眠らない

新しくバイトを始めた。コンビニの夜勤である。
色々覚えることも多くてなかなか大変だが、試験勉強と並行しての夜勤ということで、それなりに日常生活に適度の緊張感が戻ってきて精神的に張っている。良いことだ。
試験に合格するにしても、不合格にしても、1年を目途としてお金を貯めて、再び東京で暮らすことが出来たらいいなぁというのが今のところの願望である。

今日はまだ数回目といったところだが、2時の雨上がり後の涼しい空気を感じながら帰るのはなんとも清々しくて良かった。でも、つい数ヶ月まで続けていたバイトのことを忘れたくなくて、従業員番号のパスワード4桁を前のバイトの従業員番号にしたのが我ながら可笑しかった。

自動車学校の方は、仮免をようやっと取ることが出来た。
車の運転は本当に難しい。そして怖い。でも今のところ全然楽しくないのにもかかわらず、自分はいつか運転にすっぽりはまっちゃうだろうなという謎の重力みたいなものを感じる。
色々慣れないことばかりで疲労感もあるけれど、とりあえずは試験勉強メインで詰めていかなければなぁと思います。

夜の女王

・自己否定・自己不信の正体
①理性が感情に劣後
②年齢相応の社会的身分・経験の不足

・「弱者に対して強い」の心理について。
「弱者を見下したい」のではなくて、「強者を見上げたい」のではないか?
彼にとっての好意が尊敬によって構成されていると考えれば、尊敬できない相手には好意を施す根拠がない。逆にいえば、一旦相手を尊敬できる人だと見なせば、その相手に対しての従順具合も極端に高くなる。でも一般的にはそうじゃないんだよね、尊敬できない相手を好きになることもあれば、尊敬できるけど好きにはなれないというのがありえるのが普通なのだろう。こういう手合いの人間が、SとMを兼ね備えているようにみえるのはそういう理由が潜んでいるのかもしれない。
誤解されがちなように、打算で動いている…というわけじゃなくて、実は素直な感情で動いているだけであり、ただ当人にとっての「素直な感情」の構成要因が他者とは違っているというだけの話。

・性格が悪いことそれ自体よりも、その良し悪しについての自認と実体との乖離が甚だしい方が現実的には対応に困るのではないか。
自分の性格の悪さを自認していったほうが、長期的には安定するのかもしれない。凄く優しいときと凄く冷たいときがあるよりは、一貫して冷たい方が安心できるかも。

せをはやみ

自己否定感の正体は「感情が理性に優先する」、あるいは「感情が理想とするものと、理性が理想とするものとの乖離」なのではないかと思い、いつものようにぐるぐる考えていたけれどやっぱり上手くまとまらなかった。この堂々巡りを打破しようという明確な意図があったわけではないけれど、ためしに「感情 理想」で検索をかけてみたら、偶然にも同じ問題を考えている人のブログに出会った。
私が抱えているより少し程度が甚だしくて、私より少し多くの年月を生きている人だった。そしてとても質量のある文章だった。

これは蛇足だが、私が驚いたのはこのブログの別の記事を、全く別の経路で数日前に偶然目にしていたことである。こんなこともあるんだなぁ。

『モアナと伝説の海』②

1回目、2回目と観たときは、それこそ映像と音の迫力に飲まれっぱなしだったけれど、この感覚どこかで味わったことがあるなぁってずっと考えていた。そして今日(3回目)観に行って気付いたけど、これはさながらディズニーランドのアトラクションに乗っているような感じだ。

どうして3回目を観に行ったのか?

初めてこの映画を観たとき、直感的に「これはとんでもなくヤバイ作品だ」と感じたのだが、映像とか音とかそういった「表層」が強すぎて、そっちのほうに感性を全部持って行かれてしまったがゆえに、物語の中に入り込む余裕が無かった。アトラクションとしての要素が強すぎて、いまいちこれはどういう物語なのかが把握出来ず、なんとなく物足りなかった。だから、この作品を繰り返して観ることによって、そういう「表層」に慣れ、したがってこの映画をアトラクションとしてだけではなく、あらためて読み物として楽しめるだろうと考えたのだ。
そしてその試みはある程度成功した。

主題は「本当の自分の確立」。
もしこれをモアナが求めていくだけなら、この映画はただありきたりなテーマについてありきたりな結論を出しただけの、ちょっと映像が綺麗な作品だったな、という印象だけで終わったと思う。この映画のしっかりしているところは、色々なキャラクターが各々「本当の自分」について異なった問題を抱えていて、それを各々の異なった方法で克服していく、あるいは受容していくという点にある。多角的にアプローチしていくことで、ありふれたテーマが素直に心に届いてくる。

モアナは最終的に「本当のわたしは、島も好きだし、海も好きだよ」(だから、海に出っぱなしなわけじゃなくて、ちゃんと島にも帰ってくる→ラストで島に積まれた歴代の石の上に貝殻を乗せるシーンが象徴的)というところに行き着く。タマトアは大嫌いな「本当の自分」をゴージャスさによって徹底的に隠すことによって、新しい自分を発見することが出来た。

しかし、この主題について最も深く葛藤してきたのは、やっぱりマウイなのだと私は思う。神の釣り針で成果をあげることで、人々の称賛を得て、根本的な愛情の渇望を取り繕ってきたマウイにとって、神の釣り針というものは「釣り針がなければマウイじゃなくなる」と言わしめるほど大切なものだった。マウイが思う「本当のマウイ」は、神の釣り針という道具に依拠せざるを得ないほどに脆弱なものなのだ。だからこそ、最後の「釣り針があっても、なくても、俺はマウイだ」というセリフによって、マウイが自分の最も奥底にある問題に打ち勝ったんだなぁというのが観客に分かるようになっている。マウイ、ほんとかっこいい。

そして、だからこそ、テ・フィティに着く前に自信を失っているマウイに対してモアナがかけた、「(あなたを)神々が見つけたのには、理由があるのよ。…でもね、あなたをマウイにしたのは、あなたよ」という言葉は、マウイにとってどれだけ計り知れない価値を持つかが感じられるようになっている。神の釣り針のおかげじゃない、愛情に飢えていたからじゃない、本当のマウイが強くて優しかったから、人々を助けてこられたんだと。
こんなにダイレクトな言葉をかけてあげられるモアナの優しさも素敵だなぁとしみじみ思うし、こんな風に誰かを認めることができるモアナすごいとも思う。こんな風に他人を認めてあげられるというのは、強さ以外の何物でもないから。

そしてそして、このすぐ後にマウイが言った「もし俺が海なら…そうだなぁ、巻き毛の、お姫様じゃない子を探して、同じことをするだろう」という言葉も素晴らしい。このセリフの伏線として、マウイがモアナをお姫様よばわりしてまともに取りあわないくだりがある。マウイがあえてモアナのことを「お姫様じゃない子」と呼ぶことで、マウイもまたモアナを認めたのだ。


この「認め合える関係の強さ」というのが、『モアナと伝説の海』における副題なのではないか、というのが私の意見である。
確かに、映像も音も文句なし、アクション映画としても最高で、おばあちゃんのシーンも感動的だ。ディズニープリンセス像を覆したという点で、ディズニー史において意義のある作品となったかもしれない。しかし『モアナと伝説の海』を白眉たらしめている決定的な要素というのはそこじゃなくて、「モアナとマウイの関係」の中にあるんじゃないかなぁと思う。少なくとも私の中でこの映画が特別になった理由はそこにある。
認め合える相手と協力して、互いの瑕疵を治癒していく姿は、本当に美しくて心打たれる。真の関係性というものはこうであるべきなのだ。たとえ一時的には揺らぐことがあっても。

『アナと雪の女王』にも通じるものがあって、存在の一番根っこにある瑕疵が浄化されるような感じ。
どちらの映画も、心の深海に届いてくる光のようで、私の行き先を照らしてくれるのかもしれない。

『モアナと伝説の海』

『モアナと伝説の海』観た。すごく…すごかった。悲しすぎる出来事があると逆に泣けない、みたいな感じで、ただ「圧倒されたなー」という記憶しか残らなかった。映像の美しさと音楽の高揚感が強すぎて、物語としてどうだったか?とか、何を伝えたかったのか?とかが全然わからなかった。分からなさすぎたので次の日もう一回観に行ったけど、やっぱりよく分からなかった。映画というより、なんかライブを観ているような感じ。『ライオン・キング』に近いものがあるかもしれない。自分の中でこの映画が消化されるまではまだ時間がかかりそうで、そのあとにやっと感情が追いついてくる感じなのだろうなぁ。

玻璃の心

「親友はずっと親友でしょ、ね」
私は肉を焼く手を止めて、突然いつもの思索の穴に放り込まれてしまった。
ええと、ここで思い出すべき言葉は何だったっけ?とにもかくにも、その言葉によって呼び起こされた感情を考えることを留保して、私は肉を焼いて、彼女と会話を続ける必要があった。その為のマントラなんてあったかな。「誰もお前のこと見てないよ」?違う。そうこうしているうちに、心の出力が途端に下がっていく。何でこんなことしてるんだろう?もう会わなくてもいいかもな。そんなことを一瞬でも考えている自分にまたびびる。

現状、異性として好きかどうかという判断はさておき、かつては自明に成立していたこの友情も、今となっては必死こいてギリギリのところでバランスが保たれているような、そんな危ない関係性になってしまったことを、少なくとも私は感じていた。相手はどう感じているかはわからない。抜群の洞察力と掌握力を兼ね備えている彼女のことだから、もしかしたら私の気持ちの変化を(もしくは変化の兆しを)、敏感に感じ取って、先手を打って境界線を巧妙に引いていってるのかもしれない。でもおそらくは、さすがの彼女でも、いわゆる「男女間の友情」を無垢に信じているという可能性の方が高い気がする。わからない。この人のことは、知れば知るほど分からなくなる。

先のフレーズは、しかし全然違う文脈から出てきたものである。「恋人と違って親友はずっと親友でいられるから、私たちの関係はずっと続くよね」という極めてポジティブな意味合いだったことは頭ではわかっている。そのときもわかった。わかったのに、「え、どういう意味だ?」と、心は思ったという事実が、とても大きい。それは君の定義じゃないか。それは君が勝手に引いた境界線じゃないか。

「互いに異性としての魅力は感じないけど、人間としての魅力は感じる」みたいなものが共通理解としてあるから、この男女間の友情は自明に必然に成立する――という考え方は、確かに昔はあった。名実ともに、互いの人生の中でも稀有な友情であることに間違いはない。でもどうやら、その前提となっている考えには実は色んな瑕疵があるんじゃないかということに気付き始めたのは最近のことである。そのとき彼女には彼氏がいて、私には好きな人がいたから、「偶然に」そういう形式を(私は)選ばざるをえなかったのではないだろうか?彼女は喜んでこの形式を選んだのに対して、私は仕方なくこの形式を選んだのではないだろうか?

友情と恋愛感情とを、人は実に見事に、仕分けられるものだよな。私には全然無理だ。友情と恋愛感情はいつだって溶け合っている。親友のことを好きになることだって全然ありえることだ。でもどうやら、世間的にはその考えは少数派みたいだし、彼女にとっては全くそぐわない類の考え方みたいだ。色んなことを同じように感じていたように見えて、実はこんなに互いを勘違いしていたんだなというのは、もはや畏怖の領域である。

私がこのもやもやした気持ちを、もっと確たるものに昇華させないように必死で我慢しているのに、という気持ちはやっぱり無視できない。少しはこの気持ちの存在を認めてあげないといけない。私が今こうして傷ついているのは正しいと、私は認めてあげなくてはいけない。こうして怒っているのは正しいことだと。自然なことだと。

ああ。さっき唱えるべきマントラは、「自分の気持ちも大事にする」なんだ、と思った。
大事にするというのは、決してその気持ちに基づいて行動するということを意味しない。「自分が今こうして感じていることは、普通のことなんだ」って、相手や世間じゃなくて他ならぬ自分が認めてあげること。お前はおかしくないよ。そうしてわだかまりは溶けていく。

焼肉を食べて、映画を見て、家まで送って、いつものように素敵な時間だった。翌日は彼女の誕生日だったので、ちょっとしたプレゼントを渡した。きっとこの関係は、気持ち的にも構造的にも(互いの社会的地位の変化によって、物理的に会える時間が作れなくなるという意味)、思うほど永くは続かないだろうという予感が私にはある。だからこそ、私はどうしても今回の彼女の誕生日を祝いたかった。誕生日は嬉しい日であるべきだけど、その実、寂しい日であることのほうが多い。次に祝えるという保障はどこにもない。誕生日を祝うというのは友達と恋人とではどんな違いを作るべきかとか考えずに、どう思われるかなんてもう知らない、見返りなんかもらえなくてもいい、私は祝いたいから祝うんだという感じだった。
でも案外、世の中の「男女間の友情」なんてものは、こんな風にして成り立っているように見えるんだろうなという感じがする。

素直に自分の気持ちも認めてあげて、誕生日も祝えて、そのときの雰囲気も壊すことがなくて、今回の私はよくやったなと思う。この関係と、この日感じたことを糧にして、私はしっかり大人になっていきたい。

熱暴走

もしかして、諸々の問題の大部分は「自意識が(否定的な方向に)過剰」ってことに尽きるんじゃないか?

勝手に相手の心に否定的なものを読み取ったり、不特定多数に向けられた発言を「自分のことを言われたんじゃないか」と感じて敵意を抱いたり、友人の楽しそうな姿を見ると不当に傷ついたり、自分の細かな欠点を気に病みすぎたり、色々なことを考えすぎて結局行動にうつせないことが多くて総体的にみて消極的になっていたり、才能を競うことを恐れたり。

迷ったときは「誰もお前のことなんか見てねーよ」と自分に言ってみるのを忘れないようにしよう。

海の底

「ポテンシャルとしての魅力を獲得していくことによって、人間関係を豊かにする」
というのが、ここ数年のことを振り返ってみるに、私のテーマだったように思う。ポテンシャルとしての魅力というのは、つまり「顔が良い」「おしゃれだ」といった外面的な魅力と、「優しい」「面白い」といった内面的な魅力のことである。
しかしこのテーマにもそろそろガタが来ていて、たとえば、「単に魅力的な人間になれたとしても、それだけで理想の関係が生まれるわけではない」ということに気付きはじめたり、「私にとっての『豊かさ』は一般的な価値観とは少し違っているのではないか」という疑念を抱き始めたり、「そもそも魅力ってなんだ」という話になっていたりするのである。もちろん、私にはまだまだポテンシャル的な意味で足りてない部分は多いけれど、それを100に近づけていくのは時間経済的に厳しいうえに、それほどの意義もないのではないか、私に決定的に足りてないのはそういうところじゃないんじゃないか、というところに行き着いたのである。根本から生き方を変える岐路に、もう来ているんじゃないか。

あれこれ考えて細分化した結果が次の通りである。

①本当に治すべき欠点を数個だけピックアップして、治すように努めること。
②自分は悪くないと考えられる余地があるかぎり、自己を肯定すること。
③さまざまなことを経験していくこと。
④好きなことを見つけて、全力で取り組むこと。


①②はマイナスの克服、③④はプラスの獲得がそれぞれ企図されている。

①本当に治すべき欠点を数個だけピックアップして、治すように努めること。
・まず、「本当に治すべき欠点」とは何か?
自分の欠点を挙げていけばキリがない。それらを全てピックアップするのも治していくのも不可能だし、治していこうとしても自分を嫌いになっていくだけである。何より、全ての欠点を潰す必要性は極めて薄い。なぜならば、たいていの欠点はポジティブに換言することが出来るし(面接対策でよく言われてるクソみたいなアレである)、むしろそれらを重く捉えてネガティブな雰囲気を帯びる方がマズいからである。
以上のことから、もう一つ大事な結論を導くことが出来て、今回はこちらの方が大事である。つまり、「どうしてもポジティブに言い換えることの出来ない欠点こそが、本当に治すべき欠点である」。

私は今のところ、2つだけその「本当に治すべき欠点」を見つけ出した。
「急に不機嫌になること」と「服従してきた人間を本能的に突き放したくなる性質」である。
2つとも、私の中で独立した1つのテーマたりえます。これらのことをされたこともあるけれど、そういう人たちのことを私は今も全く許していないし、ということは、私がそれをしてきた人たち(往々にして彼らは私にとってとても大事な人だった)は、きっと私のことを許すことはないだろう。

・次に、「治すように努める」とはどういうことか。
逆説的なことを言うようだが、「本当に治すべき欠点」は、自分の内面の深い部分に根ざしているために、おそらく治せない。だからせいぜい如何にして「マシ」にしていくかくらいのことしか期待出来ないだろう。
ただ、たとえば「急に不機嫌になる」を例に挙げるなら(それにしても、本当に厄介なやつだ)、それは「相手に感じたモヤモヤを上手く処理できない」という欠点が前提としてあり、「それを相手に腹を割って話す」という勇気を気軽にもつことが出来ないという欠点もある。なんとなく、これらのことは上手な人に学んでテクニカルな手法で大幅に緩和できそうだとは思う。
いずれにしても、それを自覚することで、出来るだけ隠していけるくらいには持っていきたい。

②自分は悪くないと考えられる余地があるかぎり、自己を肯定すること。
ちなみに、モヤモヤしたりそれを処理できないといったこれらのことを私はいま「欠点」と称したが、これは私は「本当に治すべき欠点とはいえない」と位置づけている。「モヤモヤを感じるのは当たり前だ。腹を割って話す勇気がないのは、それだけ協調主義だからだ」というように換言できるからである。ここで大事なのは、その換言した内容が本質的かどうかではない。そういう風に換言できる余地があるかどうかこそが大事なのである。そうは言っても私自身、やっててすごく違和感があるけれど。「本質をある程度ないがしろにしてさえ、自己肯定感を確保する

積極的に自分を肯定するというのはなかなかすぐには出来ないことだけど、自分を否定しないというのは比較的楽に出来そうである。そして、私にとってこの深い問題を解決していくためには、本当に細かい場面でその都度「自分を否定しない(肯定する余地を探す)」癖をつけていって、無意識にそういう捉え方・考え方が出来るレベルまで内面化していかなければならない。無論、ときには自分を徹底して責めなければならない場面もあるだろう。しかしそれは極めて限定的な場面でしかやってはいけない。自己肯定は最優先課題の1つだから。
しかし、このやり方を執るということは、かなりのリスクを背負うことにもなる。(本質から目を逸らす癖がついたりとか、他人と衝突する機会が増えるとか)。そのことについては留意しておく必要がある。

③さまざまなことを経験していくこと。
理屈主義から経験主義への転換。もし成功すれば私の中で最大級の変化となる。
・「経験してみなけりゃわかんねぇ」たぐいの問題について、あれこれ考えるという無駄を省きたい
・私が尊敬する人は総じて、色んなことを経験している
・未経験さからくる自己否定感の克服
といった狙いがある。
理屈で考えるというのは私にとって最もメインの武器であり、それをあえて捨て去る必要が出てきたということになる。

未経験と戦うためには、しかし様々な問題がある。
まず怖さと戦う勇気がなければならない。次にめんどくささと戦わなければならない。そしてお金。さらに時間。それらを犠牲にしてでも、経験を得る意義があるか…ということを、立ち止まって考え「ない」ことが、今の私に求められているわけですね…。

④好きなことや興味のあることを見つけて、全力で取り組むこと。

これはもっぱら直接的に、魅力の問題に絡んでくる話。メタ内面的な魅力の獲得が主な狙いだが、自己肯定にも関連している。

メトロノーム

私は決して優しい人間ではない(誤解されがちだがこれは謙遜などではなく、単に事実を述べているに過ぎない)。しかし、優しい人間でありたいという気持ちが非常に強いというのもまた事実である。「物腰が穏やか」「親切だ」という意味では、確かに私は「優しげ」である。それが仮に「優しさ」とはその内実を異にするものであれ、一定の価値があるというのは私も同意である。しかしこの「優しげ」と「優しさ」を長い間ずっと取り違えていたために、時折私が決定的な場面で見せる冷酷さを自分自身で説明出来ないという問題があった。そしてこの乖離もまた、私が心と格闘する1つの重要な要因であった。

ありていに言ってしまえば、私の対人的な感性は相当にシビアであるということ、面倒くさがりのためにマメさを欠くということ、繊細さゆえ積極性に欠けるということ。

「好きだから優しくする、嫌いだから優しくしない」というように、限定的・流動的な感性を行動の根拠として「優しくする/しない」を決めるというやり方には、(私の場合)限界があるのではないか。私の感性は限定的で、しかも流動的であるので、それに基づいた行動というのは原理的にどうしても一貫性を欠いてしまう。優しい人間になるためには、優しさの一貫性というものが不可欠であると私は考える。なぜならば、一貫性を欠いた優しさは、概して不気味だからだ。

もちろん、いつか書いたとおり、優しさの対価として見返りを本能レベルで求めるという問題もある。

優しさに一貫性を付与し、かつ見返りを求める気持ちを処理するにはどうすればよいだろう。
感性を変えるべきか?もちろん、否である。感性が変わることは期待できない。
したがって、行動規範となるべき感性を変えられないのなら、いっそ別の行動規範を用意すべきであろう。『ノルウェイの森』の永沢さんは、「紳士であること」を行動規範としていたが、私の場合は何が適しているのだろうか。「どういう振る舞いが『格好いい』か」というのが、今のところ有力である。これがなぜ有力なのか説明するのは難しいがあえて言えば、過去の行動を振り返ってみて、この振る舞いがダメだったと思えるものは総じて客観的に「ダサい」ものであったと言えるからである。人間として、男として。

しかし、そもそも決定的な場面で行動規範が感情に劣後してきた経験が多いわけで、それをどうすべきかという話をしているのに、「じゃあ、行動規範にのっとって行動しましょう」では何の解決策にもなっていない。それに私に欠けているものは無論「かっこよさ」だけではなくて、「マメさ」だったり「安定的な積極性」だったり「デリカシー」だったり「お願いする強さ」だったりするわけだ。
ただそれはそれとして、「感性は優しくなくてよいから、せめて行動は優しくする」という決め事は立てておきたい。面倒くさがってる自分を否定しなくていい、それでも面倒くさがらずに自分から悩みを聞いてあげること。嫌いな人間に対して施す優しさの最低限レベルを上げること。当たり前だが、関係を絶やさずに・かつ展開していくためには、それ相応のリスクを背負わなければならない。

優しくしたいときに優しくするのは誰にだって出来ることで、ポイントは「優しくしたい気持ちが無いときに、どれだけ優しくなれるか?」というところにあり、それは紛れもなく1つの高等技術であり、能力である。

かようにして、あくまで対人関係という枠組みの中で自分を規定して、「課題」にアプローチするというやり方にもやはり限界がある。対人的な魅力だけではなくて、存在的な魅力も獲得していかなければならない。それも、私の変えるべきでない部分を変化させないレベルで。最近私が「この人は存在的に魅力的だ」と思えるのは、「自分の理想にひたむきに向かう姿勢を持った人」「好きなものを誰憚らず好きだと言える人」なので、まずはそういう理想を追求していくことも必要になってくるだろう。その手の能力はむしろ対人というカテゴリーというよりも、これからの将来や自己認識において、という側面が大きい。そんな風になっていければ、果たして私の欠陥だらけの認知機構も変わっていけるだろうか。

影にかがよふ

九州北部ではなごり雪が降ったそうである。
私の住む街にも、あられが疎らに降っていた。
これから春になるのだろう。

音階を伴った声や、まだ訪れたことのないふるさとの樹氷を思わせる色、
この街にはないそれらをどんな風に位置づけたところで、また評価しようとしたところで、到底変えられないことがある。
それらのことが、私にとって懐かしい思い出でもあり、私の内部にある様々なものごとを規定しきっている、ということである。
それはまごうかたなき価値のあることであると、今なら強く宣言できる。

時間によって様々なことが濾過されていく中で、それでも今こうして手もとに残ったものが、きらびやかで落ち着いた気持ちになれる思い出ばかりであることに私は驚いた。その時から最近までずっと、これからも君のことを憎んで生きていくのだろうと思っていたから。
空間的・時間的に距離をとってみて初めて、楽しかったという印象だけが残る――そんな関係はそう簡単に作れるものではない。ここに至って初めて、その期間にさざめいた無数の出来事の点綴を、半ば活けづくりみたいにして、その色味だけを残すことに成功したのかもしれない。

私はもう、君と会うことはないだろう。
君にとって私にまつわる思い出なんて決して、そんな色味を帯びてはいないだろうから。
そして、私が犯した罪は決して、時間によってさえ意味を失いはしないから。

心に固く積もっていた深い根雪が、春とともにゆっくり溶け出して、私はその雪解け水の冷たさにおどろいた。
プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり
みかきもり/翠凜/りぬす

「本当の優しさ」「自分を好きになる」

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