運命の人だ」という錯覚に溺れ、可能性のない人にのめり込んでいただろう(デートが初回だった場合、女の子はこちらに好感をそれほど抱いてなくてもお情けで来てくれることがあるからである。だからこそちゃんとした努力をしていれば初回のデートには必ずといって良いほど漕ぎ着けるし、逆に言えば2回目以降があるということはそれなりの好感を持たれていると判断して差し支えないだろう)。
2人きりを(できれば複数回)経験しない限り、好きという感情はあくまで「仮」だと考えるべきである。
とくに成人ならば、なおさら。

というわけで、最初私はこのライブを「終点」にして3ヶ月の間で何度かデートできればいいなと考えていた。n回目のデートとしてライブに2人で行き、そこで気持ちを打ち明けるというのが、最初期の計画である。
しかしそれが色々と難しいことを察してからは、ライブを「起点」にしようと考えた。ライブをきっかけとして、その後いろいろ誘うという方式。この方針を採用する場合は、それまでの3ヶ月をひたすら(言い方は悪いが)好感度稼ぎに費やすことになる。

しかし、その案も自分の中では無くなっていった。
ライブに誘った月に、もう1人気になる子ができたからである。

その子は外見・内面・振る舞い・頭の良さ・面白さという、私が大切だと思う項目全てにおいて満点を付けられるくらいの存在であった。ここまでポイントが自分の中で高いと、逆に私はあきらめる。私程度の男では到底手におえないと考えてしまうからである。だから私はこの子のことを好きになることはない、と思っていた。その子のまだ都会慣れしていない感じが他の男に受けないのか知らないが、その子には彼氏がいなかった(いない)が、もしそのある種の野暮ったさが抜けて洗練されてきたら、もう私の手には届かないところに行ってしまうだろうと感じていた。

ここまでレベルの高い子を好きにはならない、そう感じていたとはいえ、やはり私は2人をたびたび無意識に比べてしまったし、そのたび自分の「ライブの子」に対する感情が、もはや「仮」にすらなり得なくなっていることを悟った。こんなにどストライクで素晴らしい女の子、しかも今を逃せば一生アプローチ出来ないかもしれないくらいポテンシャルの高い子を見ないふりをして、好みでもなければ可能性も低い子をそこそこのやる気で追いかけるのは、かなり難しいことではないのかと。

そうして夏が過ぎ、微妙な感覚を抱えたまま、9月に入った。
心の中に2人の女の子が同程度に存在しているというのは、私にとっては極めて珍しいことであった。

そんな状態でありながら、私はこの夏の間に5回ほど、他の複数の女友達と2人で出かけたりサシ飲みしたりした。
誘うこともあれば誘われることもあったし、なりゆきでそうなった場合もあったが、ともあれ去年までは異性と2人きりで出かけるという経験が(どんな位置づけの異性か、とか、誘ったのか誘われたのか、という観点を抜きにしても)ほとんど無かった自分にとっては、非常に意味深い夏になった。

何より一番ありがたかったのは、「ああ、自分って少なくとも、生理的に無理とか思われるレベルからは脱してるんだな」という自信がついたことである。
そして去年、大好きだった子との初回デート(初めて自分から誘い、初めて好きな子との2人きりを経験した)で壮絶な爆死を遂げた私は「たまたまこの子と相性が合わなかったから楽しくなかったのか、それとも、どの女の子との2人きりをも自分はそもそも楽しめない人間なのか」という強い疑念を抱えてきたのだが、その答えが後者ではないということがわかったというのも極めて大きかった。一度、「友達」という位置づけではあるが、その子ととても楽しいデートが出来たことがあるからである。それからようやく、1人の男としての自分を自身で多少なりとも認めることができた。妙に緊張することも無くなった。

そうして私はだんだんとこの手の力学を身体で実感していくようになった。
この人は誘ったら来てくれるだろう/誘っても来てくれないだろう、という判断だったり、女の子との距離感の単純な測り方だったり、である。ライブの誘い以降、現時点で本命・友達問わず累計5人を誘って10勝0敗だから、多分この感覚は間違ってはいないだろう。(負けなくなった理由は単純である。負けそうな子は誘わないから)
基本的な約束事も身につけた。お会計、エスコートの仕方、店の選び方、話の広げ方、気の利かせ方、服、などといった細かいポイント。たとえば階段を下りるときや上るときは、自分は相手の上に立ちますか?下に立ちますか?とか。
もてる男・もてない男の判断は一発で出来るようになり、女性を見る目だけでなく、男性を評価する視点も激変した。

こういう実感はやがて積極性につながっていく。
これだけの経験値を獲得し、膨大なお金と時間を費やしてきたのだから、先述の超好みの女の子に対しても、今なら対等に渡り合えるんじゃないか。そう考えた私は、半ば思いつきで彼女を誘うことに決めた。折しもその時期は、とある水族館のイベントが開催されていて、ちょうどよい口実もあったのだ。

うまくいく確率は70%くらいかなぁと思っていたし、会話の分岐も全部想定して誘ってみたが、一番都合の良い形で予定を取り付けることが出来た。それから一週間後の1度目のデートでは、イベント自体は個人的にはそうでもなかったが、そのあとのディナーがめちゃくちゃ楽しかった。

私は、この子だな、と思った。
この子なら、のめり込むように好きになれると思った。

かようにして、今年一番のイベントであるライブは、「終点」にも「起点」にもなることはなく、「その1回限り」という位置づけにおさまった。ライブに誘った子にとってはもともとそういう位置づけだったろうと今では思う。しかしその子との関係における「装置」としてのライブの価値は大きく低下したとはいっても、私の(そして彼女の)大好きな歌手のライブである。楽しみでなくなるわけがない。換言すれば、ライブ自体は変わらず楽しみだったが、その子と2人という状況は別に楽しみではなくなってしまったということになる。
もちろん2人きりを経験してから何かが変わるかもしれなかったが、その可能性は低いだろうと私は踏んでいた。
何も変わらないよね、という確認作業に終始するだろうという予想があった。
結果からいえば、その予想は外れなかった。

ライブ当日。
ほんの一ヶ月前までは今年一番「重要」だと思っていたライブの日が、ついに来た。
ライブ会場のすぐ近くの駅前に、ばっちり化粧をした彼女が立っていた。
いつも結んでいる茶色の髪の毛は今日は流れていて、こんなに髪が長かったのかと驚いた。
秋の本格化した夕暮れは早く、空はだいぶ暗くなっていた。

私は彼女とライブ会場の近くで開場を待ちながら、今日のセトリの予想(というか妄想)とか、この曲だけは絶対歌って欲しいだとか、この歌詞が良いとか、そんな他愛のない話をした。

会場に入ってから分かったことだが、私がとれた席はとても良いとは言い難いものだった。
予想外のところで出鼻をくじかれたなと思いつつ、開演を待った。会話はそこまで盛り上がることもなく、微妙な沈黙もたびたび流れた。

19時ちょっと過ぎに、照明が落ちた。声援と共に会場内の人間がみんな立ち上がった。
私は感動の余り泣いてしまうのではないかと思っていたけれど、いざこの時を迎えてみると案外冷静だった。私がその歌手をそこまで好きではなかったというよりは、2人以上で居るとそっちに気が回って対象に感情移入できなくなるという私の性質がはたらいたのだろうと思う。1人でいるときに泣くことはあっても、人前で泣くことなど全然ない人間なのだ。無論、涙は流れなかったけれど、とてつもなく感動していて、盛り上がっていたことは間違いない。

ともあれ、大好きな歌手の「いま、ここ」を共有できているという思い、彼女(歌手)の人生の最先端にこの数時間だけは居られるのだという特権意識はやはり感動的だった。有名な曲が流れると会場のボルテージは盛り上がったし、弾き語りは圧巻の一言に尽きた。魂をもって行かれるほどの格好良さだった。

しかし特筆すべきは、私の隣で盛り上がっている彼女の好きな曲、それもいつものライブで歌われないような曲が、今回に限ってふんだんにセトリに盛り込まれていたことである。きっと彼女にとってとても思い入れのあり、彼女の誰にも明かしていない大切な思い出を惹起させる、そんな曲を彼女は生で聴けているのだ。彼女は今なにを思い出しているのだろうなぁと、私は曲に聴き浸りつつも考えた。
そしてとくに大穴だと思われていた曲の前奏が始まった瞬間、彼女はこっちを向いて、満面の笑顔で「やった!」と言った。私も「おおお!」と応えた。

――こうして夢のような時間はあっという間に終わってしまった。
会場を出るとき私は彼女に、「○○(その子の名前)を誘って本当に良かったよ」といった。これは偽らざる気持ちだったし、素直に言うことが出来たが、それは彼女にとって特にお得なセトリだったからそう言ったのであり、悲しいかなそれ以上の意味はなかった。良い意味で、このライブは彼女のためにあったようなものだとすら思った。

ライブが終わったあとに特有の虚しさを思い出しながら、魂がどこか抜けたようになりながら、わたしたちは細かいマニアックな話を展開しながら駅まで歩いた。こうして東京のまちを偶然仲良くなった女の子と歩くというのはいつも、のちのち印象深く思い出される。

大好きな歌手のライブが一瞬で終わってしまったことに対する虚しさもあり、ずっと楽しみにしてきたイベントがついに終わってしまいこれから何を拠り所にして生きていけばいいんだという淋しさもあり、さりながら、ライブを「2人で」楽しんだわけではなく、あくまで「2人一組で・それぞれ」楽しんだということに対する微妙な気持ちも否定はできなかった。楽しかったのはあくまでライブそのものであり、2人でいること自体が必ずしも楽しかったわけではなかった。
それは予想していたことであり、悲しいことでもない(彼女に恋愛感情をもはや抱いていなかったから)が、もやもやはやっぱり残った。

地元の駅の近くで夕食のラーメンを一緒に食べて、それからわたしたちは解散した。
彼女は「今日はありがとうございました」と言い、私は「こちらこそ楽しかったよ、ありがとう、またバイトで」と言って別れた。

彼女と私の「契約」はかようにして終わり、私にとっての彼女との物語もこの日で終わった。
あとはひたすらこの物語が思い出と化していくばかりである。
私はこれから彼女と無関係の人生を歩いて行き、彼女も私と無関係の人生を歩いて行くだろう。そんな2人がこのライブでだけは、互いの時間を共有していたのだ。それはやっぱりふしぎなことだし、のちのち味のある思い出となるのだろう。

ともすれば彼女のこの日の思い出から私という存在は注意深く疎外されてゆくのかもしれないが、それでも良い。たまに頭の片隅にでも思い出してもらえるなら、それで私は満足である。

昨日と明日

ちょうど二ヶ月前の記事で、気になる子が2人いるという話をしたことがある。
本命の子を数ヶ月後のライブに誘い、対抗馬の子にはまだ何もアプローチしていない、という段階の話だったと思う。
今回はその後から現在までの進捗状況について書く。

7月4日:本命の子を3ヶ月後のライブに誘う。OKもらえた。
9月12日:対抗の子を水族館のイベントに誘う。OKもらえた。
9月21日:対抗の子とデート(1度目)。
9月28日:対抗の子を映画に誘う。OKもらえた。
10月10日:本命の子とデート(1度目)。
10月12日:対抗の子とデート(2度目)。同日、対抗の子を3度目のデートに誘う。OKもらえた。


7月に本命(Aとする)を誘って、それ以降10月のライブまでの3ヶ月間、何のアクションも起こさなかった。
多分誘っても来てくれないだろうなと感じたのが一つと、そこまで自分の気持ちが相手に向かわなかったというのが一つ。
それは相性が合わないことを感じたからでもあり、対抗(Bとする)の存在が自分の中で大きくなっていったからでもある。

結局、9月にBにアクションを起こす。
初回では、デートスポットのチョイス、誘い方、誘うタイミング、どれをとっても我ながら非の打ち所の無い誘いが出来た。ここまで上手に誘えたことはなかった。幸運なことにBも「ちょうどそれに行きたいと思ってたけれど、誰かと行く予定はない」という都合の良すぎる状態だった。
それから実際にイベントを見に行き、夕食を食べ、もとから外見・内面・振る舞い全てAよりBの方が好みだったのだが、相性もBの方がぴったりくるなと感じた。
この3ヶ月の間で5人の女の子と合計10回デートに行って思ったことだが、2人きりでデートに行ったときに感じたことは嘘をつかない。どんなによさげに見えても「2人きり」がつまらなかったらその関係性に未来はないし、2人きりが楽しいということは何よりも大きな事実となってくる。

まだAとの2人きりを経験してない段階で、私の中で「本命-対抗」は逆転した。
Bを本命に据えて、本命だったAが対抗となる。

そして10月。Aとの、おそらく一生でもう二度と無い「2人きり」は、とても楽しかった。
でもそれはライブが楽しかったのであって、「2人きり」が楽しかったわけではない。
Aのことを意識していた期間というのはかなり短いものだったけれど、しかしそれでも、2人の間に約束(予定)がある状態が終わる、3ヶ月間の「契約が切れる」というのは、恐ろしく寂しかった。この子との思い出が、この日で終わってしまう淋しさや、相手の思い出から自分という存在が注意深く疎外される予感があり、もし私がAのことを(まだ)好きだったならば、とても辛かっただろう。いずれ詳しく書いて記事にしたい。

昨日がBとの2度目のデート。夕食→映画→居酒屋、という流れ。
前回の反省だった「自分から話題を振る」「相手の子の面白さをもっと引き出す」「褒める」の3点も全部こなせたし、正直3度目のデートは絶対に断られない自信があった(実は2度目の映画デートを誘うときはだいぶ日和った)。

唯一残念かなと思ったのは、映画がそこまで楽しくなかったことである。

***

勝負は今回の2度目のデートだと思っていた。
3度目のそれで、その結果を相手に問う。

二人だけの国・後日談

二人だけの国(http://metroaqua.blog52.fc2.com/blog-entry-961.html

それで昨日、彼氏(後輩)と二人になったときに、「2人がいちゃついてるのを見ると、ここに居ちゃいけないなって感じる」ということを伝えた。本来なら、「じゃあ2人にどうして欲しいのか」ということもセットでお願いすべきなのだろうが、自分自身それを分かっているわけではなかった。無論別れて欲しいわけじゃない、身体的な接触をやめて欲しいのか、やめて欲しいとしたらどこまでならOKなのか、みたいなことすら自分で把握していなかった。

見切り発車でこういうことを伝えたら、後輩は何そんなへこんでるんですかみたいな風に笑って、「でも、先輩の前だといちゃつきたくなるんですよねー」と言った。私は心の底からこの後輩を可愛いなと思った。彼らの関係は「公認」されてはいないのだ。こんな幸せな関係を誰にも言えない、でも誰かに見て欲しいというもどかしさや欲求はとっても理解できるし、ただ1人だけ事実も文脈も知っている私の前ではせめて、という気持ちはよく分かるし、多分「わざと」いちゃついてるんだろうなということもうすうす感づいていた。

器が小さいのは自分でも分かってて、それを言ってしまったことに対する淡い自己嫌悪も今はあるが、何も感じていないように偽ってふるまうのは後々必ずこじれる原因となるだろうと考えたので、自分の気持ちを伝えることが出来たのはよかった。この手の状況では、自分の欲求が通るかどうかということはあまり本質的な問題ではなくて、むしろ自分の欲求を伝えられるかどうかが重要だったりするかもしれない。

わざとやってるなら、それは可愛いなと思えるし、自分の気持ちも伝えられてなおかつその気持ちに応えてくれるということも約束してくれた。

蛇足だが、自分の欲求をスマートに角が立たないようにして伝えたり通したりする習慣や技術はちゃんと身につけておかなければならないと感じた。

琴瑟

妹と、妹の彼氏が東京に2泊3日で遊びに来た。
兄たる私は2人のせっかくの旅行を邪魔しちゃ悪いなと思い、また例のごとく2人の世界に相伴するのも気まずそうだとも思ったので、どこかでちょっと落ち合ってお茶できればそれでいいやと考えていたのだが、「せっかくだし3人で遊ぼうよ、私たちもう4年近くも付き合ってるし、『2人きり』という状況にはこだわらないよ。3人で遊んだ方が楽しい」とお二方ともが言ってくれたので、2泊3日付きっきりで私も一緒に遊ぶことにした。

妹の彼氏とは既に面識があり、何度か会話を交わしたこともあったが、こうしてまとまった時間ずっと一緒にいるというのは初めてであった。私とは真逆のタイプの人間であり、良い人だとは知っていながら最初はやはり緊張したが、とても面白く、気が利いて、純朴なスポーツマンだった。私とは何一つ競合するところがない。そして私はすぐに彼のことを気に入ったし、彼もすぐに私のことを気に入ってくれたようである。

2泊3日は実に実に充実した日々だった。とても疲れたし、とても笑ったし、とても楽しかった。
2人と別れるのはとても寂しかった。最初の杞憂はどこへやら、である。
羽田空港で飛行機を待っている間、ふたりが「やっぱり、3人で遊べて良かった」と言ってくれたのが、私は本当に嬉しかった。そして、冬に私が帰省したときにまた3人で遊ぶ約束を交わした。

さらりと記したが、「3人で遊んだ方が楽しい」という、妹とその彼氏の台詞は、その関係が本物でなければきっと言えない言葉である。そして私は2泊3日という時間のなかで、1秒たりとも気まずさを感じることはなかった。ふたりの関係は掛け値無しの本物であった。互いが互いを愛し、知悉し、それなりの時間に裏打ちされた信頼を築き上げていた。だからこそ、私はそこに居ないように振る舞うことも、居なければ成立しないように振る舞うことも許されていた。それがどんなにかけがえのないものであるかを、今の私は知っている。

もう一つすごいなと感じたのは、互いが互いのためにSNSを辞めたことである。
facebookで近況を知り合えることで、互いに嫉妬し、喧嘩の火種になったから辞めたのだそうだ。
互いの極めて強い独占欲や嫉妬心のために、今の世代にとって非常に重要なツールをも捨てるというのは、そうそう出来ることではない。

2人の関係に心底惚れ惚れしつつ、しかし、軽い畏怖のようなものを覚えたこともまた事実である。
本物の関係とはここまで見事なものなのかということを目の当たりにして、ちょっと感覚が狂ってしまったような気がする。
きっと、「好きなのかなぁ、どうなのかなぁ」と思ってる時点で、もうそれは違うのだろう。
もっと自分の好みにこだわってみるのもありなのかもしれない。

恋愛観②:興味のベクトル

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恋愛観①:「10年体制」

便乗して書きます。
最近の関心事が専ら「こんなこと」ばかりなのはなぜかということを、歴史的経緯も交えながら説明したい。

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みかきもり

Author:みかきもり
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「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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