妖lunaクリア

妖々夢lunaticをクリアした。とてもうれしい。
4面のパターン化とか全然甘かったけど、まあよしとしよう。
それにしても、ボム無くなってから気合い避けしている時間が一番アツいですよね。

永lunaクリアから8年。
いつか取り組もうと思っていたら、こんな時間が経ってしまっていた。
8年越しの夢が叶ったぞ。

門司を見に

夜勤時の思いつきで、青春18切符で旅に出ることにした。
各駅停車でひたすら北上して、北九州あたりで一泊し、次の日に帰宅するという簡単な旅程を考えた。

しかし当日になっても、20代前半のころよく経験したような旅の前の高揚感はまるで無かった。
ここに至って切符代を出すことに最後まで躊躇している自分にも半ばがっかりしていた。しかし一旦電車に乗り込んでしまえば、あとは旅情が私を支配するだろうと考え、切符を買った。

駅で「なのはな号」を待つ間、ここ数年で急速に開けてきた町並みを眺めていた。私の職場や、いつも通っているスーパーや、近所の学校が見えた。その時、ここには1つ1つの宇宙が瞬いていて、全く関係のない銀河系どうしがチャネルによって繋がっているのだという、不思議な想念が私に訪れた。地表と宇宙という区分が揺らぎ、自分が何か1つの巨大な営為の一部である(一部になった)という感覚。夜勤明けで疲れた頭が戯れに思い描くデタラメのような概念に、ほんの数分だけ私は虜になった。
そのチャネルは相互の努力によって築かれ、その「無数さ」に私は畏怖を覚えた。

…「なのはな号」に乗り、旅が始まっても、気分が乗ってくることはなかった。
2回の乗り継ぎを経て、県境を越えても、変わらない。これには本当にびっくりした。
楽しみにしていたスイッチバックも、球磨川の雄大な眺望も、そこまでの感興をそそらなかった。単調な車窓も、ジョイント音も、ただただ退屈なだけだった。もはや八代で引き返してしまおうか?――そんなことまで思ってしまった程である。

車中でウトウトしているうちに八代に着いた。
せっかくだから(何がせっかくなのか、もう全くわからなかったが)門司までは行ってしまおう、明日は新幹線で帰ればいいやと考え、鹿児島本線に乗り換えた。そこから門司までの間で、記すことはあまりない。旅情を焚きつけることはもうとっくにあきらめて、しかし充電が切れかけていたスマホをいじることも出来ず、ただひたすらに門司到着を待った。八代から門司までは本当に長かった。実際に時間もかなりかかり、福岡に入るころにはもう夜が近かった。

門司に着いたのは20時過ぎであった。
門司港レトロの風情を楽しもうかと思ったが、趣深かった門司港駅は駅舎が工事中で、外も風が冷たく、しばらく散策しても全く体があたたまってこないほどだった。夜の海は暗く、街灯もなんだか寒々しい。
散々だな、と私は思った。

どうしてここまで一人旅を楽しめなかったのか。
わくわくできるモノが少なくなり、わくわくできる時間がだんだん持続しなくなるというのは、これほどぞっとするものなのか。子供のころに周りの大人がよく適当な感じで、ある種の社交的文句みたく、「楽しいことないかなー」とか「若いうちは楽しいことばかりでいいねー」とか言っていた、あの軽い口調の裏には、こんな遅々とした絶望があったのだろうか。

生きることを考えていくと最後には、「生きているだけで正解なのだ」と思う。
しかし私は認めたくない。この無為な「鉄旅」と同じように、人生があまりに無為に過ぎていき、しかも「それでいい」というのは怖すぎる。
"どこかに「正しい生き方」があって、未だそれを探しきれていない"という方が、何倍も救いがあるような気がして、でもそれは間違っているんだろう。

その日は博多のネットカフェで朝の始発を待ち、明けて熊本までは各駅停車で戻った。
復興途上の熊本城を見てから、新幹線で鹿児島に帰った。


小説を書く

数年前から挑戦しては何度も頓挫している。
そもそも小説を書こうとする人は、どういう動機で書き始めるのだろう。単純に何かの物語を書きたいから、という場合もあれば、何かを解き明かしたいから、というパターンもあるかもしれない。
私自身はやっぱり、大仰なものでなくてもいいから何らかのテーマ性が欲しいと思う。
しかしそもそも私はどのようなテーマ性を問題に出来るのか、またそれを問題にしたいと思えるのか、そして仮にそれらがうまくいったとして、どのような結論を決めることが出来るのだろうか。
そもそもそのテーマにはあらかじめ答えを出してから小説を書くべきなのだろうか。とか色々とモヤモヤしてしまう。きっと私の好きな小説には、必ずと言っていいほど何らかのテーマが伏流しているからそう逡巡してしまうのだろう。やはり最初は、あえてテーマ性とか考えずに好き勝手書いてみるべきか。

将棋

将棋ウォーズで指していて、1級になってもう一年が経とうとしている。
手筋を勉強したり詰将棋とかも解いたりしているが、なかなか強くなりませんなあ。
勝ちの将棋を連続で逃したりなどするともう心バキバキといった趣で、洒落にならんくらい腹が立ちますよね。

負けると悔しいから強くなりたいと願っていろいろ勉強したりするんだけど、藤井六段やその他のプロ棋士を見ていると、どれだけ強くなってもこの悔しさから逃げることは出来ないんだって思って、それがなんだか示唆的だ。技術的な弱さと、精神的な弱さに向き合っていくというのは、本当に難しくて不毛で。でも結局はまた将棋の駒の感じがなんだか恋しくなって戻ってきてしまう。早く初段になりたいなぁ。

こぎいでな

私が小学生の時分、数年間だけ過ごした島に旅行してきた。
そこで生まれたわけでも、長い年月を過ごしたわけでもないのに、そこを訪れるのは「旅行」というよりもむしろ「帰省」という感覚がぴったりくる。

私がよく遊んでいた公園の遊具は、長年の風雨でだいぶ朽ちていたが、それでもまだ撤去されずに残されていた。今も近くの子どもたちが遊んだりしているのだろう。島を離れて20年弱になろうとしているが、私が島を出て、そして上京して、帰ってきて…という感じで生きてきたその間じゅうずっと変わらず「ここにあった」というのが、びっくりするほど不思議な気がした。
この島の遊具や、まばらな集落や人、そして鄙びた海や空がずっと私の帰りを予感していたかのようにそこにあって、細かな記憶の粒が甦ってくるような心地がする。これは本当に不思議だった。

そんな感覚の名残と、帰りしな同窓生が船の中で見せた寂しそうな背中とが、私に忘れがたい余韻を残させたのであった。

眠らない

新しくバイトを始めた。コンビニの夜勤である。
色々覚えることも多くてなかなか大変だが、試験勉強と並行しての夜勤ということで、それなりに日常生活に適度の緊張感が戻ってきて精神的に張っている。良いことだ。
試験に合格するにしても、不合格にしても、1年を目途としてお金を貯めて、再び東京で暮らすことが出来たらいいなぁというのが今のところの願望である。

今日はまだ数回目といったところだが、2時の雨上がり後の涼しい空気を感じながら帰るのはなんとも清々しくて良かった。でも、つい数ヶ月まで続けていたバイトのことを忘れたくなくて、従業員番号のパスワード4桁を前のバイトの従業員番号にしたのが我ながら可笑しかった。

自動車学校の方は、仮免をようやっと取ることが出来た。
車の運転は本当に難しい。そして怖い。でも今のところ全然楽しくないのにもかかわらず、自分はいつか運転にすっぽりはまっちゃうだろうなという謎の重力みたいなものを感じる。
色々慣れないことばかりで疲労感もあるけれど、とりあえずは試験勉強メインで詰めていかなければなぁと思います。

『モアナと伝説の海』②

1回目、2回目と観たときは、それこそ映像と音の迫力に飲まれっぱなしだったけれど、この感覚どこかで味わったことがあるなぁってずっと考えていた。そして今日(3回目)観に行って気付いたけど、これはさながらディズニーランドのアトラクションに乗っているような感じだ。

どうして3回目を観に行ったのか?

初めてこの映画を観たとき、直感的に「これはとんでもなくヤバイ作品だ」と感じたのだが、映像とか音とかそういった「表層」が強すぎて、そっちのほうに感性を全部持って行かれてしまったがゆえに、物語の中に入り込む余裕が無かった。アトラクションとしての要素が強すぎて、いまいちこれはどういう物語なのかが把握出来ず、なんとなく物足りなかった。だから、この作品を繰り返して観ることによって、そういう「表層」に慣れ、したがってこの映画をアトラクションとしてだけではなく、あらためて読み物として楽しめるだろうと考えたのだ。
そしてその試みはある程度成功した。

主題は「本当の自分の確立」。
もしこれをモアナが求めていくだけなら、この映画はただありきたりなテーマについてありきたりな結論を出しただけの、ちょっと映像が綺麗な作品だったな、という印象だけで終わったと思う。この映画のしっかりしているところは、色々なキャラクターが各々「本当の自分」について異なった問題を抱えていて、それを各々の異なった方法で克服していく、あるいは受容していくという点にある。多角的にアプローチしていくことで、ありふれたテーマが素直に心に届いてくる。

モアナは最終的に「本当のわたしは、島も好きだし、海も好きだよ」(だから、海に出っぱなしなわけじゃなくて、ちゃんと島にも帰ってくる→ラストで島に積まれた歴代の石の上に貝殻を乗せるシーンが象徴的)というところに行き着く。タマトアは大嫌いな「本当の自分」をゴージャスさによって徹底的に隠すことによって、新しい自分を発見することが出来た。

しかし、この主題について最も深く葛藤してきたのは、やっぱりマウイなのだと私は思う。神の釣り針で成果をあげることで、人々の称賛を得て、根本的な愛情の渇望を取り繕ってきたマウイにとって、神の釣り針というものは「釣り針がなければマウイじゃなくなる」と言わしめるほど大切なものだった。マウイが思う「本当のマウイ」は、神の釣り針という道具に依拠せざるを得ないほどに脆弱なものなのだ。だからこそ、最後の「釣り針があっても、なくても、俺はマウイだ」というセリフによって、マウイが自分の最も奥底にある問題に打ち勝ったんだなぁというのが観客に分かるようになっている。マウイ、ほんとかっこいい。

そして、だからこそ、テ・フィティに着く前に自信を失っているマウイに対してモアナがかけた、「(あなたを)神々が見つけたのには、理由があるのよ。…でもね、あなたをマウイにしたのは、あなたよ」という言葉は、マウイにとってどれだけ計り知れない価値を持つかが感じられるようになっている。神の釣り針のおかげじゃない、愛情に飢えていたからじゃない、本当のマウイが強くて優しかったから、人々を助けてこられたんだと。
こんなにダイレクトな言葉をかけてあげられるモアナの優しさも素敵だなぁとしみじみ思うし、こんな風に誰かを認めることができるモアナすごいとも思う。こんな風に他人を認めてあげられるというのは、強さ以外の何物でもないから。

そしてそして、このすぐ後にマウイが言った「もし俺が海なら…そうだなぁ、巻き毛の、お姫様じゃない子を探して、同じことをするだろう」という言葉も素晴らしい。このセリフの伏線として、マウイがモアナをお姫様よばわりしてまともに取りあわないくだりがある。マウイがあえてモアナのことを「お姫様じゃない子」と呼ぶことで、マウイもまたモアナを認めたのだ。


この「認め合える関係の強さ」というのが、『モアナと伝説の海』における副題なのではないか、というのが私の意見である。
確かに、映像も音も文句なし、アクション映画としても最高で、おばあちゃんのシーンも感動的だ。ディズニープリンセス像を覆したという点で、ディズニー史において意義のある作品となったかもしれない。しかし『モアナと伝説の海』を白眉たらしめている決定的な要素というのはそこじゃなくて、「モアナとマウイの関係」の中にあるんじゃないかなぁと思う。少なくとも私の中でこの映画が特別になった理由はそこにある。
認め合える相手と協力して、互いの瑕疵を治癒していく姿は、本当に美しくて心打たれる。真の関係性というものはこうであるべきなのだ。たとえ一時的には揺らぐことがあっても。

『アナと雪の女王』にも通じるものがあって、存在の一番根っこにある瑕疵が浄化されるような感じ。
どちらの映画も、心の深海に届いてくる光のようで、私の行き先を照らしてくれるのかもしれない。

『モアナと伝説の海』

『モアナと伝説の海』観た。すごく…すごかった。悲しすぎる出来事があると逆に泣けない、みたいな感じで、ただ「圧倒されたなー」という記憶しか残らなかった。映像の美しさと音楽の高揚感が強すぎて、物語としてどうだったか?とか、何を伝えたかったのか?とかが全然わからなかった。分からなさすぎたので次の日もう一回観に行ったけど、やっぱりよく分からなかった。映画というより、なんかライブを観ているような感じ。『ライオン・キング』に近いものがあるかもしれない。自分の中でこの映画が消化されるまではまだ時間がかかりそうで、そのあとにやっと感情が追いついてくる感じなのだろうなぁ。

玻璃の心

「親友はずっと親友でしょ、ね」
私は肉を焼く手を止めて、突然いつもの思索の穴に放り込まれてしまった。
ええと、ここで思い出すべき言葉は何だったっけ?とにもかくにも、その言葉によって呼び起こされた感情を考えることを留保して、私は肉を焼いて、彼女と会話を続ける必要があった。その為のマントラなんてあったかな。「誰もお前のこと見てないよ」?違う。そうこうしているうちに、心の出力が途端に下がっていく。何でこんなことしてるんだろう?もう会わなくてもいいかもな。そんなことを一瞬でも考えている自分にまたびびる。

現状、異性として好きかどうかという判断はさておき、かつては自明に成立していたこの友情も、今となっては必死こいてギリギリのところでバランスが保たれているような、そんな危ない関係性になってしまったことを、少なくとも私は感じていた。相手はどう感じているかはわからない。抜群の洞察力と掌握力を兼ね備えている彼女のことだから、もしかしたら私の気持ちの変化を(もしくは変化の兆しを)、敏感に感じ取って、先手を打って境界線を巧妙に引いていってるのかもしれない。でもおそらくは、さすがの彼女でも、いわゆる「男女間の友情」を無垢に信じているという可能性の方が高い気がする。わからない。この人のことは、知れば知るほど分からなくなる。

先のフレーズは、しかし全然違う文脈から出てきたものである。「恋人と違って親友はずっと親友でいられるから、私たちの関係はずっと続くよね」という極めてポジティブな意味合いだったことは頭ではわかっている。そのときもわかった。わかったのに、「え、どういう意味だ?」と、心は思ったという事実が、とても大きい。それは君の定義じゃないか。それは君が勝手に引いた境界線じゃないか。

「互いに異性としての魅力は感じないけど、人間としての魅力は感じる」みたいなものが共通理解としてあるから、この男女間の友情は自明に必然に成立する――という考え方は、確かに昔はあった。名実ともに、互いの人生の中でも稀有な友情であることに間違いはない。でもどうやら、その前提となっている考えには実は色んな瑕疵があるんじゃないかということに気付き始めたのは最近のことである。そのとき彼女には彼氏がいて、私には好きな人がいたから、「偶然に」そういう形式を(私は)選ばざるをえなかったのではないだろうか?彼女は喜んでこの形式を選んだのに対して、私は仕方なくこの形式を選んだのではないだろうか?

友情と恋愛感情とを、人は実に見事に、仕分けられるものだよな。私には全然無理だ。友情と恋愛感情はいつだって溶け合っている。親友のことを好きになることだって全然ありえることだ。でもどうやら、世間的にはその考えは少数派みたいだし、彼女にとっては全くそぐわない類の考え方みたいだ。色んなことを同じように感じていたように見えて、実はこんなに互いを勘違いしていたんだなというのは、もはや畏怖の領域である。

私がこのもやもやした気持ちを、もっと確たるものに昇華させないように必死で我慢しているのに、という気持ちはやっぱり無視できない。少しはこの気持ちの存在を認めてあげないといけない。私が今こうして傷ついているのは正しいと、私は認めてあげなくてはいけない。こうして怒っているのは正しいことだと。自然なことだと。

ああ。さっき唱えるべきマントラは、「自分の気持ちも大事にする」なんだ、と思った。
大事にするというのは、決してその気持ちに基づいて行動するということを意味しない。「自分が今こうして感じていることは、普通のことなんだ」って、相手や世間じゃなくて他ならぬ自分が認めてあげること。お前はおかしくないよ。そうしてわだかまりは溶けていく。

焼肉を食べて、映画を見て、家まで送って、いつものように素敵な時間だった。翌日は彼女の誕生日だったので、ちょっとしたプレゼントを渡した。きっとこの関係は、気持ち的にも構造的にも(互いの社会的地位の変化によって、物理的に会える時間が作れなくなるという意味)、思うほど永くは続かないだろうという予感が私にはある。だからこそ、私はどうしても今回の彼女の誕生日を祝いたかった。誕生日は嬉しい日であるべきだけど、その実、寂しい日であることのほうが多い。次に祝えるという保障はどこにもない。誕生日を祝うというのは友達と恋人とではどんな違いを作るべきかとか考えずに、どう思われるかなんてもう知らない、見返りなんかもらえなくてもいい、私は祝いたいから祝うんだという感じだった。
でも案外、世の中の「男女間の友情」なんてものは、こんな風にして成り立っているように見えるんだろうなという感じがする。

素直に自分の気持ちも認めてあげて、誕生日も祝えて、そのときの雰囲気も壊すことがなくて、今回の私はよくやったなと思う。この関係と、この日感じたことを糧にして、私はしっかり大人になっていきたい。

メトロノーム

私は決して優しい人間ではない(誤解されがちだがこれは謙遜などではなく、単に事実を述べているに過ぎない)。しかし、優しい人間でありたいという気持ちが非常に強いというのもまた事実である。「物腰が穏やか」「親切だ」という意味では、確かに私は「優しげ」である。それが仮に「優しさ」とはその内実を異にするものであれ、一定の価値があるというのは私も同意である。しかしこの「優しげ」と「優しさ」を長い間ずっと取り違えていたために、時折私が決定的な場面で見せる冷酷さを自分自身で説明出来ないという問題があった。そしてこの乖離もまた、私が心と格闘する1つの重要な要因であった。

ありていに言ってしまえば、私の対人的な感性は相当にシビアであるということ、面倒くさがりのためにマメさを欠くということ、繊細さゆえ積極性に欠けるということ。

「好きだから優しくする、嫌いだから優しくしない」というように、限定的・流動的な感性を行動の根拠として「優しくする/しない」を決めるというやり方には、(私の場合)限界があるのではないか。私の感性は限定的で、しかも流動的であるので、それに基づいた行動というのは原理的にどうしても一貫性を欠いてしまう。優しい人間になるためには、優しさの一貫性というものが不可欠であると私は考える。なぜならば、一貫性を欠いた優しさは、概して不気味だからだ。

もちろん、いつか書いたとおり、優しさの対価として見返りを本能レベルで求めるという問題もある。

優しさに一貫性を付与し、かつ見返りを求める気持ちを処理するにはどうすればよいだろう。
感性を変えるべきか?もちろん、否である。感性が変わることは期待できない。
したがって、行動規範となるべき感性を変えられないのなら、いっそ別の行動規範を用意すべきであろう。『ノルウェイの森』の永沢さんは、「紳士であること」を行動規範としていたが、私の場合は何が適しているのだろうか。「どういう振る舞いが『格好いい』か」というのが、今のところ有力である。これがなぜ有力なのか説明するのは難しいがあえて言えば、過去の行動を振り返ってみて、この振る舞いがダメだったと思えるものは総じて客観的に「ダサい」ものであったと言えるからである。人間として、男として。

しかし、そもそも決定的な場面で行動規範が感情に劣後してきた経験が多いわけで、それをどうすべきかという話をしているのに、「じゃあ、行動規範にのっとって行動しましょう」では何の解決策にもなっていない。それに私に欠けているものは無論「かっこよさ」だけではなくて、「マメさ」だったり「安定的な積極性」だったり「デリカシー」だったり「お願いする強さ」だったりするわけだ。
ただそれはそれとして、「感性は優しくなくてよいから、せめて行動は優しくする」という決め事は立てておきたい。面倒くさがってる自分を否定しなくていい、それでも面倒くさがらずに自分から悩みを聞いてあげること。嫌いな人間に対して施す優しさの最低限レベルを上げること。当たり前だが、関係を絶やさずに・かつ展開していくためには、それ相応のリスクを背負わなければならない。

優しくしたいときに優しくするのは誰にだって出来ることで、ポイントは「優しくしたい気持ちが無いときに、どれだけ優しくなれるか?」というところにあり、それは紛れもなく1つの高等技術であり、能力である。

かようにして、あくまで対人関係という枠組みの中で自分を規定して、「課題」にアプローチするというやり方にもやはり限界がある。対人的な魅力だけではなくて、存在的な魅力も獲得していかなければならない。それも、私の変えるべきでない部分を変化させないレベルで。最近私が「この人は存在的に魅力的だ」と思えるのは、「自分の理想にひたむきに向かう姿勢を持った人」「好きなものを誰憚らず好きだと言える人」なので、まずはそういう理想を追求していくことも必要になってくるだろう。その手の能力はむしろ対人というカテゴリーというよりも、これからの将来や自己認識において、という側面が大きい。そんな風になっていければ、果たして私の欠陥だらけの認知機構も変わっていけるだろうか。

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みかきもり

Author:みかきもり

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