はじまり

ボウリングと卓球でへとへとになるまで遊び、眠気を堪えながら焼肉を食べおえた私達は、国道を跨ぐ信号が青になるのを待っていた。

「明日起きたら絶対筋肉痛だ」と、27歳の彼女は笑い、
「明日来るならまだ若いってことだ」とうそぶく私は28歳になったばかりだった。

梅雨の予行演習のように朝から降りしきっていた雨は、焼肉店を出る頃ぱたりと止んだ。二人とも傘は持ってきていなかった。
信号が青になるまでのつかの間の時間で、彼女は自身が私に与えた第一印象のことについて話した。それは今にして思えば、彼女の心の核を伺わせるような吐露だった。やがて信号が青になった。私達は歩き始めた。

この交差点から電停(路面電車が停留する、駅のようなところ)までは、前回会ったときにも歩いたが、そこそこの距離があった。都会を離れてしばらく経って、すっかり歩く習慣を忘れた私にとっては、もし一人で歩くのであれば、割と苦痛に感じるくらいの距離だ。前回歩いた時はまだ外も明るくて、公園では小学生くらいの子供たちが楽しそうにボールを追いかける喧噪があった。私達と同じように歩いている人もいた。そして今日は既に夜で、この住宅街全体が早い眠りに就いているように静かだった。街灯は淡く路面を照らしていた。私は一瞬、この辺りで起きているのは二人だけのような錯覚に囚われた。そしてこの世界にある光が、街灯と自動販売機の蛍光灯と、遠い稜線を雲間から照らす青白い月だけしかないような感覚になった。

彼女はとてもゆっくり歩いた。私も歩調を合わせて歩いた。職場でみせるような俊敏な歩き方とはまるで違うなぁと思った。
「僕はあなたのことが好きになったんだけど」と私は言った。「あなたは僕のこと、どう思っているの」

――

彼女は小声で返事をした。私はわざと、いつもの冗談のように「なんて?」と聞き返した。彼女はくつくつと笑い出した。踏切を渡らずに私達はもと来た道を引き返して、またゆっくりと歩き始めた。本格的な南国の梅雨が始まる直前の、平成最後の春の宵だった。ふと顔を上げて遠くを見ると、国道と港湾地帯の間のささやかな街の光が、雪のように瞬いているのだった。

海淵

日常生活をおくる中でそれを自覚することは滅多にないのだが、何か極めて深い思考を必要とする(はずの)出来事にたまたま立ち会ったとき、自分の考えが極めて浅い段階で停止している――しかも、それが当たり前になっているということに気づかされる。

去年から今年にかけて、私は幸運にもこれまでにないほど多くの課題をクリアした。
これまで思い悩み、「呪い」とまで位置づけたような領域のことにおいても、実に大きな達成があった。
それらをクリアする最大の原動力となったのが、具体性であり、行動であった。ときには思考を切り飛ばすことが、何かを得る上では大切なのだと感じる場面も多くあった。

しかしながら、行動を重視するということがそのまま思考を軽視することに繋がっていたのかもしれないなと思うことが最近では増えてきたように思う。もちろん原因はそれだけではない。一時的な睡眠不足や、加齢を起因とする感性の摩耗もあるだろう。ただ、「それまでの、過去の陰の自分」を否定するあまり、端的に言えば何かを深く考える習慣を失ってしまい、しかもそのことに危機感を覚えすらしなくなっている。


浪人時代の予備校の課題で、ひとまとまりの文章を一週間かけて要約するというものがあった。
その課題を出す講師は「一週間かけて、じっくり、必死で考えろ」と言っていた。そう言われても、当時は漫然とその課題に取り組んでいたが、今にして思えば実に効果的な鍛錬である。

この前、ある文章を要約してみて気づいたが、何かの文章を要約するためは、深く深くその文章を読まなければならない。読みの深度を深め、より正確にその主張を理解し、主張の強弱を端的に反映させる。これらが三位一体となって、文章を「読む」能力を飛躍的に向上させる。そして、ただ読む力がつくだけでなく、より深い次元で思考を展開する能力や、集中して思考を継続できる能力がつくのである。

私の場合は、日本語で思考しているので、日本語の文章を読んだり書いたりすることがそのまま思考の強化に直結するのだと思う。


最近は仕事帰りに机に向かって、「試験の時のように」本を読んだり、詰将棋を解いたりしている(もっとも、詰将棋は「将棋語」を鍛えるものであり、むろん「将棋語」は日本語との互換性が無いのだが)。あるいは漢検の勉強もしている。頭を多角的に鍛える習慣を再びつけなおして、何かを考える深度を深くすることは、単に日常生活を豊かにする以上の意味が自分にとってはあるのではないかと考えている。


妖lunaクリア

妖々夢lunaticをクリアした。とてもうれしい。
4面のパターン化とか全然甘かったけど、まあよしとしよう。
それにしても、ボム無くなってから気合い避けしている時間が一番アツいですよね。

永lunaクリアから8年。
いつか取り組もうと思っていたら、こんな時間が経ってしまっていた。
8年越しの夢が叶ったぞ。

門司を見に

夜勤時の思いつきで、青春18切符で旅に出ることにした。
各駅停車でひたすら北上して、北九州あたりで一泊し、次の日に帰宅するという簡単な旅程を考えた。

しかし当日になっても、20代前半のころよく経験したような旅の前の高揚感はまるで無かった。
ここに至って切符代を出すことに最後まで躊躇している自分にも半ばがっかりしていた。しかし一旦電車に乗り込んでしまえば、あとは旅情が私を支配するだろうと考え、切符を買った。

駅で「なのはな号」を待つ間、ここ数年で急速に開けてきた町並みを眺めていた。私の職場や、いつも通っているスーパーや、近所の学校が見えた。その時、ここには1つ1つの宇宙が瞬いていて、全く関係のない銀河系どうしがチャネルによって繋がっているのだという、不思議な想念が私に訪れた。地表と宇宙という区分が揺らぎ、自分が何か1つの巨大な営為の一部である(一部になった)という感覚。夜勤明けで疲れた頭が戯れに思い描くデタラメのような概念に、ほんの数分だけ私は虜になった。
そのチャネルは相互の努力によって築かれ、その「無数さ」に私は畏怖を覚えた。

…「なのはな号」に乗り、旅が始まっても、気分が乗ってくることはなかった。
2回の乗り継ぎを経て、県境を越えても、変わらない。これには本当にびっくりした。
楽しみにしていたスイッチバックも、球磨川の雄大な眺望も、そこまでの感興をそそらなかった。単調な車窓も、ジョイント音も、ただただ退屈なだけだった。もはや八代で引き返してしまおうか?――そんなことまで思ってしまった程である。

車中でウトウトしているうちに八代に着いた。
せっかくだから(何がせっかくなのか、もう全くわからなかったが)門司までは行ってしまおう、明日は新幹線で帰ればいいやと考え、鹿児島本線に乗り換えた。そこから門司までの間で、記すことはあまりない。旅情を焚きつけることはもうとっくにあきらめて、しかし充電が切れかけていたスマホをいじることも出来ず、ただひたすらに門司到着を待った。八代から門司までは本当に長かった。実際に時間もかなりかかり、福岡に入るころにはもう夜が近かった。

門司に着いたのは20時過ぎであった。
門司港レトロの風情を楽しもうかと思ったが、趣深かった門司港駅は駅舎が工事中で、外も風が冷たく、しばらく散策しても全く体があたたまってこないほどだった。夜の海は暗く、街灯もなんだか寒々しい。
散々だな、と私は思った。

どうしてここまで一人旅を楽しめなかったのか。
わくわくできるモノが少なくなり、わくわくできる時間がだんだん持続しなくなるというのは、これほどぞっとするものなのか。子供のころに周りの大人がよく適当な感じで、ある種の社交的文句みたく、「楽しいことないかなー」とか「若いうちは楽しいことばかりでいいねー」とか言っていた、あの軽い口調の裏には、こんな遅々とした絶望があったのだろうか。

生きることを考えていくと最後には、「生きているだけで正解なのだ」と思う。
しかし私は認めたくない。この無為な「鉄旅」と同じように、人生があまりに無為に過ぎていき、しかも「それでいい」というのは怖すぎる。
"どこかに「正しい生き方」があって、未だそれを探しきれていない"という方が、何倍も救いがあるような気がして、でもそれは間違っているんだろう。

その日は博多のネットカフェで朝の始発を待ち、明けて熊本までは各駅停車で戻った。
復興途上の熊本城を見てから、新幹線で鹿児島に帰った。


小説を書く

数年前から挑戦しては何度も頓挫している。
そもそも小説を書こうとする人は、どういう動機で書き始めるのだろう。単純に何かの物語を書きたいから、という場合もあれば、何かを解き明かしたいから、というパターンもあるかもしれない。
私自身はやっぱり、大仰なものでなくてもいいから何らかのテーマ性が欲しいと思う。
しかしそもそも私はどのようなテーマ性を問題に出来るのか、またそれを問題にしたいと思えるのか、そして仮にそれらがうまくいったとして、どのような結論を決めることが出来るのだろうか。
そもそもそのテーマにはあらかじめ答えを出してから小説を書くべきなのだろうか。とか色々とモヤモヤしてしまう。きっと私の好きな小説には、必ずと言っていいほど何らかのテーマが伏流しているからそう逡巡してしまうのだろう。やはり最初は、あえてテーマ性とか考えずに好き勝手書いてみるべきか。

将棋

将棋ウォーズで指していて、1級になってもう一年が経とうとしている。
手筋を勉強したり詰将棋とかも解いたりしているが、なかなか強くなりませんなあ。
勝ちの将棋を連続で逃したりなどするともう心バキバキといった趣で、洒落にならんくらい腹が立ちますよね。

負けると悔しいから強くなりたいと願っていろいろ勉強したりするんだけど、藤井六段やその他のプロ棋士を見ていると、どれだけ強くなってもこの悔しさから逃げることは出来ないんだって思って、それがなんだか示唆的だ。技術的な弱さと、精神的な弱さに向き合っていくというのは、本当に難しくて不毛で。でも結局はまた将棋の駒の感じがなんだか恋しくなって戻ってきてしまう。早く初段になりたいなぁ。

こぎいでな

私が小学生の時分、数年間だけ過ごした島に旅行してきた。
そこで生まれたわけでも、長い年月を過ごしたわけでもないのに、そこを訪れるのは「旅行」というよりもむしろ「帰省」という感覚がぴったりくる。

私がよく遊んでいた公園の遊具は、長年の風雨でだいぶ朽ちていたが、それでもまだ撤去されずに残されていた。今も近くの子どもたちが遊んだりしているのだろう。島を離れて20年弱になろうとしているが、私が島を出て、そして上京して、帰ってきて…という感じで生きてきたその間じゅうずっと変わらず「ここにあった」というのが、びっくりするほど不思議な気がした。
この島の遊具や、まばらな集落や人、そして鄙びた海や空がずっと私の帰りを予感していたかのようにそこにあって、細かな記憶の粒が甦ってくるような心地がする。これは本当に不思議だった。

そんな感覚の名残と、帰りしな同窓生が船の中で見せた寂しそうな背中とが、私に忘れがたい余韻を残させたのであった。

眠らない

新しくバイトを始めた。コンビニの夜勤である。
色々覚えることも多くてなかなか大変だが、試験勉強と並行しての夜勤ということで、それなりに日常生活に適度の緊張感が戻ってきて精神的に張っている。良いことだ。
試験に合格するにしても、不合格にしても、1年を目途としてお金を貯めて、再び東京で暮らすことが出来たらいいなぁというのが今のところの願望である。

今日はまだ数回目といったところだが、2時の雨上がり後の涼しい空気を感じながら帰るのはなんとも清々しくて良かった。でも、つい数ヶ月まで続けていたバイトのことを忘れたくなくて、従業員番号のパスワード4桁を前のバイトの従業員番号にしたのが我ながら可笑しかった。

自動車学校の方は、仮免をようやっと取ることが出来た。
車の運転は本当に難しい。そして怖い。でも今のところ全然楽しくないのにもかかわらず、自分はいつか運転にすっぽりはまっちゃうだろうなという謎の重力みたいなものを感じる。
色々慣れないことばかりで疲労感もあるけれど、とりあえずは試験勉強メインで詰めていかなければなぁと思います。

『モアナと伝説の海』②

1回目、2回目と観たときは、それこそ映像と音の迫力に飲まれっぱなしだったけれど、この感覚どこかで味わったことがあるなぁってずっと考えていた。そして今日(3回目)観に行って気付いたけど、これはさながらディズニーランドのアトラクションに乗っているような感じだ。

どうして3回目を観に行ったのか?

初めてこの映画を観たとき、直感的に「これはとんでもなくヤバイ作品だ」と感じたのだが、映像とか音とかそういった「表層」が強すぎて、そっちのほうに感性を全部持って行かれてしまったがゆえに、物語の中に入り込む余裕が無かった。アトラクションとしての要素が強すぎて、いまいちこれはどういう物語なのかが把握出来ず、なんとなく物足りなかった。だから、この作品を繰り返して観ることによって、そういう「表層」に慣れ、したがってこの映画をアトラクションとしてだけではなく、あらためて読み物として楽しめるだろうと考えたのだ。
そしてその試みはある程度成功した。

主題は「本当の自分の確立」。
もしこれをモアナが求めていくだけなら、この映画はただありきたりなテーマについてありきたりな結論を出しただけの、ちょっと映像が綺麗な作品だったな、という印象だけで終わったと思う。この映画のしっかりしているところは、色々なキャラクターが各々「本当の自分」について異なった問題を抱えていて、それを各々の異なった方法で克服していく、あるいは受容していくという点にある。多角的にアプローチしていくことで、ありふれたテーマが素直に心に届いてくる。

モアナは最終的に「本当のわたしは、島も好きだし、海も好きだよ」(だから、海に出っぱなしなわけじゃなくて、ちゃんと島にも帰ってくる→ラストで島に積まれた歴代の石の上に貝殻を乗せるシーンが象徴的)というところに行き着く。タマトアは大嫌いな「本当の自分」をゴージャスさによって徹底的に隠すことによって、新しい自分を発見することが出来た。

しかし、この主題について最も深く葛藤してきたのは、やっぱりマウイなのだと私は思う。神の釣り針で成果をあげることで、人々の称賛を得て、根本的な愛情の渇望を取り繕ってきたマウイにとって、神の釣り針というものは「釣り針がなければマウイじゃなくなる」と言わしめるほど大切なものだった。マウイが思う「本当のマウイ」は、神の釣り針という道具に依拠せざるを得ないほどに脆弱なものなのだ。だからこそ、最後の「釣り針があっても、なくても、俺はマウイだ」というセリフによって、マウイが自分の最も奥底にある問題に打ち勝ったんだなぁというのが観客に分かるようになっている。マウイ、ほんとかっこいい。

そして、だからこそ、テ・フィティに着く前に自信を失っているマウイに対してモアナがかけた、「(あなたを)神々が見つけたのには、理由があるのよ。…でもね、あなたをマウイにしたのは、あなたよ」という言葉は、マウイにとってどれだけ計り知れない価値を持つかが感じられるようになっている。神の釣り針のおかげじゃない、愛情に飢えていたからじゃない、本当のマウイが強くて優しかったから、人々を助けてこられたんだと。
こんなにダイレクトな言葉をかけてあげられるモアナの優しさも素敵だなぁとしみじみ思うし、こんな風に誰かを認めることができるモアナすごいとも思う。こんな風に他人を認めてあげられるというのは、強さ以外の何物でもないから。

そしてそして、このすぐ後にマウイが言った「もし俺が海なら…そうだなぁ、巻き毛の、お姫様じゃない子を探して、同じことをするだろう」という言葉も素晴らしい。このセリフの伏線として、マウイがモアナをお姫様よばわりしてまともに取りあわないくだりがある。マウイがあえてモアナのことを「お姫様じゃない子」と呼ぶことで、マウイもまたモアナを認めたのだ。


この「認め合える関係の強さ」というのが、『モアナと伝説の海』における副題なのではないか、というのが私の意見である。
確かに、映像も音も文句なし、アクション映画としても最高で、おばあちゃんのシーンも感動的だ。ディズニープリンセス像を覆したという点で、ディズニー史において意義のある作品となったかもしれない。しかし『モアナと伝説の海』を白眉たらしめている決定的な要素というのはそこじゃなくて、「モアナとマウイの関係」の中にあるんじゃないかなぁと思う。少なくとも私の中でこの映画が特別になった理由はそこにある。
認め合える相手と協力して、互いの瑕疵を治癒していく姿は、本当に美しくて心打たれる。真の関係性というものはこうであるべきなのだ。たとえ一時的には揺らぐことがあっても。

『アナと雪の女王』にも通じるものがあって、存在の一番根っこにある瑕疵が浄化されるような感じ。
どちらの映画も、心の深海に届いてくる光のようで、私の行き先を照らしてくれるのかもしれない。

『モアナと伝説の海』

『モアナと伝説の海』観た。すごく…すごかった。悲しすぎる出来事があると逆に泣けない、みたいな感じで、ただ「圧倒されたなー」という記憶しか残らなかった。映像の美しさと音楽の高揚感が強すぎて、物語としてどうだったか?とか、何を伝えたかったのか?とかが全然わからなかった。分からなさすぎたので次の日もう一回観に行ったけど、やっぱりよく分からなかった。映画というより、なんかライブを観ているような感じ。『ライオン・キング』に近いものがあるかもしれない。自分の中でこの映画が消化されるまではまだ時間がかかりそうで、そのあとにやっと感情が追いついてくる感じなのだろうなぁ。

プロフィール

みかきもり

Author:みかきもり

最新記事
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
QRコード
QR